興福寺 中金堂 復元

興福寺 中金堂

正倉院展へ行く途中、近鉄奈良駅から東向商店街を通ります。東側にある興福寺に尻は向けられないと東向き(西側)に商店が作られたのに由来しています。もっとも東側は断層でかなりの段差になっているので店を作りにくかったのが本当でしょう。

この段差を登って興福寺の脇に出ると中金堂が復元されていました。興福寺のど真ん中なので、なかなかの存在感があります。

興福寺には、金堂が3棟ありますが、そのうち中心となる金堂が中金堂で、藤原不比等が創建しました。東金堂は五重塔の横に健在ですが西金堂は中金堂と一緒に焼けて現在は基壇だけが残っています。西金堂にあった仏像が阿修羅像や八部衆立像で、無事に運び出され今では国宝館で見ることができます。

中金堂は源平の争乱や雷などで7回、火災で燃えました。なんせ平安時代から興福寺は延暦寺、園城寺、東大寺と並ぶ僧兵の巣窟で、お坊さんというより軍隊でしたから争乱によく巻き込まれています。暴れん坊将軍である吉宗の頃に泥棒に入られた失火で焼けてからは、幕府も興福寺も金がなくなんとか仮堂だけ作り、ようやく300年ぶりに復興されました。しばらく観光客が増えるでしょう。

15%の高利で借金(正倉院展)

正倉院展

家で仕事をしてから夕方、正倉院展へ

正倉院展では閉館1時間半(平日16:30~)前からオータムレイトチケットの販売が始まり待ち時間なしで入れます。閉館30分(平日17:30~)前には入場できなくなるので入口近くの展示場には、ほぼ係員しかおらず、じっくり見られます。ポスターにもなっている平螺鈿背八角鏡も入口近くに置かれています。

■月利15%の高利
御物もいいのですが面白いのが古文書ですね。今年の目玉は奈良時代の借用証書である「月借銭解(げっしゃくせんげ)」の展示。古文書を見ると500文の貸付金に対して月利65文と記載されています。100文に対して月15文ですから月利15%となります。

東大寺の写経所では月借銭が多く行われており通常の借入期間は1~2ケ月ぐらいでした。翌月の給与で返済していたようで、こうなると借りて返しての自転車操業ですね。布を質物(担保)として出していたり、返済が滞った時に支払い保証をする償人(連帯保証人)も書かれています。

借用証書は天平時代から全然、変わっていないようです。それにしても15%の金利を返すのは大変だったはずですが、当時はインフレだったんでしょう。また銭文が流通する貨幣経済が少なくとも都では実現されていたようです。

長光寺城(瓶割城)

長光寺城(瓶割城)

ようやく山城シーズンが到来しました。

ガチャコン(近江鉄道)に乗って武佐駅へ。駅から中山道の西宿を抜け工業団地の脇を通ると瓶割山の麓につきます。ここから山道に分け入って頂上まで登ると長光寺城があります。日吉神社裏から登るのが定番のようですが、工業団地のすぐ近くに案内版があったので、こちらから登りました。

広い主郭以外に4つほどの郭があり、主郭からは近江八幡城と琵琶湖を見ることができます。安土城もすぐ近くにあります。主郭の横には石垣の一部が残っていました。おそらく勝家の時代のものでしょう。

長光寺城はもともとは鎌倉時代中期に佐々木政尭によって築かれたと言われていますが、織田信長の上洛にあわせ、1570年に長光寺城を攻め落とし柴田勝家を配置しました。八風街道と中山道をおさえる城でしたので京都への路を確保する狙いがありました。

■瓶割城
信長に敵対する佐々木氏(六角氏)が攻めてきた時、柴田勝家は籠城して耐えましたが、味方を鼓舞するため兵に水を飲ませた後に水瓶を割り背水の陣で討って出ました。これが「瓶割り柴田」の異名となりますが、どうも伝説のようですね。長光寺城は別名、瓶割城と呼ばれています。

