小早川秀秋(岡山城)

小早川秀秋(岡山城)
小早川秀秋(岡山城)

【小早川秀秋】 
通説では関ケ原の合戦で裏切ったという小早川秀秋ですが、最初から東軍側で防衛の要となる松尾山城を小早川秀秋が占拠したため石田三成らは関ケ原ではなく隣の山中へ出陣。小早川秀秋と合戦になり家康軍との挟撃にあったという説も登場しています。つまり関ケ原で戦はなかったということです。 

関ケ原の合戦の後、小早川秀秋には宇喜多秀家の領地が与えられ岡山城に入ることになります。というわけで岡山城の一角に小早川秀秋の鎧や絵が飾られていました。 

【おそるべし刀剣男子】 
他にも戦国武将が展示されていましたが、絵を見るとめちゃくちゃイケメン揃い。何でも正子公也という戦国武将の画集などを出している作家の絵なんだそうです。 

そういえば昨年の紅白では刀剣男士なるものが出ていましたなあ。 土方歳三の愛刀である「和泉守兼定」なんかは、まだ有名ですが、「へし切長谷部」なんて、よほど織田信長について調べないと出てこないような刀まで登場しています。 

信長だったら今川義元を討ち取って手に入れ、その後、秀吉、家康に伝承された天下人の刀「義元左文字」だろうと思ったら、しっかり刀剣男子に入っていました。おそるべし刀剣男子!刀剣男子は映画にもなっていてロケ地がまさかの松坂城なんだそうです。

天神山砦(岡山城)

天神山砦(岡山城)
天神山砦(岡山城)

岡山には石山、岡山のほかに天神山があり、石山城時代に天神山にも砦が造られたようです。 

天神山はすっかり市街地となって天神山文化プラザや県立美術館ができています。今も高低差が残っていました。宇喜多秀家の岡山城が造られた時に石山とともに、この天神山も城内に取り込まれ、北側にひょこんと楕円形が出ている形の郭になっていました。 

石山城(岡山城)

石山城(岡山城)
石山城(岡山城)

金曜日、岡山で仕事だったので、少し早い目に出かけて石山城へ寄ってきました。 

石山城は宇喜多直家時代の城があった場所で現在は山陽放送などが建っています。岡山市内には岡山、石山、天神山の3つの丘が連なり、宇喜多秀家時代には岡山に城が造られ、これが現在の岡山城の前身となります。地下に秀家時代の石垣などが埋まっています。 

秀家は秀吉にかわいがられましたが、関ケ原の合戦では西軍側で戦い、八丈島にながされてしまいます。これが流人第一号となりました。石山城は岡山城に取り込まれて石山郭となりました。この当時の石垣や西手櫓が残っています。 

石山には南朝側だった上神高直が城をかまえ、その後は国人領主だった金光備前が城を構えていたようです。金光氏が宇喜多直家に滅ぼされ、ここに城を構えました。城跡は高台になっており、主郭があったところは駐車場になっていますが岡山城の天守閣が目の前に見えます。

高津宮

高津宮

上町台地にあったと伝わるのが仁徳天皇の高津宮で、現在は神社になっています。上町大地の西端にあり西側は崖になっています。高津の富という上方落語の舞台でもあります。

仁徳天皇は宋書・倭国伝に出てくる倭の五王の倭王讃または倭王珍ではないかと言われています。お墓は堺にある世界最大の大仙陵古墳で、昔は仁徳天皇陵と習いましたが、実際は誰が葬られているのか、よく分かっていません。

高津宮といえば有名なのが「高き屋に のぼりて見れば 煙立つ 民のかまどは 賑わいにけり」という新古今集に出てくる和歌で、仁徳天皇の偉業をうたったものです。疲弊した民のために3年間、徴税をやめ宮殿が荒れ果ててしまいましたが3年経って民の家々から煮炊きの煙があがるようになったという故事に由来するものですが、プライマリーバランスを無視して、ほんまにできるんですかいな~あ。

