お白石持行事

ise20130306.jpg昨日は伊勢商工会議所でIT窓口相談でしたが、商工会議所入口にお白石持行事で使う奉曳車のミニチュア版が置いてありました。 

お白石持行事は遷宮の行事の一つで、特別神領民が行います。新しい御正殿の敷地に敷き詰める「お白石」を奉献する 民俗行事で、宮川より拾い集めた「お白石」を奉曳車・ 木そりに乗せ、沿道や川を練り進みます。この時に木遣りが歌われます。 

特別神領民は、ふだん立ち入れない新しい御正殿の近くまで進み、持参した「お白石」を奉献する行事で、始まったのは550年以上前にさかのぼると言われています。 

特別神領民は基本的に地元、伊勢の人で本番前にいろいろ練習もあるそうで、知り合いも集まって、木遣りの練習などをしているそうです。 

伊勢市駅前はビルの建て替えや駅前広場の工事などリニューアル真っ最中。伊勢はいよいよ遷宮本番を迎えます。

ホームレスから上場企業社長へ OKwave

it201303.jpgウィンク愛知で開催された情報化サミット2013に参加してきました。中部IT経営力大賞の表彰式もあわせて行われました。基調講演がOKwave社長の兼元社長でした。名古屋市出身です。 

鳴海小学校、鳴海中学校出身。日本で生まれ育ったので韓国語もしゃべれないのに在日朝鮮人のため、いわれなき差別を受けます。愛知県立大学を卒業し、京都のデザイナーグループ会社に入社。順風満帆にデザイン畑を歩んでいましたが挫折。身一つで東京へ出ましたが家も仕事もなく、ホームレス生活へ転落します。土管の中で寝ながらパソコンひとつでデザインの仕事を受注しホームレス生活は2年続きます。 

誰にも相談できない中から思いついたのが「Q&Aサイト」これがOKwaveになります。今では月に5000万ユーザーが集まるサイトになっています。OKWaveは無料で使えますが、企業向けに売っているのがQ&Aサイトの仕組み。つまりFAQ(よくある質問)ですが、作るのはけっこう大変で、例えば回答がそれでよいのか上司が了承するためにワークフローがいります。 

現在はサポートが重要な時代になっており、例えばデルが経費削減のために大連へコールセンターを移しましたが、日本語が堪能な中国スタッフなので、受け答えは大丈夫ですが微妙なニュアンスが伝わらずソーシャルでたたかれることになります。結局、売上減になってしまいました。しっかりサポートできないと会社として生き残れない時代で、Q&Aサイトが必要とされています。面白い事例で、情報システム部のエンジニアがワードでの罫線の書き方を質問しているケースもあるそうです。情報システム部なのでパソコンでもなんでも得意というのは大いなる誤解ですね(笑) 

兼元社長は「グーグルを超える日」(ソフトバンククリエイティブ)という本を出されていますが、まだまだGoogleがメジャーな時代ではなく最初のタイトルは「Yahoo!を超える日」だったそうです。出版がソフトバンク系だったのでGoogleになったという裏話も披露されていました。

大名行列屋の経営革新

江戸時代、各藩で大名行列が行われていましたが藩から全て移動するわけではなく、必要最低限の人間が江戸まで旅をしていました。
江戸の手前で人足を雇って大名行列を仕立てます。つまりアルバイトですね、京都の時代祭で学生アルバイトを雇っていますが、あれとよく似たものです。人足を派遣する口入屋がありました。ところが明治維新になってしまい、廃藩置県が行われて大名行列がなくなってしまいました。
外部市場がいきなり、なくなってしまったわけです。これは色々な商売で起きていて、例えば暦を作っていた業者がいましたが、いきなり太陽暦に変わってしまい、太陽暦しか売ったらダメだと言われて日しか書いていない味気ない暦が売れなくなってしまいました。
そこで考えたのが六曜。結婚式は大安吉日がよいとか葬式は友引を避けるとか現在でも使っているものです。単なる迷信でしたが、新暦にあてはめるとけっこう不思議な感じがして、庶民に流行してしまいました。今も上棟式を大安にするようなことになったのは、この暦業者が苦肉の策で掲載した販売促進が元凶です。
さて大名行列の口入屋ですが、市場がなくなってしまったので新規事業で考えたのが葬式行列(葬列)。それまでしめやかに行われていた葬送を、たくさんの行列でショー化することに成功。皆が、葬列を出すようになりました。大名行列でつちかった能力があるので先頭には奴の行列まであったそうです。昭和の初めころまであったようです。
朝日文庫から「増補新版 霊柩車の誕生」(井上章一著)という本が新しく出ていて、この葬列の経営革新の話が出ていました。この井上先生には「人形の誘惑--カーネルサンダースからの知的調査術」というタイトルで、話をしてもらったのは1999年。阪神タイガースが優勝できないのは道頓堀川に沈んだカーネルサンダースの呪いだとまことしやかにささやかれていた頃です。

