
名古屋市市営地下鉄・覚王山駅の由来は日泰寺の山号からきています。覚王とは御釈迦さんをあらわします。
■御釈迦さんの本物の遺骨
寺院の塔は舎利をおさめるためのもので、薬師寺の東塔(国宝)の解体修理では江戸時代の舎利容器が見つかりました。本物の御釈迦さんの遺骨は無理なので、それに代わるものが納められていますが、日本で唯一、本物の御釈迦さんの遺骨があるのが日泰寺。
そもそもは明治になりイギリス人によって御釈迦さんの遺骨が入った舎利容器がインドで発掘されたことに起因します。古代文字を解読すると舎利容器が御釈迦さんのものと判明。この舎利が仏教国であるシャム国(現在のタイ)に、送られます。
一部が同じ仏教国であるセイロン、ビルマに分与されました。この話を聞いた日本からも申し出があり、遺骨が分与されて納められたのが日泰寺です。明治の終わり頃の話です。
■日泰寺境内から少し行ったところに安置
日泰寺は日本と泰(タイ)ということで命名されています。日本で唯一、いずれの宗派にも属さない寺院になっています。
日泰寺境内に塔がありますが、御釈迦さんの舎利はここではなく、少し行った、奉安塔にあります。境内にあるものばかりと思っていたので、先日、専門家派遣のついでに奉安塔へお参りに行ってきました。写真の奥にあります。
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本当は十条まであった平城京

平城京の朱雀大路入口にあった羅城門跡です。
実際に羅城門があった場所は佐保川の堤防の下で、佐保川にかかる羅生門橋からは遠く大極殿を望むことができます。この羅城門の礎石の一部は大和郡山城の天守閣の石垣に転用されています。石材がなかったため、なんでも転用したんですね。
羅城門は九条通りにあったのですが、実は平城京は最初、十条通りまであったことが発掘で判明しています。藤原広嗣の乱があった後、聖武天皇は都を平城京から恭仁京へ、次に紫香楽宮や難波宮へ移します。5年後に平城京に戻っていますが、この時までに九条までとコンパクトになったようです。
平城京の前の藤原京が十条でしたので平城京も最初はあわせたんでしょうね。朱雀大路の東側では遺構が見つかりましたが反対側の西側で遺構が見つからず、考古学の疑問の一つになっています。
正倉院展 天平時代も大変だった

山城などを3つ巡ってから奈良国立博物館へ。第67回正倉院展です。
いつも通りオータムレイトチケットで入場。閉館の1時間30分前から発売される当日券で、夜に行くと待ち時間なしです。入口を入ったところに紫檀の琵琶があり、さすがに人だかりしていました。裏面はルイビトンのモノトーンにそっくりですね。
正倉院展の入口に正倉院特集の読売新聞がいつも置いてあるんですが、そこにも「バッグの柄によく似ている」と書かれていましたので、皆、同じことを感じるんですね。
いつも楽しみにしているのが古文書。大津大浦という人が書いた書状が納期をのばしてほしいという内容。解説によると前に納期を伸ばしてもらったけど、責任者が出張中で、その納期に間に合いそうもないという理由が書かれているようです。いつの時代も大変なんですね。
あと反古紙になった文章の上に手習いで七夕の詩が書かれていました。七夕といっても「笹の葉さらさら~」ではなくて五言律詩。漢詩を覚えるために天平人がひたすら練習したんですね。出世に響いたのかなあ。本当にいつの時代も大変です。
大阪府立貿易館

大阪府よろず支援拠点が入っているマイドーム大阪や大阪商工会議所、シティプラザ大阪が建っている所は、江戸時代、西町奉行所でした。明治になって初代大阪府庁が置かれ、その後大阪博物場ができます。中之島図書館や天王寺動物園の前身となります。
大正時代、大阪府立商品陳列所が堂島にあったのですが、火災で焼けてしまいます。1917年(大正6年)に現在、マイドーム大阪などがある所に再建されました。1930年(昭和5年)に大阪府立貿易館という名前になります。事業の内容は貿易助長や産業貿易思想の涵養(講演会、映画会、図書館)、時代らしく対満貿易の助長もやっていました。分館が新京、奉天、上海、天津、青島、広州にあり職員は73名だったそうです。
戦時中は貿易関係業務が集約され、南方資源調査などに当たることから大阪南方院という名前となります。戦後、大阪府立貿易館が復活しましたが大阪府の機構改革に伴い、1987年(昭和62年)に廃止されます。
この大阪府立貿易館には大阪府立貿易専門学校もありました。それでマイドーム大阪の前に専門学校の碑が建っているんですね。
菅原神社 東御旅所
枚岡祭り

四日市から東大阪へ戻ってきたら夜。まだまだ祭りの時間に間に合うので枚岡神社へ行ってきました。
さすがに平日の開催ですので、土日の開催に比べるとちょっとすいていて、人混みの中を歩くことができます。(土日開催ですと境内は御堂筋線のラッシュ並み)境内に入るとちょうど地元・宝箱(ほうそう)太鼓台の宮入をやっていました。
近隣の各町から大小合わせて23台以上の布団太鼓と1台のだんじりが出ます。太鼓台を担ぐときに「ちょうさじゃ」と掛け声をかけるのですが、これって600年前の狂言のなかにも祭囃子として出てくるとっても古い言葉なんですね。
太鼓台の重さは1~2トンあり、子供が2人~4人乗って太鼓を叩き、上には木にひっからないように2人が乗りますので、かなりの重さ。小太鼓で40人ほど、大太鼓になると70人ほどで担ぎます。
枚岡駅から額田駅まで線路沿いにずらっと屋台が並びます。ビール飲んでイカ焼き食べて極楽、極楽!
扇の芝

天気がよかったので奥さんと宇治の平等院へ。
平等院の入口にあるのが有名な扇の芝。鵺(ぬえ)退治で有名な源三位頼政が自害した場所です。以仁王の平家打倒の綸旨をうけて挙兵した源頼政。平等院に籠って戦いましたが平氏に宇治川を突破され多勢に無勢で自害します。
能「頼政」では、宇治に立ち寄った僧を呼び止め、頼政の幽霊があらわれ回向を頼んで、扇の芝の草蔭に消えていきます。能では、よく「扇の芝」という言葉が出てきますが、その場所が何の変哲もないココ。ただし観光客のほとんどはまっすぐ平等院鳳凰堂を目指して、誰もいません。
平等院は修復工事をしていますが、創建当時からある扉絵「日想観図」の復元扉が博物館に展示されていました。12月6日まで公開され、その後はお堂に取り付けられるそうで、間近で目にすることができるのは今だけ。ラッキーでした。



