真因は何?

kintetu201301.jpg朝から津へ行っていたのですが夜、津から大阪へ近鉄急行に乗って戻ってきました。

伊賀上野へ行く伊賀鉄道と連絡している伊賀神戸駅(三重県)に到着すると伊賀鉄道が遅れていたため停車時間が伸び、4分遅れて出発。結局、八木駅(奈良県)まで遅れは解消しませんでした。「伊賀鉄道が遅れたため4分遅れて到着します」と車内アナウンス。 

八木駅で降りると、連絡している京都行き急行が発車時間を遅らせて待っていました。西大寺駅に着くまで遅れは解消せず、「大阪線の列車が遅れたため、4分遅れて到着します」と車内アナウンス。 

西大寺駅(奈良県)では奈良線と連絡しているので、こちらの電車も連鎖して遅れます。「京都線の列車が遅れたため、各駅の到着が遅れます」と車内アナウンス。 

近鉄は関西一円に電車を走らせていますので、伊賀での遅れが遠く京都や大阪にまで影響が波及します。さて西大寺駅から乗った乗客にとって遅延の原因は京都線の遅れです。ですが、その前は大阪線の遅延であり、大元は伊賀鉄道の遅延でした。 

直近の現象(京都線の遅延)だけ見ていては真因(伊賀鉄道の遅延)には至らないわけです。真因もひょっとすると伊賀鉄道の遅延ではなく伊賀上野駅で連絡しているJR関西本線が遅延していたのが原因かもしれません。 

トヨタでは「なぜなぜ5回」ということで「なぜ」を5回続け真因を探ることを行っています。私たちの日々の生活でも、本当に隠れた原因は何なのか探る心構えが必要ですね。

結局、10分ほど遅れて新石切駅にたどりつきました。

商売繁盛で笹もってこい!

nukataebisu2013.jpg本日は十日戎。商売繁盛を「えべっさん」にお願いする西日本の風習です。 

名古屋では熱田神宮へ1月5日午前零時にお参りするのが初戎で、十日戎という風習はないそうです。東海地域では岐阜県海津市にある「おちょぼさん(千代保稲荷)」が商売繁盛で有名で、毎月1日は月並祭が行われ、深夜から早朝にかけて大混雑しています。なんでもお参りして串カツを食べるのが定番という変な風習もあるそうです。 

大阪でも八尾は少し早い目の「えべっさん」で、八尾の「八」にちなんで八日戎になっています。 

十日戎は今日が本戎。家から歩いて5分のところにある額田戎神社へ行ってきました。いつもは閑散としている境内ですが、この3日間だけは、えらい賑わっています。 

いつも閑散としている神さんに商売繁盛をお願いしても大丈夫かいなという疑問はさておいて(笑)、社殿にお参りしてからウラへ回り、戸板をたたいて再度、お願いしてきました。これで今年も商売繁盛だあ! 

水谷神社にお参り

mizutani201212.jpg初詣は奈良の春日神社へ 

さすがに人が多く、本殿に入る前には入場制限もあります。境内はごった返しているのですが、境内のちょっと離れたところに水谷神社があります。 

手向山八幡宮から若草山沿いに歩いて春日神社の神域に入ったすぐの所にある摂社です。水谷家の総本社でして、毎年お参りしています。 

というのはウソで、本当は水谷神社(みずやじんじゃ)という名前。 
素盞鳴命、大巳貴命、奇稲田姫命が祭られています。疫病難病をはらい病魔を退散する神様。近くを水谷川が流れていて川沿いに水谷茶屋が有り、川には水谷橋がかかっています。と、水谷がてんこ盛り(笑)。 