仁徳天皇といえば難波の堀江の開削(現在の大川と言われています)と茨田堤の築造を行ったインフラ整備で有名で国力を豊かにするための施策を実行したのが本当でしょう。

売上につながるネット集客の仕組み (大阪商工会議所・北支部)

大阪商工会議所には北支部、東支部、中央支部、西支部、南支部の5ケ所があり、各支部で「売上につながるネット集客の仕組み ~HP を見直し、SNS 活用でアクセスを増やす方法~」というセミナーを1月~3月にかけて行っています。

北支部では2回開催なので、都合6回目になります。東支部、中央支部が終わって第3回目は北支部でセミナーをしてきました。北支部の場所は南森町駅のすぐ近くにある ザ・セヤマビル にあります。立地がとってもいいですねえ。

四日市あすなろう鉄道

四日市あすなろう鉄道
四日市あすなろう鉄道

昔、日本全国でナローゲージ(いわゆる軽便鉄道)が走っていましたが、営業運転している路線はわずか2つだけになりました。2つとも三重県内にあります。 

その一つが近鉄四日市駅から出ているのが四日市あすなろう鉄道の内部線と八王子線。途中の泊駅で分岐します。ゲージ幅が狭く必然的に車両幅が狭くなるのでロングシートにすると座った乗客の足の間を抜けていくのが大変です。そこで列車の進行方向を向いた固定座席になっています。もともとは近鉄が運営していましたが赤字路線なので公有民営方式に移行しました。三重県は車社会ですからねえ。 

そういえばこないだ日経新聞に高齢者の免許返納について面白い意見が載っていました。「車に乗れなくなったら公共交通機関を使う」と高齢者がよく言っているが絶対に無理という記事で、車に乗るよりも体力がいる公共交通機関に、ふだんから乗っていなければ車に乗れなくなった時点で無理という至極まっとうな意見です。歩いて10分のスーパーに車で買物に行く田舎の生活スタイルから変えていかないと無理なんでしょうね。

恵方巻

恵方巻
恵方巻

今日は節分です。

節分って季節を分けることなので春夏秋冬の4回あるんですが、なぜか立春だけが有名になっています。季節の分かれ目には鬼(邪気)が発生しやすいので、陰陽師の時代からあったのが追儺(ついな)行事、これが豆撒きになっていきます。こっちは伝統行事なんでわかるんですが、よく分からないのが恵方巻。

その年の恵方(2019を年は東北東)向いて無言で巻き寿司を食べると縁起が良いという風習ですが、全国的になったのは最近のことです。もともとは関西にあった風習のようですが、これに目をつけて昭和の始まりから販促が行われ、これが幸運巻寿司となります。

写真は上本町の鮨店・美登利が配っていたプロモーション用チラシ。「その年の恵方に向かって巻寿司の丸かぶりをすると大変幸運に恵まれる」と書いてあることは今と変わりません。これがコンビニなどの影響で全国に広まり、恵方巻として定着します。

というわけで立春と恵方巻とは関係ないんですが、やっぱり食べてしまうんだろうな~あ。さあ、恵方巻を買ってこようっと。

訳語田幸玉宮(敏達天皇)

訳語田幸玉宮(敏達天皇)
訳語田幸玉宮(敏達天皇)

【敏達天皇】 
敏達天皇といえば仏教伝来で有名な欽明天皇の子供で、奥さんは額田部皇女(後の推古天皇)でした。大連は物部守屋、大臣は蘇我馬子が勤め廃仏派、崇仏派で争っており、次の用明天皇時代に蘇我馬子・聖徳太子vs物部守屋の戦いが起きます。崇仏派が勝利して聖徳太子が建てたのが大阪の四天王寺です。

敏達天皇は廃仏派で、廃仏派が優勢となり、物部守屋がインドから百済経由で伝わった仏像を難波の堀江へ打ち捨てます。これを本田善光という人物が拾って本尊としたのが信州にある善光寺となります。

