あとの祭り 関の山

綾傘鉾
京都では祇園祭がスタート。
今年の見どころは「あとの祭り」の復活。山鉾巡行が毎年17日(木)に行われますが、これは昭和41(1966)年から一本化されたもので、それ以前は前祭りと後祭りに分かれていたそうです。って50年も前の話なんで、後祭りは見たことはないんですが(笑)
後祭りの巡行は前祭りの1週間後24日(木)に行われます。前祭は23基が巡行、後祭は10基が巡行しますが、後祭りの一番最後に登場するのが大船鉾。幕末に長州と幕府・薩摩郡が激突した「禁門の変」の時に燃えてしまい休み鉾になっていたのを復活するそうです。蛤御門の変という言葉が出てくるのは、いかにも京都らしいですね。
「今さら悔やんでもあとの祭りだ」と言ったりしますが、この語源が祇園祭というのが有力だそうです。祭りにまつわる言葉としては「関の山」もあります。これは三重県関町の祭りに出る山が立派で、これ以上の山は作れないだろうということから、限度を「関の山」というようになりました。
祇園祭では綾傘鉾の棒振り囃子が好きなのですが、こちらも江戸時代の大火で鉾が燃えてしまいましたので、現在は棒振り囃子の形で祭りに参加しています。曳き鉾での復活が望まれますね。

夏越の祓

夏越の祓
上半期がまもなく終了します。
半年の罪や穢れを祓い、残り半年の無病息災を祈願する神事が夏越の祓。今年の「夏越の祓」は6月30日(月)に行われますが、この日は名古屋にいますので、事前に河内一ノ宮・枚岡神社へ行き、家族の名前と生年月日を紙の人形(ひとがた)に書き、納めてきました。
夏越の祓って全国的な行事だと思っていたら、関西など西日本が中心なんですね。701年の大宝律令によって宮中の年中行事に定められたそうで、1300年も続く伝統行事です。
この時期、関西の神社へ行くと境内に茅の輪があり、この茅の輪を左に1回、右に1回、また左に1回まわってくぐりぬけます。くぐりぬける時に拾遺和歌集の歌を歌います。
「水無月の 夏越の祓するひとは ちとせの命 延ぶといふなり」
京都では和菓子の「水無月」という白の外郎生地に甘い小豆がのった和菓子を食べます。小豆は豆まきでも使われるので、魔払いの意味があります。

一宮神社(神戸)

一宮神社
三宮神社、二宮神社の次は一宮神社。
一宮とは、地域の中で最も社格の高い神社で、例えば東大阪(河内国)は枚岡神社です。神戸は摂津国なので一宮は住吉大社になります。
神戸の一宮神社はこの一宮とは違って、生田神社を囲むように点在している生田裔神八社(いくたえいしんはちしゃ)の一番目です。場所は三宮駅から北野(風見鶏の館など異人館街)へ行く途中。北野坂を少し上がり始めたところにあり、近くには神戸電子専門学校があって学生がたくさん歩いています。
ひょうご産業活性化センターの入っているサンパルから一宮神社へは歩いて10分ほどですので、昼休みに行って帰ってきました。小さな神社なんですが、酒樽が並んでいて、さすがは灘の地元ですね。
残りは四宮神社~八宮神社がありますが、三宮駅から、けっこう遠いので、こっちはしばらくおあずけ。次は兵庫城跡を見にいかなくては。

23歳で散った木村重成 若江の戦い

木村重成
若江城のあるあたり一帯で大坂・夏の陣「若江の戦い」が行われました。
若江城は大坂城築城に伴い城が破却されていたので、城はなく、当時は湿地帯だったようです。大坂・冬の陣の和睦条件で大坂城の堀は埋められていたので豊臣側は籠城できず野戦するしかありません。
大阪城の東部で行われたのが若江の戦い。1615年なので、400年ほど前になります。井伊直孝、榊原康勝らを迎え撃ったのが木村重成。生年が分かっていませんが、当時23歳だったという説が有力です。大河ドラマ「真田丸」ではイケメン俳優が演じるんでしょうね。
木村重成の母は豊臣秀頼の乳母で、秀頼の小姓から重臣となりました。冬の陣が初陣で、今福の戦いで佐竹義宣軍を窮地に追い込み、敵味方にその名前が知られました。
若江の戦いで木村重成は奮戦し、藤堂隊、井伊隊に大打撃を与えましたが、ついに討ち取られてしまいました。首が家康の元へ届けられましたが、頭髪に香が焚きこめてあり、その覚悟を感嘆させたという逸話が残っています。
写真は蓮城寺にあ木村重成陣所跡で、付近には若江木村通という交差点があります。

コリアタウン(鶴橋)

