消費税の転嫁拒否等に関する調査票

消費税の転嫁拒否等に関する調査票
中小企業庁から封筒が届いていました。
 
開けると公正取引委員会&中所企業庁の連盟で「消費税の転嫁拒否等に関する調査票」でした。
 
早い話が消費税があがったのに価格を上げないなど取引の見直しに応じない取引先を教えてという内容。取引先に調査に入っても通告者が特定できないよう、様々な工夫をするとも書いています。
 
通告を増やすために返信用封筒の切手はいらないようになっています。大企業などではコンプラ研修をしていますが、行き届いておらず、時たま法律違反をしていることに気づいていない担当者もいますので発注側も大変です。

釣山城(一関)

釣山城
電車の時間を気にしながら釣山城へ。東北新幹線・一関駅から少し歩いたところにあります。公園になっていますが、郭跡が残っています。一関藩主は伊達家の分家だった田村氏の居館跡があったそうで、頂上には田村神社があります。公園整備にともなう発掘調査によると、釣山を中心に東西450メートル前後、南北400メートル前後に及ぶと考えられている。
城ができたのはけっこう古く、天正年間にはあったそうで葛西氏の家臣が城主でした。秀吉の奥州仕置きで葛西氏が滅びると紆余曲折があって伊達氏が支配することになります。それ以前は坂上田村麻呂の陣地、源頼義、義家の陣地としても使われたと説明版にありました。

白山社山王社

白山社山王社
奥州藤原氏時代の平泉復元図を見ると壮麗な毛越寺などが描かれているのですが、気になるのが伽羅御所、無量光院の近くにある池に浮かんだ小島の社。周囲を池が囲み、一本の土橋が延びています。ところが、あまり皆さん、気にならないのか平泉の史跡マップなどには掲載されていません。
■平泉の鎮守社だった
調べると白山社山王社という社で、せっかく平泉へ行ったので探して行ってきました。平泉駅から伽羅御所の方へ向かいますが線路を渡らずに線路沿いを行くと住宅地の近くに細い路地があり、白山妙理権現への道と小さく書いてありました。進むと湿地帯みたいなところへ出て、ここがかっての「鈴沢の池」跡。畑をしている人に聞いたら、まっすぐ行くと社へ出られるということで向かうと、今は白山妙理権現という社になっていました。
藤原秀衡の時代から明治はじめまでは白山社山王社で、平泉の鎮守社の一つだったそうです。1570年頃ですので姉川の戦いの頃に消失し、現在の社殿は1763年に建立されたものです。本居宣長が伊勢へ行く途中の賀茂真淵と出会い、古事記研究にすすむことになった松阪の一夜の年ですねえ。

源義経最期の地・高館

高館
柳之御所のすぐ横にあるのが高館。
丘に造られた山城で初代・藤原清衡の時代から要害でした。柳之御所の詰城のような存在だったのでしょう。3代・藤原秀衡が源頼朝と対立した源義経を呼び寄せます。どうも、軍事の天才だった義経を総大将にして鎌倉との一戦を考えていたようです。ところが秀衡が死んだ後、源頼朝の圧力に耐えかねた4代・藤原泰衡が急襲し義経は自刃して果てます。自刃したのは、もう少し北にある衣川館という説もあります。
自刃する時間を稼ぐために弁慶が満身に矢を受けながら薙刀を杖にして亡くなります。これが有名な弁慶の立ち往生。「夏草や 兵どもが 夢の跡」という松尾芭蕉の碑が建っていました。
高館は北上川が眺められる高台にあり、複数の郭から構成されています。なかなか広い郭です。

夏越の祓

夏越の祓

2018年の上半期が終了。近くの枚岡神社へ行くと茅の輪くぐりがあったので、巡ってきました。
 
夏越の祓の風習ですが、関西には多く関東では少ないそうです。先日、行った盛岡城の桜川神社にも茅の輪くぐりがあったので、地域性があるようです。
 
さあ下半期も頑張ろう!

算定基礎届を提出

算定基礎届
日本年金機構から算定基礎届の提出についての書類が届いていました。
算定基礎届は社会保険料の計算に使われます。会社に勤務すると毎月、給与が支払われますが残業代などで変動します。そこで4月、5月、6月の給与を合計して平均を出したものをもとに標準報酬月額が決まります。
つまり4、5、6月の給与をもとに、その年の9月から翌年8月の社会保険料が決まります。給与には残業代、通勤費、各種手当などが含まれますから3~5月の残業が多いと社会保険料が高くなるといわれるのは、この算定基礎届に起因しています。
ウチは固定の役員報酬だけで、標準報酬月額の変更もないので何の問題もなく提出しておきました。

奥州藤原氏終焉を見つめた平泉館(柳之御所)

平泉館(柳之御所)
初代、藤原清衡が作ったのが平泉館(ひらいずみのたち)で3代秀衡が再整備しました。源頼朝が大軍で平泉を攻めてきた時、4代泰衡が自ら平泉館に火を放ち炎上しました。後世、柳之御所と呼ばれるようになります。
■平泉館をめぐる空堀
発掘によって会議や接待などに使った2つの大きな建物と厩などの附属建物や庭園が見つかっています。平泉館は奥州藤原氏の政庁でした。また平行する2本の空堀が見つかっています。
2本の空堀は時期が異なり、併存していないようで、3代秀衡の頃は平泉館を囲む形で幅10メートル、深さ4メートルの空堀が巡っていました。この秀衡時代の空堀の一部が復元されています。こうなると中世城郭ですね。空堀は延長すると500メートルもあったそうで3ケ所で橋がかかっていました。
■奥州藤原氏の終焉
藤原秀衡は京都、鎌倉とも距離をとった局外中立でしたが、源頼朝にとって奥州は源頼義、源義家以来の源氏にとって遺恨のある土地ですから、ぶつかるのは必定。そこで藤原秀衡は流浪していた源義経を平泉に招き入れ、17万騎の武士団をまかせることにしましたが、義経が平泉入りして9ヶ月に死去。
このチャンスを逃さず源頼朝は自ら軍を率いて平泉に進軍。4代泰衡は義経を討ち取り、首を差し出しますが、頼朝の目的は違っていますので奥州藤原氏は滅びることになります。この歴史の舞台がこの平泉館でした。

