IoT・AI活用入門セミナー

ホテルアウィーナ大阪

昨日は日本建築金物工業組合さんで「IOT、AI活用入門」というタイトルでセミナーを行ってきました。大阪府中小企業団体中央会から大阪府よろず支援拠点への依頼で、場所は上本町駅南側にあるホテルアウィーナ大阪です。
大阪府よろず支援拠点の宣伝をしてきました。セミナー時間は1時間と聞いていたんですが、懇親会前の休憩時間確保やら最初の挨拶などで正味の時間は45分。けっこうはしょったセミナーになってしまいました。

赤尾城

赤尾城

忍坂山口坐神社(式内社)がある赤尾集落の南側にそびえている比高50mほどの山稜先端部が赤尾城跡です。なかなか見ごたえがある山城です。けっこう手間をかけて築いたようで、かなりの高低差がある郭がいくつも造られ、二重堀切や横堀などもあります。ただ竹藪だらけですので、赤尾城に登るならやはり冬ですねえ。写真は堀切です。

【西阿の赤尾城】
赤尾城は戒重西阿が築いた6城の一つで、外鎌城がすぐ正面に見え、赤尾城背後の山稜に続く鳥見山には鳥見山城があり、3つの山城が連携していました。西阿が築いた頃は砦と呼ばれていましたので規模は小さかったようです。西阿の赤尾城は1341年7月に北朝方の細川顕氏軍に攻められて落城してしまいました。

【戦国時代の赤尾城】
戦国時代となり、大和の覇権をかけて筒井順慶と松永久秀が戦います。松永久秀が信貴山城と多聞山城を築き、大和へ侵攻してきました。大和の国人を巻きこんでの戦となり、居城である筒井城も攻められ筒井城を追われることになります。この前後に筒井勢と松永勢がぶつかる鳥見山合戦が行われたので、この時に赤尾砦が大規模に改修されたようです。松永久秀は安倍山城を陣城にしたようなので、赤尾城を改修したのは筒井勢かなあ。

筒井城を追われた時の筒井順慶は17歳と若いこともあり、最初は劣勢でしたがあきらめず、織田信長と松永久秀の反目によってチャンスをつかむことになります。

販路開拓のためのIT講座

三重県勤労者福祉会館で商工会議所、商工会の経営指導員などを対象とした研修会です。メインは三重県版経営向上計画作成支援ですが、前座で1時間ほど「販路開拓のためのIT講座」という内容でセミナーをしてきました。内容はホームページの集客です。

西阿が造った六城

西阿が造った六城

大寒で山城シーズン真っ最中だというのに大阪は朝から雨。仕方ないので山城登りは断念して、いろいろと調べものをしています。本当は原稿も書かないといけないんですが、明日できることは明日やろうっと!(笑)

【南朝の武士 西阿】
最近、面白いのが南北朝時代に活躍した西阿(さいあ)という大和武士。後醍醐天皇側につき現在の桜井周辺が西阿の基盤でした。桜井は東国に通じる伊勢道をおさえる拠点でしたが、西阿はここに6つの城を築きます。

対する北朝側は桜井の北にある櫟本(天理)に軍を派遣し、西阿軍と戦闘となります。西阿軍は形勢不利だったようで桜井のすぐ南にある安倍山城に北朝側が陣をしき、吉野との連絡網が遮断されます。北と南からの北朝側の攻撃で桜井一帯が戦場となり、結局は六城とも落城し、西阿は討死したようです。

【西阿の六城】
戒重城-平城。春日神社一帯で、江戸時代に戒重陣屋となったため遺構は残っていません。

河合城(川合)-平城。市街地でどこにあったか分からず。微高地の一番高い所が桜井駅なので駅周辺に河合城があった模様。

安房城(粟殿)-平城。市街地でどこにあったか分からず。

鵄(鳥見山)城-山城。2つの峰に郭が造られており、かなりの規模。戦国時代にだいぶ改変されたようです。

赤尾城-山城。丘の上にいくつも郭が造られており、かなり大規模。戦国時代にだいぶ改変された模様。

外鎌城-山城。西阿の詰めの城で、割と単純な郭なので西阿時代のものが色濃く残っていそう。山頂に西阿の碑があります。

戒重城・戒重陣屋

戒重城

太平記には後醍醐天皇が吉野へ移る時に馳せ参じた大和武士の-人に三輪西阿と記録されています。また開住西阿と呼ばれることもあり、三輪や開住は西阿が住んでいた地名で、法名が西阿だったようです。 

西阿は宗像神社の神主を代々務めている高階氏ではないかといわれ、玉井入道西阿という人物が1341年7月3日に62才で陣没したという記載があり、7月2日には主城だった戒重城が落城し、3日には赤尾城や外鎌山城が落城していることからこの時に西阿は討ち死にした模様です。 

【戒重城】 
桜井の近くに戒重という土地があり、ここに戒重城がありました。現在の春日神社一帯にあった模様です。西阿が築いた城の内、最も西に位置した平城で城の周りをが竹薮に囲まれていたことから竹城とも呼ばれていたようです。7月2日夜の戒重城落城の際、兵たちは東の外鎌城へと逃れました。 