WikiPediaを見てみると兵庫県養父市には本当に水谷神社(みずたにじんじゃ)があるそうで、こっちはぜひお参りしてみたいですね。

伊勢志摩のパソコン女将

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【伊勢志摩のパソコン女将】
前田 千恵子著(静岡学術出版) 
偶然のきっかけから志摩で地域おこしに取り組む志摩の女将会と出会い、情報発をしたいという願いからパソコンを教えることになった著者。電源の入れ方から説明するところから始まりますが、次の難関はキーボードの配置を覚えること。そんなん無理と言いながら、紙に書いたキーボードで必至に練習に取り組むなど女将さんも実に熱心。 
教室で「メモ帳を出して」と言うとカバンから本物のメモ帳を出す受講生に対して、ドラッグをズルズルと表現するなど懇切丁寧に教えた成果からブログ開設やホームページによる「てこね寿司」レシピなどの情報発信が実現。情報発信が実り、いろいろな問い合わせが増え、テレビ取材を受けたり、「食と地域の絆づくり」選定証を総理官邸で贈呈されるまでになりました。 
地域の情報は自らの手で発信する姿勢が大切です。 その次に必要なのは儲ける仕組みを作ること。
■生産年齢人口が減り、地域活性化は待ったなし 
今から100年前といえば司馬遼太郎『坂の上の雲』の舞台となった日露戦争の頃、日本人口は4,385万人でした。この100年間、人口が3倍に増えるという外部環境で全ての商売を行ってきました。すでに人口のピークは過ぎており減り始めています。 
実は1995年、生産年齢人口(15~64歳の人口)が先にピークを迎え、この17年間減り続けています。生産年齢人口が減ったためお酒が売れなくなりました。若者がお酒を飲まなくなった以上に人口減の影響が大きく響いています。生産年齢人口が減るということは生産に伴う所得税が減るということです。国も地域も税金が減っていきますので、地域は地域なりに工夫してお金を集めなければなりません。 
■農作業を外注して、しかも儲ける仕組みを作る 
地域で高齢化がすすむと重労働である田んぼの世話ができなくなります。ただ、先祖伝来の田畑を自分の代で手放なすわけにもいきません。そこで農作業を外注するのですが、田植えを頼むと手間賃がかかります。田植えをするための種苗代もかかります。雑草を抜くのは自分でやるにしても稲刈りや脱穀を頼むとまたお金がかかります。結局、お米を作らずに買った方が安いことになり、ますます耕作放棄地が増えます。 
この田植えなどの農作業を何とかできないかと考え知恵をしぼったのが飯田市です。飯田市では農家450戸を組織して農家に泊まる農家民泊の修学旅行を誘致しています。修学旅行生を市町村や地元企業などが出資して作った株式会社南信州観光公社が受け入れています。しっかりとしたホームページを作り、都会の中学校などから集客しています。 
都会の中学生にとって、もちろん田植えは初めて。最初は田んぼに入るのもおぼつかない様子です。泥に足をとられキャーキャー言いながらやっていますが、さすがに若いのですぐに慣れて植えられるようになります。田んぼの中の色々な生き物が見ながら田植えを経験します。日本国中、機械植えが当たり前ですが、飯田市には今も手植えの田んぼが残ります。この田植えですが、農林業体験ということでしっかりお金を取っています。農家にとっては田植えの重労働から解放され、しかも潤う仕組みになっています。 
飯田市では農家民宿という体験もできます。農家に宿泊しながら農作業を手伝う体験で、ヨーロッパではグリーンツーリズムと言っています。やったことがない薪割りなどを体験し、囲炉裏端を囲んで農家のおじいちゃんから話を聞きます。家族にとっては、また同じ話をしているわとなり、誰も聞いてくれませんが、中学生にとっては初めての話で興味津津。おじいちゃんにとっては家族が聞いてくれない話を毎回しても大丈夫です。 
「田舎の人は純朴だ」と言っている時代ではありません。税金が減る中、しっかり地域へお金が落ちる仕組みを作らなければなりません。飯田市では農林業体験というコンテンツを整備し、都会から地域へお金が流れる仕組みを作りあげてきました。 
しかも、この成功体験を伝えるための出張講演や視察受け入れによる有償研修プログラムを用意して、さらにお金が地域へ回る仕組みを作っているのは葉っぱビジネスの上勝町や伊賀のモクモクと同様です。田舎ならばこそ、したたかに稼ぐ仕組み作りが重要です。 
▼南信州観光公社 
http://www.mstb.jp/

