映画「繕い裁つ人」の舞台

平賀邸
先日、能勢にある山下城へ行く途中に見つけたのが川西市郷土館。山下城の資料でもないかなと入館しましたが、中は鉱山資料がメインでした。
能勢って鉱山が多かったんですね。銀銅山があり、昭和初期まで操業していました。銅の製錬を業としていた旧平安家住宅を中心に展示されていて、製錬ででてきたカスを捨てた谷などがありました。そんな郷土館の一角にあったのが旧平賀家住宅というなかなかお洒落な洋館。
中谷美紀さん主演の映画「繕い裁つ人」で、市江(中谷美紀)の祖母が始め市江が引き継いだ洋裁店として使われたそうです。ウーン、映画見ていないなあ。連続テレビ小説「マッサン」では、大阪編で登場し、政春とエリーが入居を断られた洋館としても使われたそうで、室内に撮影の様子などが展示されていました。

生國魂神社・御旅所

生國魂神社・御旅所
大阪府よろず支援拠点は上町台地の麓にあります。
上町台地の上にあるのが大坂城で、ここの一角に生國魂神社・御旅所があります。「いくくにたまじんじゃ」と呼びますが、めちゃくちゃ古い神社で、国の魂とあるように日本そのものを祭った神社。
天皇の即位儀礼の1つである八十島祭も生國魂神社で行われています。当時は上町台地の麓まで海で、遠くにはイザナミ、イザナギの国生み神話の元となった淡路島が見え、現在は島と言う地名で残っている枇杷島や柴島などがたくさんの島(八十島)が連なっていました。
戦国時代、石山本願寺を造った時もそのままでしたが秀吉が大坂城を造る時に天王寺に移転が命じられます。どこに元の神社があったかは分かりませんが、大阪城の外堀近くに御旅所が作られています。

至れり尽くせりの佐和山城

佐和山城
山城へ行くには事前準備が大変です。地図はもちろんのこと、城へ登る目印について記載された文章はないかを探します。直登しかないと書いてあると山道はあきらめるしかないですね。もちろん縄張図(曲輪や堀切の位置などを書いた地図)は必須です。
彦根にある佐和山城へ行ってきました。彦根駅からずっと登城口まで案内板があり、迷うことはありません。しかも登城口にはガイドがいて、山城マップを無料で配布しています。マップには縄張り図が写真入りで紹介され、いやあ至れり尽くせりの山城ですねえ。また山城で他の人に会うことはまずないのですが、さすがに佐和城!たくさんの人が登っていました。
■佐和山城
佐和山城は石田三成の城として有名ですが、もともとは浅井の方である磯野員昌の城で、信長が支配するようになってからは丹羽長秀が永らく城主を勤めていました。やがて石田三成が城主となり、失脚してからは佐和山城で家康との戦いを構想。上杉攻めの途中に佐和山城に立ち寄った大谷吉継を説得し関ヶ原の戦いを起こした話は有名です。
当時の落書には「三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」とうたわれました。嶋左近は平群の出身で、近鉄生駒線の竜田川駅近くにある西宮城と山城である椿井城が嶋氏の城になっています。
関ヶ原の戦いで石田三成が敗れた後、井伊直政が佐和山城に入りました。来年の大河ドラマ「おんな城主 直虎」の井伊直虎が育てたのが徳川四天王と言われた井伊直政です。新たに彦根城を築き佐和山城から移りますが、島津の敵中突破を阻止しようとして受けた傷がもとで亡くなってしまいます。

聖地巡礼

梅棹忠夫邸
知的生産の技術研究会・関西の世話人を29年ほどやっていますが、研究会を作るきっかけとなったのが梅棹忠夫先生が書かれた名著「知的生産の技術」(岩波新書)です。
というわけで本が書かれた家に聖地巡礼です。1949年に梅棹先生が北白川に家を買われ、ここでたくさんの著作が生まれました。執筆部屋には京大カードが並んでいたそうです。また金曜夜になると若い研究者や学生に開放されました。梅棹家に行けばタダでビールが飲めるということで多い時には20名近くが集まり、朝まで議論していました。これが有名な”梅棹サロン”でまさに梁山泊です。若き本多勝一氏、石毛直道氏、小松左京氏らがたむろしていました。
梅棹先生が国立民族学博物館の仕事をするために千里のマンションに移ってからは荒れていたのですが、次男の梅棹マヤオ氏がギャラリーとして復活しています。当時、今のような住宅地ではなく周りは田んぼだらけだったそうで、梅棹サロンに参加する人の靴で玄関は一杯。それを長い棒でかき回してグチャグチャにし遊んでいたそうです。家にあった蔵書は梅棹マヤオ氏が国立民族博物館までアルバイトで運んだそうですが、とてつもない量だったそうです。