あなたの知らない古文書の世界

あなたの知らない古文書の世界

昨夜は天満橋にあるコワーキングスペースCo-Boxで知的生産の技術研究会・関西を開催。

テーマは「あなたの知らない古文書の世界」で講師は古文書の世界にどっぷりつかっておられる中元さんです。博物館などで古文書を見ても何が書いてあるのかサッパリということで、読める秘訣が聞けないかなと企画したセミナーです。

摂津国の遠里小野(おりおの)は昔、菜種油の産地で菜種油を商いしていた中野家に伝わる古文書を題材に語っていただきました。よく使う文字(例えば候とか)はめちゃくちゃ省略されたり、読みが同じということで同じ漢字のはずが、いろいろな漢字を使ったりとバラバラ。

一つの古文書でくずし文字を覚えても、他の古文書では別の書き方をしていて、そのままでは読めないという、とっても奥深い世界でした!

宇宙英雄ローダンシリーズ

日経新聞の関西版に山中伸弥教授の記事が掲載されていました。

安藤忠雄氏が子供向け図書施設「こども本の森 中之島」を作っていて、趣旨に賛同する各界の著名人に、感銘を受けた本について紙面で紹介するコーナーです。

山中伸弥教授ですが枚岡生まれで小学校3年までは額田駅のすぐ近くにある枚岡東小学校に通っていました。ウチのすぐ近くです。

その後、奈良に転校することになりますが、この頃の山中伸弥教授の愛読書がSF小説で「宇宙英雄ローダンシリーズ」。ドイツでリレー形式で書かれている小説で、始まったのが1961年、今も刊行が続いています。日本では1971年からハヤカワSF文庫として翻訳本が出ています。こちらもいまだに続いていて本屋で見かけます。

私もずっと読んでいたんですが100巻ぐらいでさすがにリタイア。上新庄にあった古本屋さんに売ろうと思ったらローダンシリーズは売れないからと買取を拒否された思い出があります。

葉っぱがシェフ

日経新聞
昨日(10/22 月曜)日経新聞夕刊のトレンドというコーナーに掲載されていたのが「野草が売りの健康料理」。全国の野草を売りにしたレストランが紹介されていました。
 
その中に尾鷲市にある「葉っぱがシェフ」が店の全景写真と共に紹介されていました。穴があいた縄文鍋を使い野草の風味などをつけた地元の魚や肉料理で有名なお店です。縄文鍋の底に熱した石を並べ野草で包んだ肉や魚を蒸し焼きした料理でヘルシーですよ。
 
レストランからの眺めもよく落ち着いたひと時を過ごすことができます。ただレストランへたどりつくまでが大変という隠れ家レストランになっています。
 

知研は朝日カルチャーセンターの先生だったんですね

知的生産の技術研究会

先日、書店で「知的生産の技術」(梅棹忠夫:岩波書店)の奥付を見たら98刷りになっていました。大台の100刷りまで、もうすぐ。1969年発行の本が50年にもわたり読み継がれているのはすごいですね。

この書籍をきっかけとして生まれたのが知的生産の技術研究会です。異業種交流会のはしりのような存在でしたのでマスコミの取材も多く、世間に社外勉強会が拡がっていくことになります。

今、会報に研究会が発足した頃の話が連載されています。朝日カルチャーセンターともちょっと関係していたんですね。

知研の活動が続くなか朝日新聞社から講演会のやりかたを教えてほしいという依頼がはいります。来たのは3、4名で皆さん活版工でした。当時、活版印刷(鉛の活字での印刷:銀河鉄道の夜でジョバンニが活字を拾うシーンがでてきます)からコンピュータ印刷に移行する時代で、生産性向上で活版工が余るため新規事業をはじめたいという意向でした。いろいろと説明して、しばらくしたら朝日新聞にデカデカと朝日カルチャーセンターの案内広告が掲載されます。そういうことだったんですね(笑)。

▼知研ホームページでも公開しています。大宅壮一、草柳大蔵など懐かし名前が出てきます
→ 知的生産の技術研究会の歴史

IoT・AI入門活用セミナー

大阪府よろず支援拠点

昨日は大阪府よろず塾ワークショップセミナー「社会が変わる中、企業は・・・IoT・AI入門活用セミナー」を開催しました。

内容は
・未来の年表ーITによる生産性向上
・IoTとは
・部門別に見たIoTの利用
・IoT、ビッグデータ、AIの関係
・ビッグデータの少し怖い話
・IoT、AIをはじめるには

