吉野城攻防戦

日本史にたびたび登場する吉野山。全山が山城になっており、吉野城という名前がついています。

大塔宮陣地
大塔宮陣地

後醍醐天皇が笠置城で挙兵した時に大塔宮護良親王も参戦。幕府軍の攻撃に笠置城が陥落し、後醍醐天皇が隠岐に流されることになりますが護良親王は逃げ出し十津川などを経由して吉野山に入ります。

■吉野城攻防戦
護良親王は千早城の楠木正成と連携し吉野城で挙兵。幕府軍が攻め寄せ吉野城攻防戦が始まります。

6万もの幕府軍に攻められ、よく防ぎましたが劣勢は明らか。護良親王らは青い蔵王権現のある蔵王堂前の広庭で最期の酒宴を始めます。護良親王自身、負傷し血だらけでしたが大きな杯で酒3杯を飲み干します。写真はこの酒宴が行われた場所で太平記の名場面ですね。もっとも観光客は蔵王権現がお目当てで、庭の写真を撮影しているような酔狂な人間はいません(笑)。

攻め寄せる幕府軍に対して護良親王は自害しようとしますが村上義光が護良親王をさとし親王の身代わりとなって親王を脱出させます。徳川家康の三方ヶ原の合戦のようですなあ。

後醍醐天皇・玉座

日本史で学んだ建武の新政。

後醍醐天皇・玉座
後醍醐天皇・玉座

鎌倉幕府を滅び、後醍醐天皇を中心に親政をはじめますが、やがて足利尊氏と対立。後醍醐天皇は吉野に逃れ南北朝時代が始まります。ということで吉野に残る後醍醐天皇の玉座です。ここが南朝の拠点でした。吉野山の上なので冬は寒かったでしょうね。

■よく分からない建武の新政
この建武の新政ですが、実はよく分かっていません。公家中心の政治が始まり武士の不満がたまって失敗したと昔、習いましたが、そんなことはなく、この時に生まれた政治システムがそのまま室町幕府にも引き継がれています。

東国を中心とした御家人と近畿を中心とした悪党(御家人じゃない武士)との対立など複雑な要素がからまっています。そもそも後醍醐天皇の討幕の動機は自分の息子を皇位につけたいことにあり足利尊氏はOKと言っているので二人が争う必要はなく、御醍醐天皇が吉野へ逃れた時、足利尊氏は「なんで~え」と思ったでしょう。

船場総研Zoom会議

昨日は船場総研のZoom会議。コロナ禍のためオンライン開催です。

船場総研
船場総研

15時開始で、てっきりオンライン飲み会だと思って15時前から飲んでいました(笑)。そしたら「日本人が知らないインバウンドで人気のお寺」や品質管理のガチなプレゼンがはじまり、オイオイ(笑)。結局、最後まで飲みながら参加しておりました。

【船場総研】
船場総研とはパソコン通信Nifty-Serve・FLICフォーラムにあった船場勉強会(今も現役で活動中)のOB組織。中小企業診断士試験に合格した後、OBが勉強会に参加して受験生の邪魔をしないように作られた隔離組織です。ここらへんはキックさんがプレゼンしていました。

推古神社

近鉄平端駅近くを歩いて見つけたのが推古神社。

推古神社
推古神社

推古って、まさか推古天皇!と思ったらピンポンでした。このあたりの地名が額田部。

そうです!推古天皇の別名が額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)で、その額田部です。額田部一族の本拠地だったようで額田部湯坐連氏が推古天皇の養育を担当していました。大海人皇子(天武天皇)も養育した凡海氏(海部一族)から海人と名付けられましたので当時はふつうだったんですね。

部とは本来は人的な集団のことで全国に分布していて、ウチの近くにも近鉄・額田駅があり額田という地名が残っています。もともとは額に旋毛(つむじ)がある馬を献上したことから額田部の姓をたまわりました。馬飼に関係した氏族だったようです。

消費税の転嫁拒否等に関する調査

中小企業庁から「消費税の転嫁拒否等に関する調査」が届いていました。消費税率の引き上げがありましたから、上乗せしてきちんと払われているかの調査ですね。

消費税の転嫁拒否等に関する調査
消費税の転嫁拒否等に関する調査

消費税といえば2023年からインボイス(適格請求書等保存方式)が始まりますね。ウチもBtoBビジネスがあるので対応を考えないと。企業では消費税を消費者から受け取り、仕入れした分は消費税を支払い、相殺した額を税務署へ納税します。

モノだけでなくサービスでも同じなんですが、インボイスがはじまると課税事業者からの仕入れでないと相殺できなくなります。BtoCビジネスでは関係ないんですがBtoBビジネスでは課税事業者にならないと取引に影響が出てきます。

筒井順慶のお墓

近鉄天理線が分離する平端駅のすぐ近くに筒井順慶のお墓があります。

筒井順慶のお墓
筒井順慶のお墓

そう洞ヶ峠で有名な筒井順慶です。洞ヶ峠で秀吉と光秀の趨勢を日和見していたと言われていますが、実際は明智光秀が洞ヶ峠へ布陣し筒井順慶の動向を見極めていたのが実態です。先日の大河ドラマ「麒麟がくる」でチラッと出ていました。筒井順慶をはじめとする大和武士は基本的に興福寺か春日大社の衆徒になります。

