伝織田信長陣跡(虎御前山城)

虎御前山はいくつもの峰で構成されており、一番高い峰にあるのが伝織田信長陣跡。

伝織田信長陣跡(虎御前山城)
伝織田信長陣跡(虎御前山城)

尾根道をひたすら歩くとたどりつけます。陣跡といいながら復元図を見ると完璧な城ですね。「信長公記」にも「巧みに仕上げられた砦の結構なことは、これまで見聞きした多くの砦に見られぬもので、みな眼を見張ったものである。」と記載されています。長桝型虎口や堀切などが残っていて、陣跡から小谷城や琵琶湖がよく見えます。

虎御前山城は小谷城から500mしかない目の前にある付城で、各武将の陣がずらっと並び、兵が動いている姿も小谷城からよく見えたはずで心理的効果は絶大だったでしょう。

伝堀秀政陣跡(虎御前山城)

伝滝川一益陣跡から尾根道を歩き次のピークにあるのが伝堀秀政陣跡。

伝堀秀政陣跡(虎御前山城)
伝堀秀政陣跡(虎御前山城)

館が造られていたようで建物を建てた礎石跡が見つかっています。横堀や竪堀などもあり、けっこう本格的な陣だったようです。堀秀政は織田信長の小姓から一軍の将になっていきます。本能寺の変の時は秀吉の軍監(お目付役で合戦後の論功行賞も担当)として備中高松城攻めに参加しており、中国大返しをして山崎の戦いに参陣しています。

秀吉のもとで北ノ庄攻めなどに従事。小牧・長久手の戦いでは秀吉側で池田恒興や森長可らが討死する大負けのなか堀秀政だけが家康軍を敗退させています。小田原征伐の最中に陣中で病のために亡くなりました。

All About「企業のIT活用」19周年

All About「企業のIT活用」オープン 19周年

All About「企業のIT活用」は2002年3月20日にスタートしました。ちょうど独立して個人事業を始めた年でもあり、あれから19年経ったんですね。当時はRAJ(株式会社リクルート・アバウトドットコム・ジャパン)という会社名で、サイトもAll About Japanでした。サイト本体は1年前にスタートしたので今年20周年を迎えています。

All About
All About

そうそう「企業のIT活用」も最初は「企業のIT導入」という名前でした。ガイド記事作成やメルマガに追いまくられて鍛えられました(笑)。ここ最近は月1ペースで記事を作成しております。今後ともよろしくお願いします。

滝川一益陣跡(虎御前山城)

小谷城のすぐ近くにあるのが虎御前山城。

滝川一益陣跡(虎御前山城)
滝川一益陣跡(虎御前山城)

小谷城を攻略するために織田軍が築きました。秀吉が城番を勤める横山城の前線基地になります。小谷城の目の前に附城が造られたため浅井軍に与えるプレッシャーは大きかったでしょうね。虎御前山は、四方の見通しがきく独立丘陵になっていて、各武将が陣地を構築しました。南の方は公園になっていますが、真ん中あたりにある伝滝川一益陣地跡あたりから堀切などが残っていて山城らしくなります。

伝滝川一益陣地跡は古墳を活用して造られています。滝川一益は甲賀出身と言われ織田家の宿老を勤めていましたが本能寺の変の後、北条勢との戦いなどで清須会議に出遅れてしまいました。

姉川の戦い

元亀元年(1570年)6月28日に起きたのが姉川の戦い。

姉川の戦い
姉川の戦い

金ヶ崎城で浅井長政の裏切りから挟撃されるところを逃げ出した信長ですが、体制を立て直し朝倉・浅井と対峙することになります。信長は小谷城とは姉川を隔てて南にある横山城を包囲し、横山城の北側にある竜ヶ鼻に布陣します。ここに徳川家康が応援にかけつけます。

浅井方には朝倉景健が援軍を率いてかけつけ小谷城の隣にある大依山に陣を構えます。朝倉・浅井軍が山の影に入った時に信長は陣を引き払ったと判断し横山城攻めのために包囲網をしいて本陣が手薄になったところを朝倉・浅井軍に攻め込まれます。激戦となり信長もあわやという事態があったようです。家康が伸びきった攻撃軍に横やりをいれて救ったとありますが、後に天下をとった徳川の言うことですから、よく分かりません。