物部神社(一志)

物部神社
物部神社は物部氏に由来する神社で日本の広い範囲にわたって分布しています。祭神の多くは、物部氏の初代とされる宇摩志麻遅命や祖神である饒速日命です。
東大阪や八尾は物部氏の根拠地だったので、そこらへんに物部の神社があります。ウチの近くにあるデンボの神様で有名な、石切神社は饒速日尊とその子供、可美真手命(うましまでのみこと)を祭っています。神主さんは代々、木積(こづみ)氏で、もともとは穂積氏という名前。饒速日尊の第七代目が穂積と名乗り始めました。つまり木積氏は物部氏そのもので、現在まで家系が続いています。出雲国造も延々と続いていますが、東大阪にもこんな一族がいるんですなあ。石切神社の神主も百何代目なので、めちゃくちゃ古い神社です。
八尾には物部守屋が聖徳太子や蘇我馬子と戦をした場所が大聖勝軍寺として残っています。
伊勢には飯高の伊勢寺神社(合祀)と一志の物部神社の2つがあり、一志の物部神社に行ってきました。場所は近鉄で名古屋から伊勢中川駅に向かう手前にあります。雲出川を渡ると大阪線への分岐があるのですが、川を渡る手前、住友電工の工場のすぐ横。電車が伊勢中川駅に向けて減速する頃に見ることができます。
社殿は建て替えられており、きれいになっていましたが古代からずっとあったんでしょうね。伊勢には伊勢津彦という出雲と同じ国譲りの神話が残っていますので、物部(出雲系)ですので、その頃から神社があったかもしれません。

筒井城

tutui201302.jpg近鉄・大和八木駅から西大寺駅に向かう途中、筒井駅という普通しか止まらない駅があります。高架駅になっています。 

駅の横が商店街になっていますが、かって一帯は筒井城という平城でした。室町時代~戦国時代の筒井氏の居城。筒井氏で有名なのが筒井順慶です。洞ヶ峠の逸話で有名ですが実際は山崎の合戦への強力を頼んだ筒井順慶を明智光秀が洞ヶ峠で待っていたのが真相のようです。筒井康隆が小説「筒井順慶」を書いていますが筒井一族というわけではなく同じ姓だからのようです。 

筒井城は大和の中心地にありますので、しばしば戦場の舞台となり攻城戦が5回もありました。信貴山の松永久秀などともよく争っていました。 

筒井城の中心部は蓮根畑になっていて「シロ畠」という名前がついています。筒井の殿様が住んでいたので遠慮して家を建てないと伝承され、現在も畑のままです。ちょうど発掘調査をしていました。城跡は残っていませんが、堀の跡が水路になっているなど、現在も当時の城の様子をうかがえる箇所がいくつかあります。 

筒井順慶は織田信長の部下となり筒井城から大和郡山城に移ります。筒井順慶は若くして亡くなりますが、筒井氏は秀吉の時代に伊賀上野に移封。やがて藤堂高虎が大坂の陣に備えて、伊賀上野城を築きますが、その前にあったのが筒井の伊賀上野城。現在も筒井時代の天守閣があった場所などが伊賀上野城に残っています。ちょっと分かりにくい場所なので、誰も行きません(笑) 

木造城

kidukuri201302.jpg久居(市町村合併で現在は津市になっています)の企業へ専門家派遣で行っていましたので、終わってから木造(こつくり)城に行ってきました。 

城と言っても田んぼの中に土盛りがあり石碑と案内板が建っているだけです。城の近くには木造神社や集落があり、ここらへんが根拠地でした。少し行くと大阪、伊勢、名古屋の分岐点である近鉄中川駅です。近くを雲出川が流れています。 

木造城の城主は木造氏、もともとは北畠氏でしたが2代目が京都住まいで足利将軍と親しかったため、本家北畠氏の南朝と対立しました。この時に木造城は北畠に攻められて落城。木造氏は幕府側の加勢を得て反攻し、国司北畠満雅が岩田川の戦いで討死することになります。 

そんな歴史もあり織田信長の伊勢進攻では、本家を攻める側にまわりました。北畠氏の最前線である天花寺城は雲出川の対岸に見えますので、戦国時代はここらへんが戦場になったのでしょう。 

