2019年はホームページ誕生30周年

そういえば2019年はホームページが誕生して30周年です。

1989年、スイスのジュネーブにある欧州原子核研究機構 (CERN) で研究していたティム・バーナーズ=リー博士がハイパーテキストの考え方を発表します。ハイパーテキストというのはカーソルを持っていくと指マークに変わり、クリックすると飛ぶリンクのことです。このハイパーテキストを使って作成したのが最初のホームページで、実際のものは1990年にできました。

これに熱狂したのがイリノイ大学の学生だったマーク・アンドリーセンらで、テキストしか扱えなかったのを画像なども扱えるマルチメディアのブラウザーを開発してしまいます。ここにちょっかいを出してきたのがジム・クラークで、大学と揉めて飛び出したり、傍目で見ていたビル・ゲイツがインターネット・エクスプローラで殴りこんできたりという戦国時代に突入します。

というわけで「バグは本当に虫だった!」をぜひどうぞ(笑)。

額田戎神社

額田戎神社

えべっさん、今年もあんじょう頼んまっせえ!他のヤツの願いはどうでもええから、ワテの願いは絶対でっせえ!合同会社もやっているし、ほんまに頼んまっせえ!!

ということで家のすぐ近くにある額田戎神社へ。人が多い今宮や西宮へ行かなくても、ゆっくりお参りできるのが最高です。西宮のえべっさんを勧請しているので、ご利益は同じです!!と信じています(笑)。なんせ浄土真宗なみの絶対他力ですから、ほんまにあんじょう頼んまっせえ!

いつもは閑散としている額田戎神社も十日戎の間は”商売繁盛で笹もってこい!”が大音量で流れています。まずはえべっさんにお願いして、次は社殿裏にまわって木の板をたたき、もう一度お願いをします。なんせ耳が遠い神様なんで念には念をいれます。

境内でお神酒と甘酒をいただいてから縁起物を買い求めます。額田戎神社では縁起物を買うと福引ができ、今年も5等(末等)のゴミ袋でした。さあ、また1年がんばろう!

上之宮遺跡

上之宮遺跡

聖徳太子による最初の国立劇場である土舞台から山を降り、少し歩いた住宅街のど真ん中にあるのが上之宮遺跡。とっても分かりにくいところにあります。 

発掘によって周囲100m四方の敷地内に大型建物、花園、園地遺構があることが判明しました。近くを川が流れており川が削った河岸段丘の上にあります。今は住宅地の中に園地遺構が復元され、小さな公園として整備されています。 

聖徳太子を最近の教科書では厩戸皇子と呼ぶそうですが、別名で上宮王(かみつみやおう)とも呼ばれています。上之宮という地名から、聖徳太子が斑鳩宮に移るまで過ごした宮殿、上宮(かみつみや)が上之宮遺跡跡ではないかとも言われています。またこのあたりは豪族・阿倍(安倍)氏の本貫でもあるので阿倍氏関係の居館の可能性もあります。阿倍氏は阿倍比羅夫などを輩出し、平安時代には安倍晴明へとつながります。飛鳥時代から続く安倍文殊院もあります。 

近年、もう少し西へ行った東池尻・池之内遺跡で池の堤跡が見つかり、これが磐余池ではないかと言われています。磐余池の近くには用明天皇の磐余池辺雙槻宮があり、上宮はその南隣にあったとされているので、上ノ宮遺跡は阿倍氏関係ですかねえ。 

土舞台

土舞台

安倍山城から尾根づたいに歩くと郭跡のような広場があり、”おおっ!”と思ったら土舞台という碑が建っていました。

なんでも推古天皇の時代に百済人の味摩之が日本に帰化したんですが、伎楽の舞を習得していたので聖徳太子が子供を集め、この伎楽の舞を習わせた場所なんだそうです。技術伝承ですなあ。というわけで土舞台は日本芸能発祥の地で日本最初の国立劇場なんだそうです。ほんまかいな~あ。地名が土舞台ですから、何かはあったんでしょう。