登城口がなかなか見つからない山下城

山下城
能勢電鉄に揺られて山下駅へ。駅から山の麓へ歩くと平野神社があります。山城の地図を見ると、この平野神社の裏山あたりで、山道を登りはじめます。山道のところどころに地蔵があり、33ケ所巡りができるような形になっています。さて頂上ちかくに登ってもとんと山城跡がありません。おまけに野生の鹿が出てくる始末。どうも山を間違えたようで、もう一度、下って平野神社まで撤退。
平野神社の奥の方へ行くと「山下城」と小さな木札がかかっているのを発見。”これだ”と歩きはじめると、途中から沢道になってしまいました。しかも、さっき頂上まで行った山につながっているようです。”こりゃ、違うなあ”と山道で行くのはあきらめて、崖の直登を開始。20メートルほど上がると山道を発見。これが城につながる道だろうと歩いていくとピンポン。なんですが、着いたのは城を守るために造れらた二重堀切の跡。見上げると櫓跡のようなものが見えます。山道を行くとかなり回り道になりそうなので、今度は切岸の直登を開始。10メートルほど登ると主郭の櫓跡に着きました。
■獅子山城、一庫城
山下城は獅子山城、一庫城とも呼ばれていたようで、もともとは源頼仲が造った城のようです。源頼仲の婿だった塩川氏が代々、城主になっていたようです。南北朝時代から戦国時代にかけて攻城戦が行われました。まだ細川春元の部下だった三好長慶が三好政長、波多野秀忠らと共に山下城の塩川政年を包囲して戦ったりしています。秀吉の時代まで城はあり、その後に破城になりました。
主郭は公園になっていますが土塁も櫓跡も残っています。いくつも曲輪があり、多くは畑や神社になっていますが、曲輪の形は見事に残っています。写真は主郭からずっと下ってきた七の段にある愛宕神社から眺めた能勢の風景。能勢街道をおさえる城でした。
山から下り、ようやく山城への入口を発見しましたが、「あぶない」という立て看板が立っているだけで、道かどうかも分からない入口。こりゃ気がつくのは無理ですねえ。やっぱり迷ったら直登ですなあ。(笑)直登は体力を使いますので良い子はやめましょう。

松永久秀が散った信貴山城

信貴山城
信貴山といえば大きな虎がある朝護孫子寺で有名です。毘沙門天が本尊で、毘沙門天に援けられたのが、寅年、寅日、寅刻だったことから虎がシンボルマークになっています。阪神タイガースの聖地です。
この信貴山にあったのが信貴山城。現在、山頂には空鉢堂がありますが、このあたりに天守代わりの櫓がありました。寺側の反対側に松永屋敷跡という巨大な曲輪跡などが残っています。広大な城でした。この松永久秀の城造りを学んだのが信長でした。
■三好長慶の家臣として頭角をあらわす松永久秀
城主はいろいろ変わりますが、有名なのが松永弾正久秀。生まれは諸説ありますが、一説が西岡で物集女城や勝龍寺城があったあたりの生まれといわれています。松永久秀は三好長慶に仕えますが、この三好長慶がすごい人物で織田信長の前に天下(近畿地域)をおさめました。
また拠点となる城を次々と移しキリシタンも容認します。また信長以上に実力主義で家臣を登用します。松永久秀もその一人で側近となり、いわば秀吉のような存在ですね。三好長慶は晩年、恵まれず飯盛山城で病死しますが、跡取りを盛り立てて三好家のために頑張ったのが松永久秀です。
■信長の家来となる松永久秀
信長が上洛し、最初は敵対しますが、かなわずと見るや信長に臣従します。この頃、久秀は58歳とかなりの高齢。
織田信長が家康に久秀を紹介する時に「この老人は常人には出来ぬ天下の大罪を三つ(主君・長慶殺し、将軍殺し、大仏焼き討ち)も犯した」と紹介しましたが、最近の研究では3つとも久秀とは直接、関係がないと言われています。
信長も久秀をけっこうかっていたようで、信玄による信長包囲網ができ久秀が裏切っても許したりしています。足利義昭についた三好長慶の後継者が若江城の戦いで佐久間信盛に敗死したことが大きかったのでしょう。
ところがもう一度、信長を裏切り、信貴山城で滅ぶこととなります。