黒門市場で忘年会

kuromon201212.jpg午前中はLEC梅田でお仕事。 

お昼に仕事が終わったのでミナミへ出て、黒門市場へ。年末になると東京のアメ横と並んで必ず中継される大阪の台所です。今日も人が多かったですね。忘年会の会場は黒門場にあるお寿司屋さん「すし処 黒門 寿恵廣(すえひろ)」。ネタは黒門市場から仕入れていますので新鮮で豊富。定番メニュー以外にその日、おすすめの手書きメニューがあります。 

14時から中小企業診断士の集まりであるファイティング・コンサルタンツの忘年会を開催。毎年、このお店で開催しています。2階の座敷でブリしゃぶを中心にいただきましたが、おすすめが半熟卵が入った赤だしで、これは他のお店で見たことがなく絶品です。 

結局、18時頃まで飲んでおりました。

名古屋大学・食堂

nagoya20121213.jpg名古屋大学へ 

名古屋市新事業支援センターで来年1月25日(金)に大学発ベンチャー ビジネスプラン・グランプリ発表会を行いますので、名古屋大学へ打ち合わせに行ってきました。発表会の場所は名古屋市中小企業振興会館(吹上)。 

名古屋大学ですが台地の上にあるので、けっこう起伏があり、いたるところに坂があります。打ち合わせが終わったら、ちょうどお昼前でしたので、そのまま学食へ。入ったのは丼、麺専門のこじんまりとした学食。広いキャンパスなので、食堂もいろいろな所へ分散しているようです。頼んだのはから揚げネギ丼(380円)+サラダ(84円)。おいしゅう、いただきました。

岩田川の戦い

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ウチの実家があるのが津市の岩田という土地。私が子供の時は弓屋敷と呼んでいたので江戸時代、藤堂藩の弓屋敷が並んでいたようです。伊勢は昔から南朝の牙城です。津市には垂れ梅で有名な結城神社があり、北畠親房と一緒に戦った結城宗広をまつっています。
津市の中心街を流れるのが岩田川。いたってふつうの川で海が近いため大潮には川の水位がかなり上がります。このへんてつもない川の名前をつけた「岩田川の戦い」というのがありました。戦いがあったのは室町時代。
長い間、南北朝に分かれて争っていましたが和解し、双方から順番に天皇になるという約束ができました。ところが足利幕府が約束を反故にしてしまいます。そこで伊勢国司北畠家の第3代当主だった北畠 満雅(きたばたけ みつまさ)が挙兵し、幕府軍とぶつかります。北畠満雅は津市の南にある雲出川において幕府軍を大敗させますが、その後、「岩田川での戦い」で敗れ、北畠満雅は戦死してしまいます。
当時、幕府は鎌倉公方足利持氏と争っていたこともあり北畠と和解。北畠の居城のあった美杉村は多気御所と呼ばれ栄華を誇りました。多気という名前がついていますがシャープの多気工場よりもはるかに山奥。当時は伊勢国と大和国を結ぶ初瀬街道沿いにある交通の要所でした。
繁栄した北畠家に隣の尾張から攻め込んできたのが織田信長。北畠は結局、信長に滅ぼされてしまいます。あまり知られていませんが北畠家の城主の妻が松永久秀の娘です。また大和の兵も多数派遣されていて信長の北畠家攻撃で全員玉砕してしまいます。翌年、松永久秀が織田信長を裏切り、信貴山城で名器・平蜘蛛茶釜と一緒に爆死しますが、こんなところに伏線があったんですね。
この岩田川周辺ではもう一度、大きな戦いがありました。関ヶ原の戦いの前哨戦となった安濃津城の戦いです。東軍についた富田氏を攻めるために西軍の毛利秀元・吉川広家・長束正家・安国寺恵瓊・長宗我部盛親・鍋島勝茂が3万の兵を率いて包囲。富田氏は西軍の猛攻を持ちこたえ結局、和睦に。西軍はこの後、関ヶ原に向かいます。

