
Red BallというのはAll Aboutのロゴの赤玉からきています。All Aboutha2001年2月にサイトが立ち上がって15年目を迎えました。
それ以来、年1回ガイドが集まるRed Ballが開催されています。全部はさすがに無理ですが、行ける時には、なるべく参加し割と出席率がよい方です。
第一部はまじめな話でAll Aboutグループの近況を江幡CEOが、続けてAll Aboutについて松井編集長の話がありました。松井編集長に昨日、お会いした時にプレゼンにはオチが大切ですよと言ったのですが、全然オチがありませんでした。(笑)
■サンプル百貨店
業績がよいのがサンプル百貨店で1回だけお試し価格で買えるというコンセプトがうけて、現在、会員数が100万人を突破しているそうです。「ちょっプル」というCMを流しているそうで、そういえば1回ぐらい見たことがありますね。どこかで見た子役だなと思ったら、タントのCMに出てくる子役でした。
■パーティ
All Aboutは15年が経過し全体のガイド記事総数は16万本になっているそうで。私も400本ほどは貢献しています。さて第一部が終わったら後はパーティです。ドラマガイドの黒田さんが壮大な異業種交流会だと言っておりましたが、まさしくそうですねえ。
写真は会場入口にあった写真用パネルで、入口で出迎えていた江幡CEOと撮影してきました。歳がそんなに変わらないはずが見た目は全然、違いますなあ。(笑)
恵比寿のAll Aboutへ

久しぶりに東京へ。日頃の行いがよいので富士山もバッチリ見られました。
日頃、お世話になっているところをいろいろと訪問し、最後は恵比寿にあるAll Aboutへ。
All Aboutは2001年3月にサービスインしたので、ちょうど15年目を迎えます。私が「企業のIT活用」のガイドをはじめたのが2002年3月なので、こちらも14年になるんですねえ。14年の間に編集者もいろいろとかわり、いつもはメールでやりとりしている編集者と今日、初めて会ってきました。(笑)
社屋も恵比寿周辺ばかりで、いろいと移転していて現在の場所が6ケ所目です。昨年、引越したので今回、初めて新社屋へ行ってきました。1階にはタリーズコーヒーとスバルのショールームがあり、きれいなオフィスでした。ワンフロアでみなさん仕事していましたが、14年前に比べ、すごい人数が増えましたね。
以前のオフィスでは会議室にシカゴなど空港の名前がついていましたが、今度は「そら」、「まる」など和を意識した2文字になっていました。会議室名前が達筆すぎて読めないのが玉にきずです。
深野池にあった三箇城

戦国時代の大阪東部には深野池(ふけのいけ)という大きな池があり、現在の寝屋川市南部、門真市東部、大東市中央部、東大阪市北部、四條畷市西部に拡がっていました。もともとは神武東征の時代にあった河内湖の名残です。江戸時代に大和川の付替が行われ、深野池はだんだん縮小し、今ではふつうの池になっています。
■三箇城
深野池は淀川などとつながっていますので港がありました。上方落語「野崎参り」に屋形船のシーンが出てきますが、近年まで船運が使われていました。三好長慶の時代も港があり、飯盛山城の支城が深野池の島に造られます。それが三箇(さんか)城。池に3つの島があったことから三箇と名付けられ、最も大きかった大箇島に城は造られました。
岡山城や城と同様に河内キリシタンの拠点でした。朝廷から伴天連追放令が出た時に京都から逃れてきたビレラやフロイスが数か月滞在したのがこの三箇にあった教会です。フロイスはローマに「教会は水に囲まれた小さい島にある」と報告しています。城主は三箇頼照でキリスト教の洗礼を受けサンチョと名乗りますが、敬虔なキリシタンとして修道士の間でも有名でした。畿内一大きかったと言われる三箇の教会では盛大に復活祭(イースター)もやっていたそうです。劇も行われ見物客が3000人もいたと記録されています。
■明智光秀に味方
三箇頼照の息子になった時代、”河内国の半分をやる”といった条件にのって明智光秀に味方してしまいました。結局、秀吉に領地などを没収され三箇頼照と息子などは追放されることになり教会も破壊されてしまいました。
三箇城跡は残っておらず、現在の三箇菅原神社付近にあったようです。
フロイスの日本史に登場する「砂」