コリアタウン
午後、鶴橋で打ち合わせだったので、少し早い目に出かけてコリアタウンをぶらついてランチを食べてきました。
日本全国にコリアタウンはありますが、大阪のコリアタウンは歴史が古く、できたのは1500年前。当時は百済郡(くだらのこおり)という地名でした。
631年に百済の王子が来日したのですが、唐・新羅連合軍に攻められて祖国・百済が滅びてしまいます。起死回生を狙って天智天皇が起こしたのが白村江の戦い。ご存じのように日本軍は大敗してしまいます。故郷をなくしてしまった王子は、日本に渡来人として定住。また百済からたくさんの難民が亡命してきました。こうして出来たのが百済郡。
もっとも当時の渡来人は長い間に日本に融合してしまいましたので、現在は済州島からきた在日コリアの人たちの町になっています。これは1923年に韓国の済州島と大阪を結ぶ直行船が就航した影響が大きいですね。
コリアタウン、平日だというのに観光客、しかも女性が多かったですね。修学旅行生の団体もいました。白菜キムチを買って、焼肉定食を食べに店に入るとワールドカップの放送が店内で流れていましたが、ハングルでした。(笑)
そういえば大阪には百済駅という貨物駅があります。

二宮神社 神戸

>二宮神社
ひょうご産業活性化センターで窓口相談。
お昼休みにサンパル近くにある二宮神社へ行ってきました。神戸には三宮神社だけでなく一宮神社から八宮神社まであり、これが生田神社・八柱の裔神を祀った生田裔神八社。生田神社を取り囲むように配置されています。
二宮神社近くにあったのが二宮商店街。古い商店街で一角には、今や懐かしい公設市場がありました。ただし空いている店は少なく、和菓子屋のご主人に聞いたら、震災後の補助金が出た時に皆、出ていってしまったということでした。なかなか雰囲気がある商店街で、三宮のすぐ近くにこんなところがあるんですね。

斎藤さんの故郷 斎宮

斎宮
三重で多い名字が伊藤。
平安時代後期、藤原氏が朝廷中にあふれたため、新しい名字を名乗りました。伊勢守となった尾藤基景が起こしたのが伊勢守と藤原を組み合わせた伊藤という名字で、濃尾平野一帯で広まりました。松坂屋の創業家も伊藤です。
斎藤さんの故郷も三重県です。伊藤と同じく藤がつくので藤原氏の末裔。伊勢神宮へ奉仕するのが斎王で天皇の内親王または女王(親王の娘)が任命されました。斎王に仕えるための役所があり、これが斎宮寮。藤原北家だった藤原叙用(のぶもち)が斎宮寮のトップである斎宮頭になったところから斎宮の斎と藤原の藤から斎藤を名字にしました。
全国の斎藤さん、伊勢神宮参拝のついでに故郷である斎宮跡に立ち寄られませんか。ただ近鉄の普通しか止まらない駅になっています。斎宮歴史博物館や奈良時代から続く古道、復元された当時の道などがあります。

津の難読地名 万町

万町
津の難読地名の一つ「万町」。
三重会館や都ホテルがある中心市街地から安濃川に架かる塔世橋に向かい、橋の手前あたりの町名で、「よろずまち」と読みます。
参宮街道で賑わったとことで、町屋が立ち並び、最初は「かや町」と呼ばれていました。茅のおいしげる野原にできた町に由来しています。さらに発展して、いろいろな商家や宿屋が軒をつらねたので「よろず町」と呼ばれるようになります。
幕末にはお台場が置かれ、川をさかのぼってくる異国船に対応するため砲台が設置しましたが、一度も使われなかったようです。
塔世橋の塔世は川向うにある四天王寺は聖徳太子が建立したと伝わっていますが、当時、塔があり川の瀬に映った塔瀬からきているようです。織田信長の母である土田御前の墓があることで有名。NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」では大谷直子が演じています。

物部神社(名古屋)

>物部神社
今日は名古屋市中小企業振興公社で長年、常務を勤められた方の送別会があったので参加してきました。
開始まで時間があったので、まずは千種にある高牟神社へ。ここは尾張物部氏の拠点があったところ。またすぐ近くぬ物部神社があります。そのまま名古屋駅前に移動して送別会に参加。今から大阪へ戻ります。木曜の近鉄特急はさすがにすいています。

三宮の地名の由来となった三宮神社

三宮神社
神戸の中心と言えば三宮ですが、三宮という地名は三宮神社からとられました。航海の安全と商工業の繁栄を守る神さんです。
三宮センター街のすぐ近く、古い建物が多い旧l居留地にあり、目の前はトアロード神戸です。旧居留地にあった三宮神社の前で起きたのが神戸事件。慶応4年ですので明治に改元される年です。西宮の警護に大砲をひいて向かう備前藩の行列の前をフランス人水兵2人が横切ったことから、フランス兵に軽傷をおわせてしまいます。生麦事件と同じ構図です。
交渉となり列強ともめにもめましたが、備前藩関係者の切腹で決着しました。朝廷は徳川幕府から明治政府への政権移譲を宣言していなかったので、あわてて明治新政府への政権移譲を表明。神戸事件は明治新政府となり初めての外交事件となりました。
三宮神社の境内には当時のものと同型の大砲が置かれています。