本能寺の変の後は織田信雄に仕えましたが、秀吉と信雄が対立して小牧長久手の戦いが起きた時には秀吉に攻められて、また戦場になりました。 

木造氏の一人で伊勢進攻の指揮をした滝川一益に気に入られ娘婿になったのが滝川雄利。 織田信雄の伊賀攻めに尽力し、柏原城を攻めるために滝川氏城を築城しています。 

神戸ビジネスアライアンス

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神戸ビジネスアライアンスとは展示&商談会で、場所は六甲アイランドで開催。阪神の魚崎駅で六甲ライナーに乗りかえてアイランドセンター駅へ。駅とつながっている神戸ファッションマートの9階が会場です。
61社が集まり、三重県からは6社が参加。来場者へのアピールよりも出展社同士の商談会がメインになっています。写真は松阪の「うれし野ラボ」さん。辻さん家のとける唐辛子などを展示されていました。
会場の神戸ファッションマートですが、閑散としていますね、大阪南港のATCとよい勝負です。あと六甲ライナーですが海の上を通っていくので船が下を通れるように、かなり高い所を通ります。高所恐怖症にとっては、なかなかスリリングな電車です。

佐藤首相の密使 若泉敬

今朝の中日新聞トップ記事は非核三原則、核密約など佐藤首相から岸首相にかけての時代についての特集記事。時々、連載でやっているようですが、力作ですね。新聞はこうでなくっちゃあ。 

今日の新聞トップにも掲載されていましたが佐藤首相の密使として活躍したのが若泉敬(故人)という人物。京都産業大学の先生もやっていました。 

30年以上前、京都産業大学に在籍した一回生か二回生で履修した一般教養科目で使われたテキストが「未来を生きる トインビーとの対話」。1970年に行われたトインビーへのロングインタビューが毎日新聞に連載され、それをまとめて出版されたものです。 

著者はインタビューを行った若泉先生で一般教養科目の担当講師です。沖縄返還などに尽力したという国際政治学者とは聞いていましたが、学生にとっては単なる講師陣の一員。ただ、けっこうダンディーな先生だなと思ったことは覚えています。 

「評伝 若泉敬 愛国の密使」(文春新書)を読むと、凄まじい人物だったんですね。歴史的に見ると日本への沖縄返還はもっと遅い、いつかの時点でなされたかもしれませんが、あの時点で返還されたのは佐藤栄作総理と若泉氏の尽力の賜物。 

日米安保や憲法を含め、いろいろと日本の自主防衛が話題になっていますが、日本はどうあるべきか常に考え、考えるだけではなく実際に行動したすごい人物でした。そんなことを理解できていたなら大教室の一番前に座って、講義をしっかり聞いたのに。30年以上たって後悔しております。 

楠正行ゆかりの井戸

kusunoki.jpg枚岡梅林近く(枚岡神社境内)にある「楠正行 縁の井戸」

楠正行は南朝方で戦った楠正成の息子。湊川(神戸)へ足利尊氏との最後の戦いに向かう楠正成と別れる「桜井の別れ」のシーンは有名で、当時は11歳でした。

「桜井の分かれ」と言うのは、奈良の桜井市ではなく、古代律令制度下の駅家の一つ「桜井駅」のこと。西国街道が通るJR京都線 島本駅前にあり公園になっています。

楠正行は正成がなくなった後、南朝側で戦い、最後の戦いとなったのが高師直と戦った四条畷の戦い。枚岡あたりを根城にしていた水走氏と共に戦いましたが敗れ、亡くなりました。本陣はもう少し南の往生院六萬寺にありましたので、この一帯も戦場になったのでしょう。

大阪平野が一望できるので大坂夏の陣では家康が最初の本陣を置いていました。

四日市商工会議所でセミナー

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四日市商工会議所でセミナー
午後に小売商業部会があり、部会だけではなく第二部としてセミナーをやりたいと連絡があり、「お店で活用できるFacebook」というセミナーを行ってきました。
小売業で活用できるTwitterやFacebookについて事例などを中心にしゃべってきました。もちろんホームページなどをしっかり作ってあることが前提です。
部会だけだと参加率が悪いのですが、今回はセミナーがあるということでだいぶ参加率がアップしたそうです。そういえば私の東大阪商工会議所のサービス産業部会に入っていますが、行ったことないですねえ(笑)
会場は四日市商工会議所の3階の大ホール。国際会議ができそうなホールで、全ての座席にマイクがついていて議論ができるようなっています。議長席についているスイッチでは発言者のマイクを強制オフにしたり、できるそうです。なるほど(笑)