伎楽は三国志で有名な呉から伝わった舞で東大寺の大仏開眼供養などでも披露されましたし、正倉院にも酔胡王、迦楼羅、呉女などの伎楽面がいくつも伝わっています。

土舞台は江戸時代の「大和名所図絵」に紹介されるほど有名だったそうですが、今はほとんど知られていないので顕彰碑が建てられたんだそうです。まあ行っても単なる広場で、南北朝時代の安倍山城の時は絶対に兵士が駐屯した郭として使われていたでしょうね。

磐余若桜宮跡

磐余若桜宮跡

大和谷城跡は現在、若桜神社となっていますが古代には磐余若桜宮跡があったようで伝承地になっています。磐余(いわれ)というのは現在の桜井市西部地域を指した古代の地名で、神武天皇の和風諡号にも磐余の名前が入っており、かなり古いですね。 

磐余若桜宮を作ったのは第17代履中天皇で、宋書に出てくる倭の五王の倭王讃ではないかと言われており、実在したようです。磐余に造った池で船遊びをしていると、杯に季節はずれの桜の花びらが舞い落ちたことから、宮名を磐余稚桜宮としました。 

磐余池といえば大津皇子の辞世の歌が万葉集に残っています。”ももづたふ 磐余の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ”。大津皇子の墓は二上山にあります。里中満智子の「天上の虹」の世界ですな~あ。

50年前にインターネットが誕生した

皆さんの家や会社に無線LANルーターがあると思いますが、無線+LAN+ルーターの3つの機能があります。ルーターには経路制御という機能があるんですが、これがインターネットを支える基本機能です。今から50年前の1969年にUCLA(カリフォルニア大学ロスアンゼルス校)に、このルーターの元祖が設置されました。続いてスタンフォード研究所に設置され、UCLAとネットワークで結ばれます。 

■インターネットで最初に流れたのはLO 
UCLAからスタンフォード研究所に「LOGIN」(ログイン)というデータが送られます。最初の「L」と「O」の文字が送られたことは電話で確認されています。ですが、この時点でシステムダウンしてしまいました。バグがあり修正されUCLAからスタンフォード研究所へログインすることができインターネットがスタートします。 

2拠点以外にカリフォルニア大学サンタバーバラ校、ユタ大学にもルーターの元祖が設置され4つの拠点を結ぶネットワークができます。国防総省(DARPA)が予算を出し、作られたネットワークですのでアーパネット(ARPANET)と名付けられ、これが皆さんが今使っているインターネットの元祖となりました。もう50年も前のことになるんですねえ。 

バグは本当に虫だった

→ 詳しくは「バグは本当に虫だった」(ペンコム社)をどうぞ! 

第2章に載っています! 

”さまよえるカレー屋”ジッキン

ジッキン

”さまよえる”と言えばリヒャルト・ワグナーのオペラ”さまよえるオランダ人”やヘディンの”さまよえる湖”を思い出しますが、”さまよえるカレー屋”さんの話です。

マイドーム大阪近くの谷四~内本町築といえばスパイスカレー激戦区です。ジッキンというキーマカレーのお店があるんですが、ずいぶん前、メキシコ料理を出すお店で昼間だけ営業していました。どうも間借りしていたようで、いわゆるヤドカリカレー(間借りカレー)です。店をまわしていたのは女性2人コンビでした。

いつのまにか看板がなくなり見なくなったな~あと思っていたら近くの居酒屋さんの三角看板にオロナイン風ホーロー看板風の女性(ジッキンのトレードマーク)を発見。ジッキンが復活していました。居酒屋さんを間借りし男性1名が定食とキーマカレーを出していました。そうそうキーマカレーを食べるとお土産に小さなアヒルの人形がもらえます。この男性がジッキン店主でしたが、9月末に居酒屋での間借りを終了し”さまよえるカレー屋”さんは終焉を迎えます。

12月中旬から「鍋とカレーとお酒のジッキン」として独自店舗をダイアパレスビル1F(内本町2丁目交差点南東角)に出店。メニューを見ると”ひとり鍋ランチ”という鳥鍋や豚鍋もありましたが、まずは定番の玄米キーマカレーです。豆腐やら、いろいろな具材がのっていて楽しめます。カウンターにあった高菜がなかなか美味でした。というわけで”さまよう”のをやめてしまったカレー屋さんです。

