西濃で生き残るビジネスモデルを考えてみよう

地域活性化セミナー
午前は少し時間があったので関ヶ原で途中下車して、各武将の陣跡を巡っておりました。(笑)さすがに松尾山を登る余裕はなかったのであきらめました。
午後は岐阜工業高等専門学校で地域活性化セミナー。タイトルは「西濃で生き残るビジネスモデルを考えてみよう」です。学生向けではなく高専と西濃信用金庫などが地域活性化のグループを作っていて、参加されている中小企業者が中心です。銀行の支店長さんらもけっこう参加していました。
セミナーの1/3は織田信長に学ぶビジネスモデルの話。斉藤龍興が経営する美濃に対してブラック企業ながら新進気鋭の織田信長から転職の誘いを受けた時にどう決断するか。西美濃の三人衆である稲葉一鉄(美濃清水城城主)、安藤守就(美濃北方城主)、氏家卜全を中心にどんな選択をしたかというマニアックなお話しが導入部でした。あとの交流会で聞いたら、お世辞もあるでしょうが、なかなか好評でした。
まあ、この分野は得意ですので(笑)

柴田勝家の北庄城

北庄城
浅井・浅倉連合軍の一角だった朝倉義景が信長に滅ぼされます。この時、稲葉山城を奪われ美濃を失い逃亡した斉藤龍興も滅ぼされています。斉藤龍興は逃亡後、長島一向一揆や三好三人衆と組んで、ことごとく信長に刃向っており、最後は朝倉義景と組んでいました。今川氏直のように今川家がなくなってから父親(今川義元)の敵の前で蹴鞠をするような人物もいたなか、首尾一貫した生き方でしたので、すごいですね。
朝倉に代わって越前をおさめたのが柴田勝家。越後の上杉氏に備えるためが目的です。柴田勝家が一乗谷でなく、新たに作ったのが北庄城です。天守もあった大きな城だったようで、工事中に訪れた宣教師ルイス・フロイスの記録にも出てきます。ところが建設途中で賤ヶ岳の合戦が起きてしまいます。初戦は勝っていましたが前田利家の敵前逃亡もあり、負けて北庄城は落城、炎上してしまいます。
以前に来た時は柴田神社の横に柴田勝家の銅像があるだけでしたが、その後、発掘調査が行われ柴田神社ちかくで石垣跡が発見され展示されていました。家康の次男である結城秀康が新たに福井城を造る時に石垣などを再利用し、三の丸になって破壊されてしまい、こちらの遺構もきれいに展示されていました。

福井へ

福井駅
サンダバードに乗ってく福井へ行ってきました。信号が縦になっていて、やっぱり北陸ですね。
福井駅から少し離れたところに福井産業会館があり、そちらでセミナーを2時間ほどしてきました。福井も車社会なのでの駅からバスの便がほとんどなく、タクシーでしか行けない陸の孤島。今日は雨だったのでタクシーをつかまえるのが大変でした。
セミナーは「ICTで会社を成長させるヒント~経営課題解決からイノベーションへ~」という長いタイトルのセミナーです。
前に福井へ行ったのは知的生産の技術研究会・福井支部の立ち上げの時ですから17年前になります。いろいろと変っていて、まずサンダーバードが京都を出たら敦賀や鯖江に止まらず福井までノンストップになっていました。
昔、北陸本線に切り替わる時に電車の電気がしばらく消えましたが、今は消えなくなったんですね。
福井駅へ着いたら近代的な高架駅になっていました。おまけに駅の壁には恐竜が描かれ、駅前には怪獣のオブジェもありました。タクシーの運転手に聞いたら恐竜博物館はけっこう賑わっているようです。
今日は日帰りでしたので、駅近くの北の庄城跡と福井城しか行けず、丸岡城、一乗谷、剣神社へ行きたかったな~あ!

社会人のためのデータサイエンス入門

gacco
最近、バタバタしていて受講できていなかったのですが、ようやく一段落したので無料オンライン大学講座Gaccoを久しぶりに受講しています。
本日からはじまったのが「社会人のためのデータサイエンス入門」という講座。東京大学提供の講座と思っていたら講師は東大の先生だけでなく総務省統計局の職員も講師陣なんですね。最終週では統計局が提供しているe-Statの使い方講座があるので、これは期待できそう。
統計はけっこうとっつきにくいですが、よくセミナーで統計を使っていますので、しっかり学ぼうと受講しています。でもシラバスを見るとけっこう難しそう。パーセンタイルって何だったけえ?
第一週は相関関数や回帰分析なので、まだ大丈夫でした。(笑)