小太鼓まつり

小太鼓祭り
河内一ノ宮 枚岡神社では5月5日「子供の日」ということで小太鼓まつりが行われました。
各町内から小太鼓だけが出ていますが、それでも12基ほどが境内に並んでいました。屋台も出ていてちょっとした祭りですね。昔はこじんまりした小太鼓まつりでしたが、年々盛んになっています。
 

日本の国名ができた時代に造られた高安城(古代)

高安城
中世の高安山城から信貴山城へ行く途中にあるのが高安城倉庫跡です。山の上に倉庫の礎石跡が残っていて、ここに7つほどの倉庫があったようです。
■白村江の戦いの後に造られた城
日本史で習いましたが663年の白村江(ハクソンコウ)の戦いで大和・百済連合軍は大敗北。国家存亡の危機に唐・新羅などの侵攻に備えて高安城、屋嶋城(讃岐)、金田城(対馬)を築いた話が日本書紀に出てきます。
倭国は唐と戦後処理を行い、友好関係を目指しますが、そこはどうなるか分かりません。国内では飛鳥浄御原令の制定など律令国家などを急速に進め、国家体制を充実させます。国名も倭国から日本に変えます。そして最後の防衛線として造られたのが高安城です。
■ずっと幻の城だった
高安城は日本書紀に記載されていますが、場所が分からず幻の城と言われていましたが、市民グループ「高安城を探る会」が発見したのが倉庫群。ただ発掘調査したところ廃城後の奈良時代初期(730年頃)の建物であることが判明します。それでも大仏開眼や正倉院よりも以前の話なんで、すごいんですがあ。
ところが1999年に100メートル以上も続く石垣が地元の研究者によって発見されます。調査が進むと城壁が南北2.1kmにわたって山の西側斜面に連なり、所々に櫓が突き出すという壮大な城だった模様で、東西も1.2kmあったようです。こうなると高安山一体が城跡ということでホンマかいな!!
■壬申の乱の舞台にもなる
壬申の乱というと不破の関での戦いなどが有名ですが高安城も戦場になりました。近江朝廷軍が支配していた高安城を大伴吹負の兵が攻め占領します。朝廷軍が難波から攻め込んできたので高安城から下り、難波から攻めてきた朝廷軍と石川で戦います。
大坂の陣では後藤又兵衛が石川を渡り、小松山で徳川軍と戦いますが、昔から要衝の地だったんですね。

ターミナル駅で立食パーティ

立ち飲み
本日はターミナル駅で立食パーティ。
中百舌鳥にあるセレソヴィー株式会社ファイティング・コンサルタンツ研究会。スタート当時はコンサルティングファームを作るんだという熱い想いに燃えていましたが、今もその想いを引き継いで熱い議論をしています。(笑)
熱い議論の割には早々に終了し、中百舌鳥駅近くにある3時から空いている立ち飲み屋で宴会。夜になると一杯になるお店ですが夕方前ならまだまだすいています。
立ち飲み屋に続いて、大阪王将に店を移動して餃子を食べながらビール。本日も有意義な研究会でした。(笑)

マドゥマハル

マドゥマハル
谷四・カレー激戦地シリーズ。 連休の合間ですが大阪府よろず支援拠点で窓口相談をしています。
マイドーム大阪から谷四へ行く途中にあるのがマドゥマハル(MadhuMahal)というインド料理屋。”カレーのダール”のすぐ近くです。少し前に開業したのは知っていたのですが、2階にあがる店舗で、おまけに道路に手書きの立看がドーンと置いてあって、中に入るには少し勇気がいるお店です。
初めて行きましたがランチは800円で、カレーの種類は6種類ほどあります。とりあえず日替わりカレーを注文。簡単なサラダとセルフサービスの飲み物がついています。2名でやっているようで調理は外国人1名とあと愛想がよい日本女性の店員さん。”ランチのナンは食べ放題です”ということでお代わりを注文。さすがにナンを2つ食べると腹いっぱいになります。
カレーは食べやすいカレーで、この近辺はキーマカレーなど凝ったカレー店が多いなか、しごくまっとうなカレーでした。