あなたの知らないクラウドファンディングの世界

あなたの知らないクラウドファンディングの世界

昨夜は知研関西セミナー。「あなたの知らないクラウドファンディングの世界」教育のチャンスを守る。カンボジアの子ども達に通学用自転車を!というタイトルで安田コンサルティング代表の安田さんにお話しいただきました。

安田さんは2年連続でクラウドファンディングReadyForを活用し、2018年は目標額120万円に対して146万円の支援金を獲得して、先日カンボジアで自転車を子供たちに158台プレゼントし帰国したばかりです。

クラウドファンディングで2回プロジェクトを達成するのは至難の業で
・支援金の波(法則があります)と波にあわせた施策
・事務局とどんなやりとりをするのか
・訪問者数と支援者数との相関
・手数料はとるが、それ以上のサポートをReadyForがするワケ
など、クラウドファンディングを実際に行う上でのいろいろなノウハウを教えていただきました。

カンボジアについても知らないことばかりで
■世界遺産アンコールワット
入場料が7千円ほどと高く、貧しいカンボジア支援になればと思っている観光客が多いのですが、お金はベトナムに流れます。

■子供たちが将来つきたい職業
80%が先生、医者、看護士で、農村から出たことがなく身近で見る大人の職業がこの3つだけ。両親はほぼ農家ですが土地は中国人がもっているため小作農となり生活は貧しく1年間の食糧確保ができない家庭が多くあります。

通学用自転車は3年持てばよく日本の中古自転車が現地にたくさん輸入されており現地で購入してプレゼントしています。自転車のカゴには支援者の名前や会社名が入ります。また悪路のため修理キットがセットです。

日本と同じで女の子が修理は難しいため学校に自転車クラブを作ります。生徒には一人ぐらい自転車屋の息子がいて家業の手伝いをしており、安田さんがささやきます。「今なら自転車クラブの初代部長になれるぞ。女の子が困っているのを助けたら3人に1人くらいは、ほれてくれるかもしれないぞ」これでイチコロだそうです(笑)。自転車クラブではプレゼント以外の自転車のメンテナンスも行い。技術を学んで自転車屋での独立を考える生徒も参加しています。各学校で設立された自転車クラブへのパーツ補給が課題になっています。

Googleマップで見つけた安倍山城

安倍山城

桜井周辺のGoogleマップを何気なく見ていて発見した山城跡です。最近のGoogleマップにはマイナーな山城跡まで載っていて、なかなか重宝します。山城の名前は安倍山城という名前で場所は谷城から丘陵沿いにずっと行った頂上にあり公園になっていました。

頂上からの眺めはよく桜井~八木~生駒山一帯が見渡せます。山城の案内板があり、暦応4年(1341)に北朝方の細川顕氏が安倍山城に陣を構え、南朝方の西阿が篭る戒重城攻めを行ったそうです。西阿といえば南朝の忠臣で最後に立て籠もった城が近くの外鎌城で、主郭には西阿の碑が建てられていました。

西阿が篭る戒重城は平城で桜井駅の近くにあります。細川顕氏が戒重城の南側にある安倍山城に陣を構えたということは後醍醐天皇の吉野との連絡を断つためでしょう。南北朝の戦いでは桜井一帯が戦場になっていました。戒重城も外鎌城も落ち、西阿は楠木正行と共に四条畷の戦いに出陣し討死したと伝わっています。

安倍山城は永禄8年(1565)にも使われたようです。松永久秀が布陣し、鳥見山城の筒井順慶と戦いました。

大和・谷城

大和・谷城

近鉄・JR桜井駅を降りてまっすぐ南へ向かうと大和信用金庫の本店があり、この本店を通り過ぎると国道165号線(津から出ています)があります。この165号線をを超えると右手にこんもりとした丘が見え、丘の上にあるのが若桜神社。境内には清水湧き出る泉があり、これが桜井という地名の由来になっています。この若桜神社が谷城跡です。谷城の築城時期などは分かっていません。 

階段を上がると神社の境内で社殿がありますが、ここが谷城の主郭になっていて周りを土塁が巡っています。裏側は竹藪になっていますが土塁がよく分かり、神社の南側には空堀が見事に残っています。住宅地の一角なんですが、開発もされず、よく城跡が残りました。