本当は十条まであった平城京

羅生門
平城京の朱雀大路入口にあった羅城門跡です。
実際に羅城門があった場所は佐保川の堤防の下で、佐保川にかかる羅生門橋からは遠く大極殿を望むことができます。この羅城門の礎石の一部は大和郡山城の天守閣の石垣に転用されています。石材がなかったため、なんでも転用したんですね。
羅城門は九条通りにあったのですが、実は平城京は最初、十条通りまであったことが発掘で判明しています。藤原広嗣の乱があった後、聖武天皇は都を平城京から恭仁京へ、次に紫香楽宮や難波宮へ移します。5年後に平城京に戻っていますが、この時までに九条までとコンパクトになったようです。
平城京の前の藤原京が十条でしたので平城京も最初はあわせたんでしょうね。朱雀大路の東側では遺構が見つかりましたが反対側の西側で遺構が見つからず、考古学の疑問の一つになっています。

大和郡山城 天守台石垣工事説明会

大和郡山城
大和郡山城の天守台石垣工事説明会があったので行ってきました。
大和郡山城、戦国時代は砦でしたが本格的な大和郡山城を造ったのが信長の命をうけた明智光秀で城は筒井純慶が守りました。豊臣秀吉の時代に筒井家は伊賀上野へ転封。代わりに入ったのが秀吉の弟で偉大なる補佐役と呼ばれた豊臣秀長です。
秀長は大和国・和泉国・紀伊国三ヵ国100万石の領主になったので、それにふさわしい城に大改造します。現在に残る天守台の石垣などは、この当時のものになります。この秀長に仕えていたのが後に津をおさめる藤堂高虎です。
400年も前に造られた天守台の石垣ですが、崩れているところもあり、解体して修復が行われています。石垣に墓石や石仏(地蔵)までが使われていることは前からわかっていましたが、今回の解体でもけっこうな数の五輪塔や墓石が見つかり現場に置いてありました。
自然石を使った野面積ですが5%ほどの石は割れてしまっているそうです。そのままでは使えませんので型をとって、四日市・菰野の石を加工し交換するそうです。
説明会は今日と明日、10時~15時に1時間起きに行われています。石垣というと表面しか見られませんが中の盛土から裏込め石まで見られるチャンスです。

伊勢のソウルフード クックのドライカレー

キッチンクック
伊勢の名物といえば赤福や伊勢うどんですが、伊勢市民にとってのソウルフードがあり、それが”まんぷく食堂”のからあげ丼、喫茶モリのスパゲティ、そしてキッチンクックのドライカレー。
伊勢商工会議所のIT窓口相談は第一水曜で、水曜は,キッチンクックの定休日なんで、いつもおかずけです。11月はちょっと用事があり、本日がIT窓口相談でしたので、お昼は久しぶりにキッチンクックへ行ってきました。
注文はもちろんドライカツカレー。皿一杯の「ドライカレー」にカツがのって、別にカレールゥが出てくる、ちょっと不思議なドライカレーです。
お店はカウンターが8席ほど、他に2人席×1、4人席×2の店を店長が一人でまわしています。入口近くに大鍋があって、ここでドライカレーを炒めているんですが、なかなかダイナミックですねえ。店長1人だけで切り盛りしていますので、混んでいる時は注文してから料理が出てくるまで20分ほどかかります。
来店しているのは地元の客と観光客。どこで調べるのか、本日も女性4人グループが来ておりました。

駅ナンバリング

伊勢中川駅
大阪では市営地下鉄で駅ナンバリングが実施されています。
アルファベットと番号の組み合わせで駅を示し、インバウンドで訪れた外国人や日本人観光客にとっても便利。喜連瓜破(きれうりわり)のような難読駅でも「T33」で分かります。御堂筋線は「M」、谷町線が「T」、四つ橋線が「Y」、中央線が「C」、千日前線が「S」、堺筋線が「K」、長堀鶴見緑地線が「N」、ニュートラムが「P」、今里筋線が「I」になっています。ただ起点駅は「1」ではなく「11」からスタートしています。
近鉄でも駅ナンバリングがはじまっていて奈良線が「A」、橿原線が「B」、大阪線が「D」、名古屋線が「E」、吉野線が「F」になっています。支線では、生駒線が「G」、天理線が「H」、田原本線が「I」、信貴線が「J」、湯の山線が「K」、鈴鹿線が「L」、山田・鳥羽・志摩線が「M」、道明寺線が「N」、長野線が「O」、御所線が「P」となっています。
大阪市営地下鉄で一番大きな数字は八尾南駅の「M36」ですが、日本一営業キロが長い近鉄となると駅の数が多いので、大阪線ですと伊勢中川駅の「D61」。伊勢中川駅からは山田・鳥羽・志摩線がはじまり中川駅は「M61」になります。志摩線の最終が伊勢志摩サミットの舞台・賢島駅になり「M93」となっています。難波から賢島まで93も駅があるんですね。路線にあと7駅増えると3桁となります。ウルトラマンの故郷「M82」は鳥羽駅です。(笑)