■苦労しまくった筒井順慶
筒井順慶は父親が28歳で病死したため、わずか2歳で家督を継ぐことになります。叔父が後見してくれましたが16歳の時、この叔父もなくなってしまいます。筒井、越智、箸尾、十市で大和四家を構成していましたが筒井党の武士団を統率するのに四苦八苦。そこへ松永久秀が大和へ侵入。弱みにつけこんで奇襲をかけてきたため居城だった筒井城から逃げ出さざるをえませんでした。

筒井順慶は松永久秀と対立していた三好三人衆と手を組んで筒井城を奪還。この一連の戦いで奈良の大仏が焼け落ちてしまいます。ところが松永久秀が織田信長と手を結んでしまったので弱い立場になってしまいますが、何とかイーブンに持ち込んでいきます。なかなかやりますなあ。松永久秀のライバルでした。

やがて明智光秀の斡旋で信長に臣従し、大和をまかされることになります。明智光秀の与力となり雑賀攻めや松永久秀謀反の信貴山上攻めなどに従軍します。本能寺の変では光秀に味方せず、秀吉に仕えることになります。36歳で大和郡山城で病死。

■島左近
「三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」と島左近が有名ですがもともとは筒井順慶の家臣でした。順慶が亡くなって、跡を継いだ後継者と上手くいかず筒井家を離れることになります。そこで破格の条件でスカウトしたのが石田三成です。

また作家・筒井康隆の先祖が筒井順慶の足軽だったらしく、「筒井順慶」という小説を書いています。

面塚(結崎)

結崎があるのが奈良県川西町。観光キャッチフレーズが「室町時代、空から能面とネギが降ってきた!」と、ぶっ飛んでいますなあ。

面塚
面塚

なんでも空に大きな音が響き、翁の面とネギが降ってきたそうで。降ってきた能面は塚に納められ、ネギ(大和野菜のネブカ)は近くで栽培されて評判になったそうです。他には観阿弥が夢を見たという説もあり、夢に見た場所へ行ってみると本当に能面とネギが落ちていたそうです。塚に納めたところが面塚となり、観世発祥之地の碑が建っています。

■お父さんの観阿弥
能を大成したのが観阿弥・世阿弥親子です。観阿弥は一説では伊賀出身で楠木正成の甥と言われています。名張には観阿弥創座之地の碑が建っています。やがて興福寺、春日神社などの神事能に奉仕する大和猿楽四座の結崎座の一員となり大和や都で活躍をします。結崎座という名前ですが結崎とはそれほど縁がなかったという説もあります。ただ結崎観世会を作るなど街をあげて能を推奨しています。

■世阿弥
息子の世阿弥はさらに能を発展させ、「秘すれば花なり。秘せずば花なるべからず」などの言葉で有名な演劇書「風姿花伝」を執筆します。能は足利幕府が庇護したこともあり茶の湯のように戦国武将の嗜みになっていきます。秀吉なんかは家康と前田利家とトリオで天皇の前で自ら演じたりしています。また『明智討』『柴田』など自分の活躍を演目にした能も作らせています。

春日若宮神社

春日神社の本殿から東に少し行くと摂社の若宮神社があります。春日若宮おん祭で有名な神社です。

春日神社
春日神社

春日若宮おん祭は大和一国を挙げて数日にわたり行われる祭りで、始まったのはなんと1136年。平清盛や源氏が台頭する保元・平治の乱の少し前で、武士が出現し、鎌倉幕府へと続く時代です。

春日若宮おん祭では大和武士による流鏑馬が奉納されていました。この流鏑馬に参加するのが大和武士の矜持でありアイデンティティにもなっており毎年、大和の武士団が交代で勤めていました。

この武士団から筒井氏、越智氏、箸尾氏、十市氏が「大和四家」と呼ばれる勢力に成長していきます。この大和四家がひっついたり離れたりと内紛を繰り返していたので山城が整備されていきます。山城は大和盆地を囲む山々に築かれ、70ほどは登りましたが、まだまだ制覇にはほど遠いですね。

大和は松永久秀の大和侵入もあり、しっちゃかめっちゃかになっていき最終的には信長の命で筒井順慶が大和を支配することになります。

志賀直哉旧宅

新薬師寺から春日大社に向かう途中にあるのが志賀直哉旧宅。今は奈良学園のセミナーハウスになっていて内部を見学できます。

志賀直哉旧宅
志賀直哉旧宅

ここで書かれたのが「暗夜行路」で、学生時代に読みましたが暗い小説だなあという印象しかありません(笑)。志賀直哉は短編がよく「小僧の神様」は面白かったです。でも「城の崎にて」は、またまた暗かったなあ。

志賀直哉旧宅は自身が設計したもので1階にはモダンなサンルームもあり、ガラス張りでめちゃくちゃお洒落です。

新薬師寺

奈良町でのお仕事が全て終了したので、少し足をのばし坂道をひたすら登って久しぶりに新薬師寺へ。

新薬師寺
新薬師寺

薬師如来を本尊にするお寺が薬師寺なんですが、新たかな薬師寺ということで新薬師寺という名前になりました。ですので西ノ京にある薬師寺とは関係がありません。

大仏開眼法要が行われる前、聖武天皇の病気平癒を願って光明皇后が建てたのが新薬師寺です。新薬師寺で有名なのが十二神将立像。薄暗い本堂の中で見ると迫力があります。仏像というと古く鄙びているというイメージがありますが、建築当時は極彩色の立像で、めちゃくちゃ華やかでした。今だと吉野にある真っ青な蔵王権現像を見るような感じでしょう。

以前は本堂で極彩色の仏像を再現しているテレビ番組のビデオが流れていましたが、コロナ禍のなか密にならないよう隣の香薬師堂で放映されるようになっていました。