BLAST研究会に参加

BLAST研究会
いつもは日曜開催が多いのですが、珍しく土曜日に大阪産業創造館で第46回BLAST研究会を開催。中小企業診断士の研究会です。
2002年から14年も続いている研究会です。この年は中小企業診断士試験が大きく変わった年で、昔は工業、商業、情報の3部門制でした。1次試験は筆記で400字やら200字などしっかり書かないといけないので、ひたすら覚えなければならず大変でした。そのため1次試験に合格すると2次試験は何回受けてもOKという永久資格でした。
私は旧制度からせっせと受験し、ようやく1次に合格したと思ったら試験制度の抜本改革が行われました。部門制がなくなり1本化し、1次試験がマークシート試験に変って科目が大幅に増え、1次試験を突破したら永久資格でしたが、新制度では2回しか受験できなくなりました。
”詐欺だ~あ!”と叫んでもダメだったので、1次試験から受け直して、なんとか新制度1発目で合格しました。ですので診断士業界では”ニュータイプ”と呼ばれています。
2002年に実務補習をしたニュータイプ・メンバーを中心に研究会を組織し、新しいメンバーが加わりながらずっと続いている研究会です。

堺台場跡

堺台場
堺に台場があったことをご存じですか。
■台場とは
台場とは大砲を備えた防塁のことで、今の大浜公園(南海本線堺駅の近く)の場所に造られ、遺構も残っています。幕末、ペリーによる黒船来航から国防が意識され日本各地で台場整備がすすみます。長州藩では関門海峡に築いた台場から異国船に向かい攘夷実行を行い、馬関戦争を引き起こしています。
台場で有名なのが”お台場”にある台場公園。近くにはフジテレビや湾岸警察署があります。台場公園は東京湾上に造られた第三台場跡で、陣屋跡や弾薬庫跡が残っています。私の郷里の津には岩田川沿いに贄崎砲台、塔世川沿いに西浦砲台が造られ、贄崎砲台の土台が一部残っています。
■大阪に異国船が来訪
黒船によるペリー来航に引き続き、 今度は大阪・天保山沖にロシア使節プチャーチンが来航しました。京都に近い大阪港に異国船が来たことから朝廷では大騒ぎになります。朝廷の要望もあり江戸幕府は大阪湾各所に台場を築きかれ西宮砲台、和田岬砲台は当時のまま残っています。
■堺台場
堺砲台が造られたのが今の大浜公園がある場所で、彦根藩によって稜堡式城郭が造られました。大浜公園の半分ほどが城郭で、大砲8門が備えられました。当時の石垣が阪神高速湾岸線大浜ICの出入口南側と公園内の菖蒲園に残っています。単なる石垣なので大浜公園で遊んでいる人はそんなものがあったとはたぶん知らないでしょうねえ。

721段を登らないとたどりつけない多喜山城

多喜山城
鈎の陣へ行ったついでに近くにある多喜山城へ行ってきました。ところが頂上にある山城まで待っていたのは山道じゃなく721段の石段!
これで357メートルの頂上を目指します。石段は、ほぼ直線で山道をえっちら登るよりかは早いですが、さすがに足にこたえます。途中には休憩所が2ケ所ほど設けられていました。なんでも”ふるさと創生事業”を使って体力作りのために作ったそうです。藪をかきわける必要がないので便利なんですが、足にきますねえ。
多喜山城は草津線の手原駅から甲賀方面へ東海道をひたすら歩いた日向山にあります。日向山古墳と墓地の横に道があり、ここを入ると721段の石段が待っています。頂上まで登ると琵琶湖や近江富士などが見え、眺めはいいですね。
頂上には枡形虎口や土塁跡などが残っていました。それほど大きな城ではありませんが、虎口には石垣が積まれており、もとともあった山城を織田信長が支配するようになってから改良したようです。

戦国時代がはじまった鈎の陣

鈎の陣
”応仁の乱”の発端は銀閣寺を造営した足利義政の後継者問題。
奥さんの日野富子との間に子供がいなかったので、弟でお坊さんになっていた足利義視を後継者に任命してさっさと引退、銀閣寺などを造営します。ところが日野富子との間に息子(足利義尚)が生まれてしまいます。
■応仁の乱が勃発
我が子を次期将軍にしたいという日野富子の思いから全国の守護や管領などが両派に分かれて応仁の乱が勃発してしまいます。船岡山城が戦場になったのもこの時です。将軍の権威が落ち、守護や守護代(守護の家来)が力をもつことで戦国時代に突入してしまいました。
■鈎(まがり)の陣
結局は足利義尚が第9代将軍となりますが、応仁の乱後の幕府運営はなかなか大変。近江守護・六角氏が将軍近臣の所領を押領するなどしていたため、足利義尚自身が六角氏討伐に乗り出します。この時、現在の栗東市に陣を構え六角氏に対峙しました。地名から”鈎(まがり)の陣”と呼ばれます。
ところが六角氏に味方した甲賀衆が山間部でゲリラ戦を展開し戦闘は膠着状態に陥ります。実はこれが忍び(忍者)が全国に知られるきっかけとなり、伊賀、甲賀といえば忍者の里と言われるようになります。足利義尚は鈎の陣中で死んでしまい、六角討伐は中断となってしまいます。
さて鈎の陣ですが、今の永正寺あたりで土塁などが残っています。草津線で草津駅から一駅目の手原駅に着く手前で右手に見えます。ここから戦国時代がはじまったんですねえ。