京都の大仏

方広寺 大仏殿跡
方広寺 大仏殿跡

見た目は単なる丘ですが、奈良の大仏よりも大きな大仏があったところです。

造ったのは秀吉で三好三人衆と松永久秀の戦いで奈良の大仏が焼けて破損したこともあり、奈良より大きい6丈3尺(約19m)の大仏と大仏殿を造りました。五条大橋を六条坊門に移して、大仏への参詣道とし、これが今も残る正面通りです。

ところが翌年に起きた慶長伏見地震で大仏が倒壊してしまい、秀吉は「自らの身をも守れないのか」と大仏に怒り心頭。大仏を再建することなく秀吉が亡くなってから秀頼が大仏を完成させます。大坂の陣の後も大仏は残っていましたが、寛文2(1662)年の地震で大破してしまいます。

合同会社エムアイティエス4期目へ

合同会社エムアイティエスは2017年3月3日に設立しましたので、無事に4期目へ突入しました。

法務局に書類を提出した日が設立日になるとは知らずに、雛祭りの日に持っていきました。社名は水谷IT支援事務所を英語にしたMizutani IT Supportの略から命名しています。

実は世界最初の個人向けコンピュータ「Altair8800」を発売したのがMITSという会社。若きビル・ゲイツやポール・アレンがAltair8800向けにBASICを開発し、これがマイクロソフトの創業となります。マイクロソフトはMITSと同じアルバカーキに設立され躍進が始まります。ですのでMITSはコンピュータ業界では歴史ある名前であります。

興味のある方はぜひ拙著「バグは本当に虫だった」をお読みください。

バグは本当に虫だった
バグは本当に虫だった

大坂の陣の原因となった梵鐘

方広寺
方広寺

大坂の陣のきっかけになった一つが方広寺の梵鐘に刻まれた文字。

秀吉が建立した方広寺は慶長伏見地震で倒壊してしまい、秀頼が再建しました。新たに梵鐘が鋳造されましたが、問題となったのは鐘に刻まれた「国家安康 君臣豊楽」という文字。写真の白く囲まれた文字です。この文について家康は「家康の名を引き裂き、豊臣家を讃えるもの」だといちゃもんをつけます。これが有名な方広寺鐘銘事件です。最近ではいちゃもんではなく、武士の名前を分けるのは無神経という説も出ています。

文を書いたのは禅僧文英清韓で南禅寺の長老でした。糾弾されて蟄居することになります。大阪冬の陣が終わった後、清韓と鐘を製作した鋳物師辻家を高虎の領地である津に迎えて保護したという後日談があります。2人のお墓は津の上宮寺にあります。

大人の学校

LEC梅田
LEC梅田

経営情報システムの講義でLEC梅田へ

ところが受講生が少なく、いつもの1/3程度です。何かあったんかいなと思ったら、新コロナウイルス対策による学校への自粛要請でLECも休みになっていると思った人が多いようで、事務局にも問い合わせがたくさん入っているそうです。出席した受講生に聞いてみたら、家族に「休みになっている」と言われたけど「大人の学校だからやっているって」と言って出席したそうです。大人の学校って...(笑)

ファイティング・コンサルタンツ研究会

ファイティング・コンサルタンツ
ファイティング・コンサルタンツ

天満橋にある、ものづくりコワーキングスペースCo-Boxでファイティング・コンサルタンツ研究会を開催。

大切な議題である花見日程が決定したので、議論はそこそこに天満橋へ繰り出して飲み会。2軒目は天神橋商店街にピザがおいしい店があるということで行ってみるとカウンター席しかなく断念 。

別メンバーからおいしいお好み焼き屋がある提案があり、雨の中、商店街をさらに歩くと店は閉まっていて臨時休業の張り紙が。しょうがないと、ピザ屋さんに戻ってカウンター席でピザをあてにワインを飲んでおりました。

議論の時間よりも飲んでいる時間の方が長いという、いつもの結果になります。

伏見城の唐門

伏見城の唐門
伏見城の唐門

五条の正面通りを真っすぐ東へ行くと豊国神社があります。明治になり徳川の世でなくなってから豊臣秀吉を祭神とし創建されました。

豊国神社の唐門は南禅寺の金地院(塔頭)から移築されましたが、もともとは伏見城にあった唐門と言われています。金地院!黒衣の宰相である、あの金地院崇伝ですねえ。

秀吉が最初に造ったのが指月伏見城で慶長伏見地震で倒壊してしまいました。大河ドラマ「真田丸」でやっていましたね。近くに再建したのが木幡山伏見城です。秀吉が亡くなり、関ケ原合戦の前哨戦として伏見城が西軍に攻められ木幡山伏見城は焼失します。

