講談社現代新書から「徳政令 なぜ借金を返さなければならないのか」という面白い本が出ています。
■地域金融が崩壊
室町時代には徳政令という借金がチャラになる滅茶滅茶な法令が出されていました。室町時代の金融業は借上や土倉が担っていましたが、本業は荘園の代官請負業で金融は副業でした。地方では代官が荘園経営を担っていて地域の金融機能を支えていましたが税負担の増大と天変地異などの発生で、この地域金融が崩壊していきます。今でいうと信金がつぶれる状況で金融が都市銀行(借上や土倉)に集中する形となります。これで借上や土倉は本業が金融業になっていきます。
また室町幕府は奥向きでいろいろと浪費していてプライマリーバランスなんか考えていませんでした。消費税対策だといってバラマキを考えているどっかの政府と同じ状況ですね。この浪費の費用を京都の借上や土倉が担っていましたが、さすがに苦しくなりだし徴収が難しくなります。
■徳政令を求めて一揆がおきる
そこで幕府はいろいろな所から税金をとろうとしますが、これで一般庶民が苦しむことになり徳政令を求める動き(一揆)になり、実力行使で徳政令が出されます。一揆というと江戸時代の百姓一揆を想起しがちですが、そんななまやさしいものではなく、この当時の一揆は戦です。
結局は信用できない社会となり社会全体が疲弊していきます。そら戦国時代になるわけです。
この本にも出てきますが柳生の里の入口に疱瘡地蔵があり、この地蔵に正長の土一揆によって徳政令を勝ち取った郷民の文が書かれています。ただし山の中にあり観光客は誰もいません(笑)。正長元年柳生徳政碑として国の史跡になっています。