船形埴輪

船形埴輪

松阪に宝塚古墳群があり、ここで見つかったのが船形埴輪。前方後円墳の造り出し部分(祭が行われた場所)でほぼ完全な形で発掘されました。古墳の石室に描かれた壁画や円筒埴輪の線画で装飾用の船があったことは知られていましたが、立体的な形で確認されたのは日本で初めてです。船には王がいることを示す太刀や蓋、杖がそびえていました。古代にこんな船があったんですね。

中世の伊勢には桑名、白子、安濃津、的潟(まとかた)、大湊の港があり、的潟は櫛田川の支流である「中の川」の河口にあったといわれる港の名前です。的の形に似ているのでマトカタと呼ばれるようになったようですが現在は地形が変わってしまって正確な場所は分かっていません。。万葉集には702年に持統上皇が三河へ行幸する時の出発地として「マトカタの浦」という地名が出てきますので古代から中世には港で栄えていたようです。

ヤマト政権が東方経営の拠点としていたようですので宝塚古墳群に葬られたのはヤマト政権に協力していた地元の王だったのでしょう。

大阪府中小企業診断協会 新年互例会

大阪府中小企業診断協会 新年互例会

ANAクラウンプラザホテル大阪というオシャレなホテルで大阪府中小企業診断協会の新年互例会が開催されました。 

ホテルは堂島近くで最初に勤務した会社が堂島グランドビル(1階にオーム社と第一勧銀がありました)ですので懐かしい場所です。堂島グランドビルはサントリー本社の斜め前で、サントリー横にあったホテルは更地になっていました。堂島もだいぶ変わっていましたね。ランチをよく食べに行った中国料理「青冥」は今も健在でした。 

大阪府中小企業診断協会は1000名を超える大所帯で、新年互例会には150名以上が参加しておりました。なかには和服姿の女性や和装の男性の姿も。挨拶のあとは立食パーティで、昨年、診断士通しで結婚したカップルの挨拶もありました。集団に報告するとは後戻りもできず、なかなかリスクが高い発表だと思うのですが(笑)。がんばってください!

2019年はホームページ誕生30周年

そういえば2019年はホームページが誕生して30周年です。

1989年、スイスのジュネーブにある欧州原子核研究機構 (CERN) で研究していたティム・バーナーズ=リー博士がハイパーテキストの考え方を発表します。ハイパーテキストというのはカーソルを持っていくと指マークに変わり、クリックすると飛ぶリンクのことです。このハイパーテキストを使って作成したのが最初のホームページで、実際のものは1990年にできました。

これに熱狂したのがイリノイ大学の学生だったマーク・アンドリーセンらで、テキストしか扱えなかったのを画像なども扱えるマルチメディアのブラウザーを開発してしまいます。ここにちょっかいを出してきたのがジム・クラークで、大学と揉めて飛び出したり、傍目で見ていたビル・ゲイツがインターネット・エクスプローラで殴りこんできたりという戦国時代に突入します。

というわけで「バグは本当に虫だった!」をぜひどうぞ(笑)。

額田戎神社

額田戎神社

えべっさん、今年もあんじょう頼んまっせえ!他のヤツの願いはどうでもええから、ワテの願いは絶対でっせえ!合同会社もやっているし、ほんまに頼んまっせえ!!

ということで家のすぐ近くにある額田戎神社へ。人が多い今宮や西宮へ行かなくても、ゆっくりお参りできるのが最高です。西宮のえべっさんを勧請しているので、ご利益は同じです!!と信じています(笑)。なんせ浄土真宗なみの絶対他力ですから、ほんまにあんじょう頼んまっせえ!

いつもは閑散としている額田戎神社も十日戎の間は”商売繁盛で笹もってこい!”が大音量で流れています。まずはえべっさんにお願いして、次は社殿裏にまわって木の板をたたき、もう一度お願いをします。なんせ耳が遠い神様なんで念には念をいれます。

境内でお神酒と甘酒をいただいてから縁起物を買い求めます。額田戎神社では縁起物を買うと福引ができ、今年も5等(末等)のゴミ袋でした。さあ、また1年がんばろう!