跡地に家康が伏見城を再建し、1619(元和5)年に廃城となりますが唐門は二条城に移築され、その後、金地院に移築されたようです。国宝になっていて、なかなか豪勢な門ですねえ。

協会けんぽ

協会けんぽ大阪支部から案内が届いていました。

3月分(4月納付分)から保険料率が変わり
健康保険料 10.22%
介護保険料 1.79%
となります。

両方足すと12.01%ですが、会社が半分負担しますので従業員が払う折半分は6%ほどです。これに厚生年金保険料の折半分9%がかかり、健康保険料と年金保険料で15%となります。

これに所得税が10%ほどと市民税・府民税がかかってきますので負担は3割程度。もっともウチのような一人会社の場合は折半といっても実質的には自分で会社分を払うことになりますので12.01%+18.3%(厚生年金保険)=30.31%で、もろもろ合わせると4割を超えています。

織田信長が永禄11(1568)年に六角氏の所領を手に入れた時、収穫量の1/3を年貢と定めたので信長が支配した他の土地も同様に3割程度が年貢負担だったようです。江戸時代の年貢は五公五民といわれますが実際は隠れ田などもあり三公七民ぐらいだったというのが定説ですので、4割を超える負担になると徳政一揆が起きそうですなあ。

将軍山城

将軍山城
将軍山城

250段の階段を上がると狸谷不動院がありますが、狸谷不動院のさらに奥に山道があり、山道を登りきると将軍山城(北白川城、瓜生山城)があります。

幸龍大権現の社がある所が主郭跡で、付近は京都一周トレイルコースにもなっており、ハイカーや山道を走っている人がたくさんいます。もっとも山道からはずれて城巡りをしている人は皆無です(笑)。将軍山城には尾根沿いに、たくさんの郭があり、また付近には他に5つの城がある城塞群になっています。

■有名武将オンパレードの将軍山城
将軍山城を造ったのは細川高国で近江から京都へ攻め入る拠点として築きました。細川高国が大物崩れ(尼崎駅の手前に大物駅があります)で自害すると、隣にある東山新城と共に細川晴元が城を奪います。細川晴元といえば先日の「麒麟がくる」で三好長慶を襲っていた人物です。

それ以前に細川晴元と第12代将軍足利義晴が対立するようになり足利義晴が将軍山城を大幅に修復した記録が残っています。その頃は晴元の家来だった三好長慶軍が城攻めをしています。信長の時代には信長包囲網となった志賀の陣で、明智光秀が将軍山城に入って数カ月、延暦寺を牽制していました。

狸谷山不動院

狸谷山不動院
狸谷山不動院

詩仙堂から坂をひたすら登っていくと狸谷山不動院の入口があり、ここから250段の階段が待っています。50段ごとに狸の置物が置かれて、あと何段あるかを明示しています。えっちらおっちら登ると、ようやく狸谷山不動院へ。京都の街が一望できます。

ここには滝があり、剣豪・宮本武蔵が滝行をしたと伝わっています。本堂は懸造りになっています。懸造りとは清水の舞台で有名ですが、崖などの上に建物を長い柱と貫で固定し,床下を支える建築方法です。

秀吉時代の大坂城では千畳敷がこの懸造りで造られていました。大坂城天守閣の模型で見ることができますが当時の人は驚いたでしょうね。伊達政宗時代の青葉城(仙台城)にも大きな懸造りがありました。

桑名商工会議所へ

桑名商工会議所
桑名商工会議所

桑名商工会議所で行われた経営発達支援計画推進会議に出席してきました。

会議の外部委員を担当していますが、桑名商工会議所はとっても熱心で年2回、外部委員5名に専務理事以下、経営指導員8名が参加し推進会議を実施しています。今年度は5年計画の4年目で目標に対して、どれぐらいで推移しているかなどの報告があり討議しました。

特徴として創業塾の参加者が増え、しかも女性が6割をしめています。女性起業家グループが桑名にあり、そちらのクチコミ効果が高いのと桑名市の広報に入れてもらったことで集客に貢献したようです。