源頼義が戦勝祈願した中尊寺・八幡堂

八幡堂
陸奥守に任じられた源頼義は奥州を目指します。
衣川柵の手前、月見坂(平泉)の脇に八幡堂がありました。月見坂は中尊寺の本堂へ至る上り坂になっていて、八幡宮は月見坂のすぐ脇にありますが、皆さん素通りするところになっていて誰もお参りしている人はいません(笑)。
現在のような中尊寺の伽藍が整備されたのは藤原清衡の時代ですが、当時すでに中尊寺は開山し、いくつかのお堂があり、その一つが八幡堂でした。
■八幡宮で戦勝祈願
源頼義は、進軍中に戦勝祈願をあちこちで行っています。陸奥国守に任命される前、源頼義は相模国守でしたので、奥州へ出かける前に相模国にある鎌倉の鶴岡若宮(鶴岡八幡宮の前身)に戦勝祈願をしています。また杉並区の大宮八幡宮もこの時の進軍がゆかりでできた八幡宮です。八幡といえば武運の神様なんで、戦勝祈願には最適でしょう。
織田信長も桶狭間へ向かう途中、榎白山神社、日置神社、熱田神宮で戦勝祈願をしていました。尾張にも若宮八幡社などがあるんですが通り道じゃなかったんですかねえ。
■安倍首相は安倍氏の末裔
月見坂の八幡堂ですが、中尊寺を超えれば、すぐに衣川柵での戦いが待っていますから、源頼義は、かなり熱心に安倍氏追討を祈願したことでしょう。前九年の役で滅ぼされた安倍氏ですが、末裔が安倍晋三(内閣総理大臣)となります。と本人が講演で言っています。

南部氏の居城・盛岡城

盛岡城
盛岡市の中心部にあるのが盛岡城で南部氏の居城でした。現在は公園として整備され、石垣や郭跡が残っています。
南部氏の本貫は甲斐国南部郷でしたが源頼朝による奥州平泉攻撃に参陣し、陸奥を領するようになります。南部氏は武田氏と同じ甲斐源氏の系統で鎌倉時代以降、明治まで同じ土地を領有したのは薩摩の島津氏と南部氏だけでした。
■九戸政実の乱
伊達政宗と違い、豊臣秀吉と親交があった南部信成は小田原征伐にも参陣し、所領を安堵されます。奥州仕置の一環でしたが、おさまらなかったのが九戸政実で、室町幕府からは南部宗家と同列の武将と扱われていましたが、奥州仕置により南部家家臣という立場になってしまいます。
そして”九戸政実の乱”が発生します。戦国時代最後、九戸城という山城を舞台にした戦いになり、九戸城が中世終焉の地となりました。乱を平定した後に築城されたのが現在の盛岡城です。
■幕末、藩論が揺れる
幕末、新政府につくか幕府につくかで藩論が分かれましたが、仙台藩の圧力もあり奥羽越列藩同盟に参加。隣の久保田藩(秋田藩)が新政府についたので大館城に攻め入り落城させます。この時に全焼したため大館城(桂城)には堀と土塁しか残っていません。

厨川城(安倍館)

厨川城(安倍館)
■前九年の役
盛岡には前九年一丁目というバス停があります。そう、日本史で習った”前九年の役”の舞台で、今はすっかり住宅地となっています。
前九年の役といえば河内源氏が台頭するきっかけとなった戦い。実質的な独立国家・安倍一族と朝廷側の争いで朝廷から陸奥守として派遣されたのが源頼義。最初、安倍氏は抗戦せず服従策をとりますが、どうも源頼義が陰謀を仕掛けたようで全面衝突となり、これが前九年の役。ところが安倍氏は強く、源頼義は大敗します。そこで源頼義は局外中立を守っていた清原氏を味方に引き入れ、安倍氏は滅びます。
有名な「年を経し糸の乱れのくるしさに」「衣の館はほころびにけり」という和歌が交わされたと逸話があるのが、この前九年の役です。
■安倍氏館(厨川柵)安倍氏館があったところが安倍館町という地名で残っており、ここに厨川柵がありました。この時代のものは残っておらず、鎌倉時代に地頭として工藤氏が派遣された時に厨川柵跡に厨川城が築かれ、現在は住宅地に厨川城時代の深い堀切がいくつも残っています。7つの郭があったようで、主郭のあったところは神社と保育園になっていました。
厨川城は川沿いの切り立った崖の上にあり、他の三方を堀切が巡る形になっています。
■斯波氏
源頼義の子供が八幡太郎義家で共に前九年の役、後三年の役を戦います。この義家が源頼朝、足利尊氏の先祖となります。坂上田村麻呂が築いた志波城は斯波城とも書き斯波郡にあります。ここを本貫(苗字)にしたのが足利氏の分家である斯波氏で、室町幕府では三管領家の筆頭となりました。
斯波氏は越前、尾張、遠江の守護でしたが、越前は守護代(現地の支店長)だった朝倉氏に奪われ、遠江も駿河守護だった今川氏に奪われます。残ったのが尾張で、ここの守護代のそのまた家来だったのが織田信長。結局、尾張からも追い出されてしまいます。