【訳語田幸玉宮】 
さて敏達天皇の宮は訳語田幸玉宮(おさたのさきたまのみや)と言い、桜井の戒重にあったと言われています。欽明天皇の宮(磯城嶋金刺宮)、用明天皇の宮(磐余池辺雙槻宮)も同じ桜井にありました。訳語田幸玉宮跡は後に西阿の戒重城、織田の戒重陣屋となるところです。 

【大津皇子の邸宅に】 
訳語田幸玉宮の後は大津皇子の邸宅となり、大津皇子は天武天皇が崩御すると密告により謀反を計画したと捕えられ訳語田(おさだ)の自邸にて自害します。鵜野讃良皇后(後の持統天皇)の策略ではないかと言われている事件で、「天上の虹」の世界ですなあ。

宿野城(菰野)

宿野城
宿野城

【宿野城】
桑名、員弁、朝明、三重郡の北勢地域は北勢四十八家が群雄割拠する地域でした。四十八家の盟主だったのが千草氏で菰野に千草城を構え、近くの千草神社が出城になっています。

戦国時代、近江の六角氏が北勢へ侵入し、その後、信長の伊勢侵攻がはじまり滝川一益が北勢を支配することになります。北勢にはたくさんの城がありましたが菰野駅近くには力尾城のほか宿野西城、宿野城、福村館(消滅)がありました。

というわけで宿野城へ行ってきました。誰が造った城なのかは伝わっていませんが北勢四十八家のどこかと関係していたはずです。入口は藪になっていますが、そこを抜ければ竹藪の中を進むことができます。スーツ姿で登るのはあまりおすすめできませんねえ。城跡はちょっとわかりにくかったのですが土塁や堀切などがありました。

【巡見街道】
宿野城からは巡見街道を見下ろすことができます。巡見街道とは江戸時代に幕府の巡見使が通った道で三重県では亀山市で東海道から分かれて中仙道にまで続いていました。江戸時代以前から街道として使われていましたので、宿野城はこの街道を監視するための城で、反対側にある宿野西城と共に街道をおさえていたようです。

力尾城(菰野)

見性寺
見性寺(菰野)

【力尾城】
菰野駅のすぐ近くに見性寺があり、この見性寺の裏山にあるのが力尾城です。裏山には八十八ケ所巡りがあり、階段があって城跡まで楽に登ることができます。墓などに改変されているのでよく分かりませんが、一番上まで登ると土塁や帯郭跡などがありました。藪もないので夏でも大丈夫です。

【家康暗殺計画】
力尾城を築いたのが土方雄久という武将で、土方雄久は織田信雄に仕え、小田原征伐後に信雄が改易された後は豊臣秀吉に仕えました。秀吉亡きあとは秀頼、そして家康にも仕え、激戦の戦国時代に家名を全うした武将です。

土方雄久は家康暗殺計画で有名です。関ケ原合戦前に石田三成襲撃事件など権力争いが起きますが、その一つが家康暗殺計画。大河ドラマ「真田丸」でも描かれていました。前田利長を追い落とすために家康と本多正信が謀略を働いたのが通説です。結局、前田利長は生母の芳春院(まつ)を江戸に人質として送ることになります。

家康暗殺計画の首謀者として前田利長と共に名前があがったのが、浅野長政、大野治長、土方雄久です。土方雄久は大野治長と共に水戸・佐竹義宣のもとへ追放となってしまいました。土方雄久と前田利長は従兄弟だったという説があり本当だったかもしれません。結局、家康の上杉征伐の時に許されて復帰しています。

【菰野藩】
土方雄久は織田信雄が北伊勢を支配していた時代に力尾城を造りました。長男が土方雄氏で、菰野藩の初代藩主となります。力尾城では手狭だったのか新たに菰野陣屋と城下町を整備し、菰野陣屋の跡地は菰野小学校になっています。土方家は明治維新まで12代続き、見性寺には歴代の菰野藩主の墓があります。ここも郭のようでした。