信長が蘭奢待を切り取った多聞山城

多聞山城
織田信長よりも先に天下をおさめた三好長慶の部下が松永久秀。久秀の奥さんは長慶の娘でした。その長慶の命で大和を支配することになりましたが、興福寺などを倒し、松永久秀が1561年に大和と山城の国境付近に築いた平山城が多聞山城です。
松永久秀は信貴山城を拠点としており、信貴山といえば虎で有名な朝護孫子寺で、多聞天(毘沙門天)が本尊。この多聞天を城に祀ったことから多聞山城と呼ばれました。
■戦う城から見せる城へ
城には四階櫓があり、これが天守の始まりと言われています。棟上げ式には奈良の住民を招待し、誰が支配者か分からせる目的もあったでしょうが、基本はパフォーマンス好きですね。
城の防備のために 長屋状の櫓が築かれ、これが近代の城に続く多聞櫓になりました。戦う城から見せる城へ変わる画期的な城で、織田信長も安土城を造る時に大いに参考にしました。奈良の実質的な守護だった興福寺を見下ろせるところにある城ですので、奈良支配にはもってこいの場所です。とはいいながら筒井をはじめとする国人との戦いは大変でした。
■多聞山城で蘭奢待を切り取る
織田信長が足利義昭を奉じて京都に登ってきた時に降伏。多聞山城は織田信長の城となりました。信長が多聞山城を訪れ、天皇の許可を受け正倉院から多聞山城へ香木「蘭奢待」を運んで切り取らせます。信長以前に切り取ったのは足利義満、足利義教、足利義政、土岐頼武。多聞山城から歩いて10分ぐらいのところに正倉院はあります。
織田信長の朝倉攻めが浅井長政の裏切りで金ヶ崎から撤退する時、近江の朽木谷領主・朽木元綱を説得して味方にし、信長の窮地を救ったのが松永久秀です。信長を裏切っても許されているので憎めない武将で信長も一目置いていたようです。茶人としても有名でした。
織田信長が筒井順慶を大和の守護に任じた時に多聞山城の破却を命じます。石材の多くは筒井城や郡山城などに移されました。城跡の遺構は残っておらず、現在は若草中学校になっています。中学校校舎とグランドの間には大堀切があり、上が渡り廊下になっていて下は道路になっています。渡り廊下まで、けっこう高く、当時はすごい堀切でした。

松永久秀の鹿背山城

鹿背山城
京都と奈良の県境、鹿背山(木津)にある山城。源頼朝が全国に守護を置きましたが、大和の国では興福寺が支配していまたので守護は置かれませんでした。興福寺の衆徒である土豪(国人、国民と呼ぶ)と一緒に国をおさめていました。こうなると寺と言っても武装集団です。築城者は誰か分かりませんが、この興福寺が支配していたのが鹿背山城。
やがて三好長慶の部下だった松永久秀が信貴山城を拠点として大和に侵入してきます。大和の国を支配し、多聞山城を築城。興福寺は松永久秀に屈して鹿背山城は松永が支配することになります。この時に戦国の山城として防衛を強化したようです。松永久秀はやがて足利義昭を奉じて上京してきた織田信長に従い、紆余曲折の後、謀反を起こします。
木津という土地は奈良時代に行基が木津川に橋をかけ、難波や京都と結ぶ船の道がありました。後醍醐天皇が立て籠もった笠置を通って伊賀へ抜ける要衝でした。昔はお隣の加茂に都もあった一等地です。今はJRの関西本線、京都線、学研都市線の3つの路線が混じる木津駅があります。本数は少ないですが(笑)
鹿背山城は尾根の三つのピークに主郭を置き、それぞれにたくさんの曲輪や堀切が配置されています。かなりの規模で見応えがあります。「木津の文化財と緑を守る会」がいろいろと整備しているようで曲輪には番号がつき、藪も切り払われて、とても見やすくなっています。本格的な山城なのでスーツ姿では無理ですねえ。