深大寺は蕎麦じゃなく城でしょう!

深大寺城
深大寺城

RedBallで東京まで出かけたついでに深大寺へ出かけてきました。調布にあります。

深大寺といえば蕎麦が有名ですが、蕎麦よりも城跡ですね。ここには深大寺城があり、よく山城の縄張り図に出てきます。深大寺城の築城者は不明ですが扇谷上杉氏や北条氏が城を舞台に争い、最後は北条氏の支配になったようですが、小田原城の防衛には不要になったため、遺構がよく残ったようです。

深大寺城は丘の上に造られた連郭式城郭で、深大寺のすぐそばに水生植物園があり、ここから城跡へ行けます。深大寺や深大寺蕎麦は無視して水生植物園へ向かいます。水生植物園は城を守っていた沼地跡で、ここから舗装された道があって丘まで楽に登れます。郭跡に入ると広大な二の郭が拡がっています。この二の郭から堀と土塁で守られた主郭に入れますが、この主郭も大きいですね。三の郭もありましたが、こちらはテニス場や住宅地になっています。東京のど真ん中に、こんな城跡が残ったのは奇跡にちかいですね。

チキン南蛮が絶妙なちどり亭

ちどり亭
ちどり亭

昨夜は大阪中小企業診断士会・総務部の委員会。18:30スタートで19:30終了予定でしたが、結局は20時過ぎまでいろいろな議題で議論していました。終わってからは交流会。 

堺筋本町駅近くの「全員集合」や「ねぎ坊主」をよく使っていましたが、最近はもっぱら「ちどり亭」を使っています。「ちどり亭」は関西を中心に展開している焼き鳥屋さんで、総務部委員の一人がここのチキン南蛮に惚れ込んでいるために、最近はもっぱら「ちどり亭」です。またメガハイボールがあって大ジョッキーで出てきてコスパがよいです。というわけで22時過ぎまで飲んで帰ってきました。 

船場総研 総会

浜屋敷
浜屋敷

今は昔、Nifty-Serveというパソコン通信にFlic(資格フォーラム)があり、この中に中小企業診断士の会議室がありました。オンラインでのやり取りだけではなくリアルでも勉強しようと全国各地にできた勉強会の一つが船場勉強会。大阪を中心とした受験生が集まりGive&Takeの精神で切磋琢磨して勉強しておりました。このOB組織が船場総研で20年以上の歴史があります。

昨日は吹田の浜屋敷(昔の庄屋さんのお家)の和室で総会を開催。近況報告&今年度の活動を決めておりました。ちょっと分かりにくいところなので、1時間迷ってたどりつけない人も発生。総会はとどこおりなく終わり、吹田駅近くの大和大学横の居酒屋で懇親会。飲食コンサルをやっている診断士もおり、店のダメ出しをしていました(笑)。まあアルバイトの対応はいまいちでしたね。

第18回 RedBall2019

RedBall
RedBall

一年に1回開催されるAll Aboutのガイドの集まりRedBallです。All Aboutの「o」が赤玉なんで、RedBallという名前になっています。昔はRedBallカクテルも作られていました。 

RedBallにはよく参加していますが、もう18回目になるんですねえ。All Aboutにはカブトムシやレースクィーンなど、けっこう変わったガイドもいて、いろいろな人と知り合いになれるのがいいですね。 

第一部は、まじめなお話と表彰式。司会はなんと日テレの豊田アナウンサーでした。All Aboutが日テレと資本業務提携したので、その一環なんだそうです。 

第二部はいつものように立食形式の懇親会。ただ乾杯がはじまるまでイベントやいろいろあったので、皆で先に飲んでいました(笑)。新入社員が18名入ったそうで、新人という腕章を巻いていました。考えてみたら新入社員が生まれてすぐぐらいにAll Aboutがスタートして、私もガイドを始めたので、そら歳をとるはずです(笑)。 

江戸橋

江戸橋
江戸橋

近鉄・江戸橋駅から三重大学へ行く途中にある江戸橋。津藩主である藤堂家が参勤交代時に江戸へ向かう時、橋の傍まで見送りに来たことに由来しています。
けっこう古い橋でしたので工事が行われていましたが、ようやく開通したようです。歩行者は先に渡れるようになっていましたが、車もOKになっていました。

分部神社(大溝城)

分部神社
分部神社

大溝城のすぐ横にあるのが分部神社。

津田信澄(信長の甥っ子)が本能寺の変の後に殺された後、城主が丹羽長秀・加藤光泰・生駒親正・京極高次と目まぐるしく替わります。大坂の陣が終わり元和偃武となって名実ともに江戸時代がスタートした元和5年(1619年)に分部光信が大溝城に入ります。このあと、分部氏は11代続き明治維新となります。