先日、行った河内岡山城のすぐ近くにあるのが砂という住宅地。今は単なる住宅地ですがルイス・フロイスの「日本史」に「砂の寺内」として登場します。
■河内がキリシタンの土地となる
信長より先に天下人となった三好長慶に仕えていたのが松永久秀。都を支配していた松永久秀はキリシタンがきらいだったようで朝廷に手をまわして都から伴天連を追放せよという命令を出させました。やむなく伴天連は堺などへ避難します。
松永久秀は部下に命じてキリシタンとの宗論(宗教間のディベート)をするよう計画しました。事前準備のために修道士を訪ねたところ、理路整然とした修道士からの回答に感銘をうけて結城忠正や高山図書(高山右近のお父さん)が洗礼をうけます。
結城忠正が、飯盛山城へ戻った時に同僚の武将にもデウスの教えをすすめます。息子の結城左衛門尉は飯盛山城に近い砂に邸宅を構えていたこともあり、この地に最初の教会を建てました。
またロレンソ修道士などが三好長慶に招かれて飯盛山城に来訪し河内はキリシタンの一大拠点となり3,500人のキリシタンがいたと言われます。砂にも砂城があったようで、結城左衛門尉の邸宅がそうだったのでしょう。三好長慶は茶や連歌でも有名で、当時の砂は最先端の文化都市でした。
■松永久秀の子孫
信長が天下人として台頭すると、フロイスとロレンソは足利義昭のために二条城を工事している最中の信長と対面。京に居住する許可をもらい、先に出ていた宣教師追放令は事実上、無効になりました。よく映画などで信長が伴天連と会うシーンで登場しますが、この時です。
この後、安土にはセミナリヨなどが建てられます。そうそう信貴山城で信長に刃向って死んだ松永久秀の子孫がiモードの生みの親でもある松永真理さんです。
■砂は大坂夏の陣の舞台の1つ
大坂夏の陣が起きると徳川本体は京都から道明寺をめざし、東高野街道を南下します。途中、家康が陣をおいたのが砂。秀忠は近くの岡山城に陣を置きました。
南下する徳川本体を横から攻めるため大坂城から出撃したのが木村重成と長宗我部盛親で、これに気がついた藤堂高虎と井伊直孝が多大な犠牲をはらって敗退させ、木村重成を討ち取ったのが八尾・若江の戦いです。砂を出た家康は枚岡に宿営します。
河内岡山城

岡山城へ行ってきました。
岡山城といっても宇喜多秀家の岡山城ではなく飯盛山城の支城の1つである岡山城でJR学研都市線の忍ケ丘駅の近くにあります。東高野街道と清滝海道の交差するところの近くで交通の便のよいところでした。
名前の通り忍ケ丘の高台の端にあり、現在は忍陵神社があります。城の遺構は残っていませんが、眺めがいいですね。室戸台風で社殿が倒壊した時の再建工事で石室があるのが分かり、古墳だったことが判明します。古墳の上に造られた城でした。
■河内キリシタンの拠点
松永久秀の家臣だった結城忠政が高山右近の父親である高山友照と共に大和の沢城でキリシタンとなったのが河内キリシタンのはじまりですが、この結城氏一族が岡山をおさめており城を造りました。
熱心なキリシタンで家臣にもすすめ、京都の教会作りにも積極的に参加しています。岡山城にも教会堂が造られました。
■徳川秀忠の陣になる
信長の時代に岡山城は破城となりましたが、大坂夏の陣では徳川秀忠の陣が置かれました。徳川秀忠は京都から東高野街道を使って大坂へ向かいましたので、大坂城もよく見える高台の岡山に陣を置いたのでしょう。
人工知能が人間を超えるのはいつ

去年10月、グーグルの囲碁ソフト”アルファ碁”が中国出身のプロ棋士と勝負し、5戦全勝したというニュースが飛び込んできました。
既にチェスではコンピュータがプロに勝ち、将棋の電王戦でもコンピュータがプロに団体戦で勝っています。将棋に比べて格段に検討すべき手が多い囲碁でコンピュータの勝利は当分無理だろうという予想でしたが、早々と実現してしまいました。
秘密はディープランニング(深層学習)。脳の回路をモデルにしたニューラルネットワークという研究がありますが、これを深めたもので、少し前にYouTubeの動画をずっとコンピュータに見させていたら、人が教えなくても「猫」とはどういうものか認識したと話題になったやつです。
人工知能が人間の能力を超えることもシンギュラリティ(技術的特異点)と呼んでいますが意外に早く実現するかもしれません。
All About「企業のIT活用」最新ガイド記事です!!
→ 人工知能が人間を超えるのはいつ
リーズナブルなシンクライアント