名古屋にある桑名、長島、伊勢

nagasima201212.jpg名古屋は城下町ですので中心街は碁盤の目になっています。その中に桑名町、長島町、伊勢町というお隣の三重の地名がついた町名があります。 

先日、鶴舞の古本屋で「花の名古屋の碁盤割」という本を買ってきたので、調べてみると、これらの町はもともと清州にありました。織田信長の息子である信雄は本能寺の変の後、伊勢を領有していましたが、その後、清州城主になったので引っ越し。この時、家臣の移転に商人もついてきたようです。 

藤堂高虎が伊予から伊勢の津へ国替えした時に伊予の商人が移り住んだ伊予町や松阪には日野から移った蒲生氏郷についてきた商人の町、日野町があります。城下町の多くには同様の事例があります。 

やがて家康が水害が多かった清州から名古屋へ住民ごと引っ越す、清州越しを行います。この時に住民と一緒に町の名前も移ってきました。同様にクリスマスイルミネーションが美しい名古屋の大津町は大津から移ってきた住民の町で、清州越しで移ってきました。伏見町は清州越しではなく、名古屋城ができてから伏見から移ってできた町です。 

名古屋のテレビ塔近くに武平町がありますが江戸時代に古墳が発見されました。壬申の乱で大海人皇子の元へ2万人の兵をひきつれた少子部連錯鉤。壬申の乱が終わった後に自殺した謎の人物です。古墳は江戸時代に埋め戻したそうで、名古屋の街中の地下に今も残っています。

飯田街道

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名古屋は城下町なので基本的に碁盤の目になっているはずなんですが、ちょっと町中をはずれると微妙に曲がっている道ばかり、例えば道を間違えた時、左に4回まわっても同じ場所にはたどりつきません。(笑)
町中でも碁盤の目になっていないところがあり、中心部にある久屋大通から碁盤の目に斜めに走る道があります。これが飯田街道、徳川家康が作った尾張名古屋と信州飯田を結ぶ街道です。
飯田街道の起点は堀川にかかる伝馬橋。国際センターと丸の内の間で、ここから名古屋駅のツインタワーが見れます。伝馬橋から栄の繁華街までまっすぐ進むのですが、久屋大通から斜め45度に道が曲がります。この斜めの道が吹上を超えて八事の方まで続きます。碁盤の目の道に斜めの道が通るので、必然的に交差点では6つの道が交差。空港線や錦通など広い道路と交差すると信号が複雑怪奇なことになります。
飯田街道を歩いていて青になったので空港線の交差点を渡ろうとすると道路の真ん中に待避所があり、そこまでが青で、その先は赤、つまり待避所で待てということです。名古屋名物の100m道路でもない普通の道なのに、向こう側まで一発で渡れません。歩行者でこの騒ぎですから、車はもっと複雑怪奇な流れになります。6つの道の信号をコントルールしなければなりません。名古屋の道がわかりにくいのは、こういったことが原因するんですね。

若宮八幡社

wakamiya201211.jpg名古屋名物と言えば道路幅が100m以上もある100m道路。若宮大通と久屋大通の2本あります。 

名古屋市新事業支援センターが入っている吹上ホールの前を走っているのが若宮大通。一度の信号では対岸に渡れません。時々、ダッシュして渡る人を見かけます。この若宮大通の名前の由来になったのが若宮八幡社。 

めちゃくちゃ古い神社で、武内宿禰などを祭っています。もともとは那古野城(名古屋城)の近くにあったのですが家康が現在地に移して、名古屋総鎮守としました。つまり名古屋の守り神さんです。名古屋で仕事や住むなら熱田神宮と若宮八幡社ははずせませんね。 

昔、境内には200歳を超える狐夫婦が住んでいたそうです。この狐の家用に洞穴を用意して祠を建てたのが連理稲荷。2本の木の枝が連なる連理木があるそうで、縁結びのパワースポットになっています。