上之宮遺跡

上之宮遺跡

聖徳太子による最初の国立劇場である土舞台から山を降り、少し歩いた住宅街のど真ん中にあるのが上之宮遺跡。とっても分かりにくいところにあります。 

発掘によって周囲100m四方の敷地内に大型建物、花園、園地遺構があることが判明しました。近くを川が流れており川が削った河岸段丘の上にあります。今は住宅地の中に園地遺構が復元され、小さな公園として整備されています。 

聖徳太子を最近の教科書では厩戸皇子と呼ぶそうですが、別名で上宮王(かみつみやおう)とも呼ばれています。上之宮という地名から、聖徳太子が斑鳩宮に移るまで過ごした宮殿、上宮(かみつみや)が上之宮遺跡跡ではないかとも言われています。またこのあたりは豪族・阿倍(安倍)氏の本貫でもあるので阿倍氏関係の居館の可能性もあります。阿倍氏は阿倍比羅夫などを輩出し、平安時代には安倍晴明へとつながります。飛鳥時代から続く安倍文殊院もあります。 

近年、もう少し西へ行った東池尻・池之内遺跡で池の堤跡が見つかり、これが磐余池ではないかと言われています。磐余池の近くには用明天皇の磐余池辺雙槻宮があり、上宮はその南隣にあったとされているので、上ノ宮遺跡は阿倍氏関係ですかねえ。 

土舞台

土舞台

安倍山城から尾根づたいに歩くと郭跡のような広場があり、”おおっ!”と思ったら土舞台という碑が建っていました。

なんでも推古天皇の時代に百済人の味摩之が日本に帰化したんですが、伎楽の舞を習得していたので聖徳太子が子供を集め、この伎楽の舞を習わせた場所なんだそうです。技術伝承ですなあ。というわけで土舞台は日本芸能発祥の地で日本最初の国立劇場なんだそうです。ほんまかいな~あ。地名が土舞台ですから、何かはあったんでしょう。

伎楽は三国志で有名な呉から伝わった舞で東大寺の大仏開眼供養などでも披露されましたし、正倉院にも酔胡王、迦楼羅、呉女などの伎楽面がいくつも伝わっています。

土舞台は江戸時代の「大和名所図絵」に紹介されるほど有名だったそうですが、今はほとんど知られていないので顕彰碑が建てられたんだそうです。まあ行っても単なる広場で、南北朝時代の安倍山城の時は絶対に兵士が駐屯した郭として使われていたでしょうね。

磐余若桜宮跡

磐余若桜宮跡

大和谷城跡は現在、若桜神社となっていますが古代には磐余若桜宮跡があったようで伝承地になっています。磐余(いわれ)というのは現在の桜井市西部地域を指した古代の地名で、神武天皇の和風諡号にも磐余の名前が入っており、かなり古いですね。 

磐余若桜宮を作ったのは第17代履中天皇で、宋書に出てくる倭の五王の倭王讃ではないかと言われており、実在したようです。磐余に造った池で船遊びをしていると、杯に季節はずれの桜の花びらが舞い落ちたことから、宮名を磐余稚桜宮としました。 

磐余池といえば大津皇子の辞世の歌が万葉集に残っています。”ももづたふ 磐余の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ”。大津皇子の墓は二上山にあります。里中満智子の「天上の虹」の世界ですな~あ。

50年前にインターネットが誕生した

皆さんの家や会社に無線LANルーターがあると思いますが、無線+LAN+ルーターの3つの機能があります。ルーターには経路制御という機能があるんですが、これがインターネットを支える基本機能です。今から50年前の1969年にUCLA(カリフォルニア大学ロスアンゼルス校)に、このルーターの元祖が設置されました。続いてスタンフォード研究所に設置され、UCLAとネットワークで結ばれます。 

■インターネットで最初に流れたのはLO 
UCLAからスタンフォード研究所に「LOGIN」(ログイン)というデータが送られます。最初の「L」と「O」の文字が送られたことは電話で確認されています。ですが、この時点でシステムダウンしてしまいました。バグがあり修正されUCLAからスタンフォード研究所へログインすることができインターネットがスタートします。 

2拠点以外にカリフォルニア大学サンタバーバラ校、ユタ大学にもルーターの元祖が設置され4つの拠点を結ぶネットワークができます。国防総省(DARPA)が予算を出し、作られたネットワークですのでアーパネット(ARPANET)と名付けられ、これが皆さんが今使っているインターネットの元祖となりました。もう50年も前のことになるんですねえ。 

バグは本当に虫だった

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第2章に載っています!