で、世の中がこう変わっていきますよという動きと少し早い目に動くためにGacco(日本版Mooc)やラズパイ、ワトソンを勉強しましょうという内容です。セミナーではラズパイ(ラズベリーパイ)を動かし、実際に人工知能ワトソンを使うデモなどの実演も行いました。

中村一氏時代の駿府城が見つかる

駿府城

朝、ニュースを見ていると駿府城発掘調査で秀吉時代の金箔瓦と天守台が見つかったと報じていました。

秀吉が小田原征伐で後北条氏を滅ぼした後、徳川家康に後北条氏の遺領となった関東への国替えを命じます。この家康を封じるために各所に子飼いの大名を配置しますが。駿府に入ったのが中村一氏で、この時に築城されたようです。

この中村一氏ですが、まだ和泉や紀州が秀吉に敵対していた時代に大坂の南のおさえとして岸和田城主となります。ところが小牧・長久手の戦いで秀吉軍主力が尾張へ展開している間隙をぬって、根来・雑賀衆、粉河寺衆が攻めてきます。岸和田城の攻防戦を何とかもちこたえ、秀吉軍と共に貝塚の千石堀城、積善寺城など相手の拠点を次々に落して紀州征伐となります。

南海電車に蛸地蔵駅がありますが、駅名の由来はこの時の岸和田城の攻防戦で落城寸前となった時、大蛸に乗った一人の法師と数千の蛸がどこからともなく現われ落城を救ったという伝説からきています。

中村一氏は秀吉の信頼あつく駿河一国をまかされ、関ケ原の戦い合戦前に亡くなります。この中村一氏時代の城跡ですか~あ。見てみたいな~あ。静岡からセミナーの話でも来ないかなあ(笑)。

マイクロソフト創業者ポール・アレンが亡くなる

ビル・ゲイツと共にマイクロソフトを創業したポール・アレンが亡くなりました。最近は深海から戦艦「武蔵」を発見し、話題になっていました。

基板ではなく個人でも手に入る値段で完成キットとして発売された最初のコンピュータがアルテア8800。発売したのはニューメキシコ州アルバカーキのガレージからスタートしたMITS社です。そうです合同会社エムアイティエスとは世界最初のパソコンを出したMITS社にあやかっています。
アルテア8080が発売されると多くのマニアが飛びつき、売れに売れました。

■マイクロソフト誕生
雑誌「ポピュラー・エレクトロニクス」にアルテア8800の紹介記事が掲載されます。記事を読んだビル・ゲイツは、アルテア8800を作っているMITS社に電話し、アルテア8800でBASIC(ホビー用プログラム言語)が動くデモをしたいと提案しました。手元にBASICプログラムもアルテア8800もない状態での申し出で、つまりハッタリです。

当時、MITS社にはこの手の売り込みが多く、「動くものがあるのならもってこい」という返事がかえってきました。返事があったのはよいのですが、アルテア8800はビル・ゲイツが通うハーバード大学にもありませんでした。そこでハーバード大学にあったコンピュータをアルテア8800のように動くようにシュミレーション・プログラムを作り、知り合いのポール・アレンと共にBASICを作りあげます。

■BASICのデモに成功し飛躍の第一歩に
1975年、ポール・アレンはMITS社でデモンストレーションを行うためBASICを収めた紙テープを持ってアルバカーキに飛びます。BASICを実際のアルテア8800で動かすのは初めてでしたが、一発で動きました。ただ、すぐ止まってしまいます。ところがMITS社にいろんな売り込みはありましたが、動いたプログラムを持ってきたところは初めてでしたのでMITS社側もビックリ。

質の良さを見た社長から“仕上げてくれ”と言われ、ポール・アレンは半月かけてアルテア8800で完全に動くBASICを作り上げます。社長は高額で買い取ってくれ、この資金がマイクロソフト社の創業資金になります。マイクロソフト社はMITS社との取引のためMITS社の本社があったアルバカーキで創業します。

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