最終的には織田・徳川軍方が優勢となり、この後、横山城は降伏して開城することになります。写真は信長が陣をひいた竜ヶ鼻方面から見た戦いの舞台です。

近江 横山城

新幹線が米原駅を過ぎトンネルを抜けると左手に一瞬、見えるのが伊吹山城の麓にある横山城です。前から登りたかったのですが、ようやく念願がかないました。

横山城
横山城

横山城は領地の境にある境の城でした。もともとは浅井氏と六角氏が戦っていた時に浅井氏が築いた城です。浅井長政が信長と対峙するようになった時、美濃から北陸へ抜ける北陸脇往還街道のすぐそばにある城でした戦略上の要衝でした。横山城攻めで頑張ったのが秀吉で、城を手に入れてから信長に城番に任じられます。秀吉はここを拠点にして浅井氏の家来に対して攻略を行います。

横山城は北城と南城の一城別郭になっています。北城には見事な二重堀切などがあり、楽しめます。北城の主郭からは伊吹山や現在の国道365号線(北陸脇往還街道)を眺めることができます。

2020年度決算

合同会社エムアイティエスの期末を2月末にしており、本日は決算&税務申告書類作成&電子申告&納税を一気通貫でやっておりました。

申告freeee
申告freee

会計ソフトはfreeeを使っているんですが、従来は財務諸表を作成するところまででしかできなかったのが、今年から法人申告機能(申告freee)が追加されました。もっとも年間の法人会計代23,760円とは別に24,800円が別途かかります。

さっそく契約してやってみたら、やっかいな別表作成がサクサクできます。事前にE-TaxとELTax(地方税ポータルシステ)の設定をやっておけば電子申告まででき、しかも府税事務所と市税事務所にも同時申告できます。これは便利ですね。E-Tax、ELTaxと次々と切り替えてそれぞれの役所に申告しなくてもワンストップですみます。

さすがに納税まではサポートしておらず、こちらはELTaxを使って納付しました。終わった!終わった!5期目も頑張ろう!

石田三成の生誕地

大谷吉継の盟友といえば石田三成です。大河ドラマ「真田丸」では山本耕史が演じていました。

石田三成の生誕地
石田三成の生誕地

生まれたのは近江国坂田郡石田村。横山城の麓にあり三成が小坊主だった時、秀吉に温度が違うお茶を三回出した寺も近くにあります。勝者が徳川家康になったため、悪役として歴史に描かれていますが実像はどんな人物だったんでしょうかねえ。秀吉の汚れ役を引き受けていたため武断派からは嫌われていましたが清廉潔白で経理もやっていたので、けっこう細かい性格だったのでしょう。友人にするのはちょっと、という人物だったかもしれません。関ケ原の戦いの後、三成の佐和山城を接収した時にあまりに質素だったことに東軍側が驚きました。

徳川家康は関ケ原の戦いの後、実質的に武家の棟梁と認められますので転換点となりました。石田三成は徳川家の敵ですが主君のために戦った点は評価されており、子孫は生き延びて、なかには大名になっているものもいます。

大谷吉継の敦賀城

敦賀港のすぐ近くにあったのが敦賀城という水城。

敦賀城
敦賀城

城跡は残っておらず碑が建っているだけ、堀跡が川として残っていて海まで続いています。敦賀城の城主で有名だったのが大谷吉継。大河ドラマ「真田丸」では片岡愛之助が演じていました。

大谷吉継は家康の上杉討伐に参加するため敦賀をたち、途中で逼塞していた佐和山城の石田三成を訪ねます。これが転機となり三成と一緒に挙兵して関ケ原の戦いになだれこみます。石田三成から挙兵を打ち明けられ、大谷吉継は「無謀であり、三成に勝機なし」と言いながら、最後は友情をとって挙兵したと言われていますが、実際はどうですかねえ。

十分に勝機はあり、豊臣側の了解をとりつけ家康を反逆軍にすることに成功。また関ケ原の周辺に3つの山城(1つが松尾山城)を整備し、万全の体制を整えていました。大津城攻めに参加していた立花宗茂を関ケ原に早めに呼び出し、総大将の毛利輝元が領地を増やそうと九州で画策などしなければ十分に西軍有利だったのですが...。関ケ原の後、敦賀城は廃城となりました。

ヨーロッパ軒のソースカツ丼

敦賀駅前でヨーロッパ軒の看板を発見!福井といえばソースカツ丼ですねえ。

ソースカツ丼
ソースカツ丼

1998年2月に知的生産の技術研究会の福井支部の設立セミナーがあり本店で食べて以来ですから23年ぶりですねえ。ヨーロッパ軒のホームページを見ると創業は大正2年で創業の地は東京の早稲田でした。ヨーロッパで修行したことからヨーロッパ軒というハイカラな屋号にしたそうです。関東大震災で郷里の福井へ戻り、福井といえばソースカツ丼となりました。

とっても懐かしい味でした。