■津の分部氏
分部氏の本貫は伊勢国安濃郡分部村。織田信長が津を支配していた長野氏を攻めてきた時に兄の細野藤敦は安濃津城で徹底抗戦しますが、弟の分部光嘉は和睦派で信長の弟である織田信包に長野氏の養子に入ることを画策します。伊勢侵攻時代の信長はまだ兵力は十分ではなかったので基本戦略はM&Aで、織田信孝は神戸氏の養子、織田信雄は北畠氏の養子、そして織田信包は長野氏の養子となります。

織田信包が津城を造り天守閣を建てますが、出城として造ったのが伊勢上野城(津北部の安濃にあります)で分部光嘉はここをまかされます。関ケ原の戦いの前哨戦となった安濃津城の戦いでは津城城主である富田信高とともに奮戦しますが兵力差もあり和睦。関ケ原の戦いの後、この功によって2万国に加増されます。2代藩主・分部光信の時代、伊勢上野が紀州徳川家領になったため、近江高島(大溝城)へ移されます。

大溝城

大溝城
大溝城

京都橘大学の講座は午前中だけだったので、山科駅から湖西線に乗って近江高島駅へ。琵琶湖の北西にあります。 

駅のすぐ近くに大溝城があります。織田信長が高島郡を支配すると、甥の津田信澄に高島郡をまかせます。琵琶湖沿いに大溝城が作られましたが、縄張り(設計)は明智光秀が担当しました。天守台跡の石垣だけが残っています。 

■琵琶湖の城ネットワーク 
織田信長が琵琶湖の水運を支配するために琵琶湖の周りを平行四辺形になるように4城ネットワークを作りました。中心になるのは安土城で秀吉の長浜城、明智光秀の坂本城、そして大溝城で構成されています。それぞれの城から別の城の状況が見え、何かあれば軍船ですぐに駆け付けられるようになっていました。 

■津田信澄 
お父さんは信長の弟である織田信行。信長に謀反を起こしたため暗殺されます。柴田勝家は最初、信行派でしたが信長の乗り換えます。 

津田信澄は信長に仕え京都御馬揃えに参加しています。信長の命令で明智光秀の娘と結婚したことから本能寺の変の後、大坂城で長曾我部攻めの準備をしていた津田信澄は織田信孝と丹羽長秀に疑われ討ち取られてしまいました。 

日本一安心な講義

京都橘大学
京都橘大学

1年ぶりに京都橘大学へ。 

昔は坂の上までスクールバスが行っていましたが、最近は麓のバスロータリーで停車するようになりました。講義を行う教室が坂の一番上にある清心館なんで、ひたすら階段を登ることになります。京都産業大学も階段が多かったですが、橘もかわらなくなってきました。通学するだけで鍛えられます。 

講義は学生向けではなく現役の看護師さん30名向けです。WOC認定看護師を目指すコースで実務経験がないと受講できません。今年度も北海道から九州まで集まっていました。教室で病気になって倒れても周りは看護師さんばっかりなんで、日本一安心できる講義です(笑)。

大和龍田城

大和龍田城
大和龍田城

秀吉と柴田勝家が激突した賤ヶ岳の戦いで活躍した7本槍の一人が片桐且元。関ケ原の戦い後は大和龍田村に2万8千石の大名として陣屋を構えていました。大坂方で家康と交渉をしていましたが方広寺の鐘名事件が起きます。 

■方広寺 鐘名事件 
「国家安康 君臣豊楽」という文字が家康を呪うものだという言いがかりです。鐘を作ったのは津の鋳物師辻家で、銘文を書いたのは京都南禅寺の清韓長老です。 

清韓長老と辻家は捕まりますが、家康が信頼していた藤堂高虎が津にひきとったようで清韓長老のお墓は津の上宮寺にあります。清韓長老が津に来たのは出身が鈴鹿だったことも関係しているのでしょう。辻家は息子が専修寺、津四天王寺、松阪の岡寺の鐘などを作っています。 

■大坂の陣 
片桐且元は釈明に駿府へ向かいますが家康は会わず、淀を江戸へ人質に出すなどの条件を示されます。ところが同時期に駿府入りした大蔵卿局は家康とすんなり面会となり、鐘銘のことも話題とならずに丁寧に扱われて帰ってきます。全然、違う情報が届いた大坂方は片桐且元を疑い、これがために大坂城を退去し、大坂の陣へと突入していきます。大坂の陣のすぐ後に亡くなっています。 

豊臣が滅んでも方広寺の鐘名はそのままだったので、やっぱり言いがかりだったんでしょうね。 

■大和龍田城 
片桐且元の嫡男から4代続きましたが、跡継ぎがいないために廃城となりました。且元の弟の子孫は、龍田の隣りにある大和小泉をおさめ明治まで続きました。大和龍田城の城跡はなく住宅地になっていますが、少し高台になっていて郭があったことが分かります。平太池あたりに堀の雰囲気が残っています。