今年は大坂夏の陣から399年(来年が400周年)。
和睦で堀が埋め立てられ裸城になってしまった大坂城では野戦するしかなく、真田幸村が陣取ったのが茶臼山古墳。今は天王寺公園の中にあり、ハルカスがすぐ近くにあります。
茶臼山古墳のすぐ近くにあるのが四天王寺で、四天王寺南門前に布陣したのが毛利勝永。戦闘が始まると本多忠朝、小笠原秀政らを瞬く間に討ち取り、酒井家次・本多忠純といった部隊を次々に撃破。あわてたのが徳川方、毛利勝永の軍勢をとめようと各軍が殺到。
ぽっかり穴が空いた所に真田幸村隊が突進。松平忠直隊を突き抜け、徳川家康本陣を襲います。徳川家康の本陣は天王寺駅の少し向こうの阿倍野あたりでした。家康本陣を3回攻撃し、武田信玄との三方がケ原の戦いで馬印を倒されていらい、倒れることがなかった馬印を倒されます。家康もかなり危なかったようで、この時に家康は殺され堺にお墓が作られたという話まで残っています。
真田隊は力尽き、茶臼山古墳のすぐ北にある安居神社の地で休んでいた幸村が討ち取られます。真田隊が壊滅して戦線が崩壊すると、毛利勝永は反撃してきた藤堂高虎隊を打ち破りながら撤退します。
茶臼山古墳は上まで登れますが、かなり広い平場になっていて陣を置くには最適。大坂冬の陣では反対に徳川家康が茶臼山古墳を本陣にしていました。
大坂国誕生の地 真田丸
近鉄名古屋駅に丸い柱と四角い柱がある理由
近鉄名古屋駅の普通や急行が止まるホームは丸い柱になっており、奥の特急乗り場のホームは四角い柱になっています。
現在の地下鉄の駅ができたのは戦前の昭和13年。当時は関西急行電鉄の時代で、あまり金がなかったので1面1線の配線にする予定でしたが、将来の発展を見込んで3面3線の駅にしました。この時に工事をして出来たのが丸い柱。
ところが戦後、輸送量が増えたこともあり1967年(昭和42年)に4面5線への拡幅工事を行います。この時に工事で増えたホームが四角い柱になりました。奥が特急乗り場になっていますが、何とか8両編成が止まるようになっています。
手前の急行の乗り場はホームの端まで止めて、やっとさ6両編成が止まります。名古屋駅以外の急行が止まる駅は8両編成でも大丈夫なんですが、名古屋線は名古屋駅のせいで朝夕、混んでいても6両編成になっています。
奈良と大阪難波を結ぶ奈良線は10両編成の急行が走っているのですが、奈良駅が名古屋駅と同じ地下駅で余裕がないので、西大寺駅で電車をつないで難波まで10両で走らせています。名古屋線の場合は名古屋へ行く通勤・通学客が多いので、途中で車両を減らすわけにはいかず、ずっと6両編成のままでしょうね。
吹上 弁当三国志
大阪府中小企業診断協会 新年互礼会
神社は百貨店より専門店?
松の内も終わりなので注連縄を納めに枚岡神社へ。境内は初詣やお祓いの人で賑やかでした。
枚岡神社から枚岡公園を通って、参拝客で賑わう石切参道商店街から石切神社へ。神社の入口に着いたら、すごい初詣客で、鐘を鳴らしてお参りするためにすごい行列が出来ていました。神社入り口の鳥居を超えて山門まで続く行列で、こんなん行列に並んでおられないと脇からお参りしてきました。それにしてもすごい参拝客です。
この地域で神社としての格が一番高いのは河内一宮である枚岡神社。石切神社は社格としては枚岡神社より低いのですが参拝客では雲泥の差になっています。
石切神社は「デンボ(腫れ物)の神さん」として有名ですが枚岡神社は特に特色はなく、家内安全、無病息災、厄除けんど、なんでも揃う百貨店型、石切神社はデンボに特化した専門店型で参拝客の差はこんなところに出るんですかねえ。デンボは関西弁でデキモノのこと。
石切の切からデンボの神様になったという説もありますが、物部氏の氏族である木積家(石切神社の社家)に代々伝わった伝法(秘法)から、どうもデンボになったようです。
えべっさんにお参り
木木会 梅田ナレッジサロン
神戸・三宮にある「ひょうご産業活性化センター」で窓口相談。
帰りに阪神電車に乗ると西宮戎のすぐ近くにある西宮駅は福笹をもった人でいっぱい。尼崎戎も尼崎駅近くにありますが電車から見るとたくさんの屋台が並んでいました。今日から3日間、関西は「商売繁盛で笹もってこい!」のえべっさんです。
えべっさんは全国的な行事だと長らく思っていたんですが、名古屋や三重ではないようで、関西を中心とした行事のようです。阪神で梅田駅へ出て大阪駅をつっきってグランドフロント大阪へ。大阪駅寄りの建物はバーゲンをやっていて賑やかでしたが、奥に行くに連れてだいぶ閑散としています。飲食店もけっこう暇そうでした。
土日は人出が多いでしょうが平日の夜はさすがに開業効果がなくなってきたようです。さて一番奥のビルの上にあるナレッジサロンへ。仕事などができる会員制サロンなのですが、会員がビジターを同伴する形で会議室などを活用できます。今日は大阪府中小企業診断協会の異業種交流会である木木会の会合。いつものマイドーム大阪が一杯だったようで、ナレッジサロンのおしゃれな会議室で開催しました。
さらばアスキー
J-Mottoというグループウェアがあるのですが、そこの会員向けコラムを連載しています。2004年からですので、もう10年にもなるんですね。1月分の原稿を送ったのですがタイトルが「さらばアスキー」。
去年の10月1日、角川グループの各社が合併、社名を「KADOKAWA」に統一しました。合併したのはアスキー・メディアワークス、角川書店、中経出版など。これで長らくパソコン雑誌を出し続けていた「アスキー」という社名がなくなりました。
■アスキー創業、月刊アスキー創刊
「アスキー」という社名は日本のパソコン発展と共にありました。アスキーの創業は1977年。王選手がホームラン世界記録を達成し国民栄誉賞第1号を受賞した年です。翌年にキャンディーズが解散すると発表、「普通の女の子に戻りたい」という言葉が流行語となります。創刊当時はパソコンではなく、まだまだワンボードマイコンの時代。
やがてパソコン時代がきますが、パソコン本体が40万円、モニターやプリンターを揃えると60万はしましたので、せっせと月刊アスキーで情報収集するのがマニアの王道でした。
残念ながら月刊アスキーに記事を書いたことはないのですが、月刊アスキーがリニューアルされた「アスキービジネス」や「インターネットでお店やろうよ!」、「インターネット販売活!」にはいくつか記事を書かせてもらいました。
昔の写真を探したら、編集者の所へ打ち合わせに行った時に撮影したアスキーの受付が出てきました。貴重な写真になってしまいましたね。さらばアスキー!