三重県産業支援センターの会議室で2ケ月に一回、ITC三重(ITコーディネータなどの集まり)を開催しています。
今回は名古屋にある株式会社インフィニティ の大畑社長と息子さんに「リーズナブルなシンクライアントの提案」というテーマでセミナーをしていただきました。
シンクライアントとはパソコンを単なる表示装置にして画面などは全てサーバー側で用意する技術です。古いパソコンでも動きますし、ノートパソコンが盗まれてもデータはないので大丈夫です。
大畑社長はSEなどを経験した後に名古屋へ戻り、起業してシステム開発の仕事をはじめましたが、当初は中小企業のシステムコンサルを考えていました。ところが中小企業はコンサルに金を出さないことが分かり、システム開発の仕事へ。
ところがクライアントサーバー型でシステムを作るとシステムと関係がないパソコンのトラブルまで対対応しないといけなくなります。手離れがよいように汎用機のようなシステムを作って、パソコントラブルから解消できないかと20年前に仕組みを作りはじめたのが発端でした。会社は名古屋ですが大畑社長が住んでいるのは桑名なんだそうです。
中川清秀、片桐且元の茨木城

高槻と大阪の間にあるのが茨木市。
イバラギではなくイバラキです。そういえばSEをやっていた頃、イバラギでプログラムから帳票印刷してしまい、回収騒ぎになったイヤな思い出がある地名です。(笑)
■城主 片桐且元
阪急茨木市駅から少し行ったところが片桐町。大河ドラマ「真田丸」では、後半の方に登場してくる片桐且元にちなんだ町名でしょう。
賤ヶ岳の七本槍のひとりで、徳川家康側ですが秀頼の代行のような役割をしていました。方広寺鐘銘事件では大坂方と徳川方の調整をしていましたが決裂し、徳川との内通を疑われた片桐且元は大坂城を出て茨木城に入ります。
■城主 中川清秀
片桐且元の前には中川清秀が城主を勤めていました。荒木村重が謀反を起こした時に従いましたが織田信長の調略で寝返りました。中川清秀がそのまま荒木方だと播磨へ進出していた秀吉は摂津が閉ざされ連絡ができなくなり、大変な事態になっていたでしょう。
本能寺の変の後、中川清秀は秀吉に味方し、柴田勝家の賤ヶ岳の戦いでは佐久間盛政の奇襲を受けて討死しています。
茨木城ですが本丸などの字名が残っているだけで遺構はありません。茨木神社の門が茨木城の搦め手門を移築したものになります。
小牧・長久手の合戦の舞台 蟹江城

関ヶ原の合戦は美濃の関ヶ原だけでなく東北から九州まで各地で戦闘が行われましたが、小牧・長久手の合戦も尾張だけでなく伊勢などが戦場になりました。
■蟹江城合戦
名古屋から桑名へ向かう途中にあるのが蟹江。蟹江駅の近くの地名はそのものずばり「城」になっています。戦国時代、ここに蟹江城がありました。現在は住宅地に本丸にあった井戸が残っているだけです。この蟹江城で蟹江城合戦が行われました。
家康・信雄陣営と秀吉陣営がこう着状態になった時、秀吉は既に隠居していた滝川一益と一益の息子に加勢を頼みます。滝川一益は清洲城と桑名城の連携を妨害するために途中にある蟹江城の攻略をはじめ九鬼水軍と連携して蟹江城を落城させます。蟹江川をはじめ川が多く、ゼロメートル地帯で湿地帯になっていますから攻めるのは難しかったでしょう。
ここまではよかったのですが、秀吉側の主戦力の投入などが遅れ、織田信雄と徳川家康が蟹江城を攻め、これを開城させます。蟹江城合戦こそが徳川家康の生涯における最も重要な勝利であるという評価もあるような戦いでした。
電子申告が終了

水谷IT支援事務所という個人事業をしていますもので、確定申告をしなければなりません。
天気予報では雨ということで、朝から一杯やりながらパソコンと格闘しておりました。(笑)税務署へ行くのは面倒なので、毎回、電子申告(E-Tax)を使っています。電子申告には電子証明証が必要ですがマイナンバーカードはいつ手に入るか分からないので、前もって住基カードの電子証明書を更新しておきました。
まずは2015年度(第14期)の1年間を締めて決算を行います。もっとも会計ソフトがやってくれるので楽ですねえ。仕訳間違いや変な所を修正し、決算データは終了。社会保険料控除や小規模企業共済控除などを行って申告資料が完成。
「申告資料ができた!」とICカードリーダーと住基カードをセットして、いざ送信すると「送信できませんでした」というエラー。おかしいなと思ったら、デフォルトが「個人認証(番号カード)」になっているんですね。「個人認証(住基カード)」を選び直して送信したらOKでした!
さあ、終わった!本格的に飲もうっと!