【戒重陣屋】 
江戸時代、戒重城の跡地に造られたのが戒重陣屋です。織田長益(有楽斎)が所領のうち四男長政に一万石を分知しましたが、これが戒重藩で居城を戒重陣屋としました。五男尚長が一万石をもらって起こしたのが柳本藩で黒岩砦を取り込んで作ったのが柳本陣屋です。 

黒塚砦・柳本陣屋

黒塚砦・柳本陣屋

真田幸村が砦とした岡ミサンザイ古墳や安閑天皇陵を主郭とした高屋城など、古墳は砦として活用されました。本当の継体天皇陵といわれる今城塚古墳は信長が三好家を攻めた時に城砦にしたと言われていましたが、堀切と思われていたのは地震の跡だったようです。

柳本に黒塚古墳というとっても有名な古墳があります。33面の三角縁神獣鏡が出土し、魏の皇帝が卑弥呼に銅鏡百枚を下賜したという魏志倭人伝の記録から卑弥呼の鏡と大騒ぎされた古墳です。この古墳も戦国時代は砦となり柳本城とか黒塚砦と呼ばれていました。写真にある前方部と後円部の間に堀切がありました。

龍王山城を造った十市氏ですが、家臣が筒井派と松永派に分かれて争うことになってしまいます。松永派は松永久秀の嫡男である松永久通と十市遠勝の娘が龍王山城で結婚し、巻き返すなどいろいろありましたが、松永久秀が信貴山城で信長に反抗した時に、黒塚砦にいた松永久通は攻撃をうけ自刃してしまいます。

江戸時代となり織田長益(有楽斎)の息子が柳本藩を起こし、陣屋がこの黒塚古墳を堀代わりに取り込んだ形で出来上がります。陣屋の中心地は柳本小学校の敷地となっています。

龍王山城・北城

龍王山城・北城

龍王山には別の峰に北城があり、南城と北城が一つの城を形づくる一城別郭の城になっています。南城とあわせると、面積としては松永久秀の信貴山城を抜いて大和一の中世城郭となります。

南城はハイキングコースになっているのでハイカーが多かったのですが北城にはさすがに誰もいません。北城には見事な畝状空堀群や虎口があり、鉄壁の防御態勢となっています。南城に比べ、いろいろな技巧がほどこされており南城の後に造られた城になります。造ったのは大和の国人である十市氏。本格的に城を整備したのが十市遠忠で文武両道の武将として十市氏の最盛期を築きました。

大和の国人は筒井、越智、十市、箸尾、古市らで、それぞれが連携したり戦ったり、そこに三好三人衆、松永久秀らが入り乱れて混戦状態となります。最終的には織田信長は入ってきて筒井を盟主にしたため収まりましたが、松永久秀が信貴山城で信長に反旗をあげるなど、一波乱も二波乱もありました。筒井が筒井城から大和郡山城へ移り、信長が大和郡山城以外の大和の諸城を廃したので、この時に龍王山城も廃城となりました。

南城は連郭式でしたが北城は主郭の周りを郭が巡る環状式山城になっています。武士が詰めた大広間的な建物や、庭園も見つかっています。平地に十市城があり南城が詰めの城でしたが、その後、居城そのものを北城に移したので家臣の屋敷跡などもあり、かなり広い縄張でした。ただ山の上まで物資を上げるが大変だったでしょうね。

売上につながるネット集客の仕組み

売上につながるネット集客の仕組み

大阪商工会議所・東支部で「売上につながるネット集客の仕組み」セミナーを開催。場所はニッセイ京橋ビルでした。

HPへのアクセス数を上げ、検索結果で上位表示をめざすためのお話です。従来の検索エンジン対策に加えてHPをスマホに最適化したサイトに変更し、フェイスブック、インスタグラム、ツイッターなどのSNSから効率的に情報発信してHPにつなげるとともに、コンテンツ充実を図ることが求められます。そこでHPを見直すポイント、SNSを活用してHPのアクセスを増やし集客力を強化する方法を説明してきました。

龍王山城・南城

龍王山城・南城

JR柳本駅から2つのハイキングコースがあり、行きは崇神天皇陵から龍王山古墳群の中をぬけてゆくルートを選択。古墳群の石室などを見ながら1時間ほどエッチラオッチラ登ると龍王山の山頂に着き、ここにあるのが龍王山城・南城です。ふだんの山城巡りと違い、ハイキングコースで山道がきっちり整備されているのがいいですね。しかも山城巡りで人と出会うことは、まずありませんが龍王山城登りでは、いろんなハイカーと会います。なかにはトレイルをやっている人もいます。元気ですねえ。

龍王社近くから城跡になっていて、ハイキングコースはそのまま主郭に続いています。龍王山城・南城は連郭式山城になっていて、いくつもの郭を土橋を使って登っていくと山頂に付き、ここが主郭跡になっています。主郭からは奈良平野が一望でき、大和三山や箸墓もバッチリ見えます。ハイカーは眺めを楽しんでいますが、一人、縄張図をもとにいろいろな郭を巡っておりました。

宝塚古墳の被葬者は誰?

宝塚古墳

船型埴輪が見つかったのが宝塚古墳の1号墳で、伊勢国では最大の前方後円墳です。宝塚古墳は松阪郊外の丘陵上にあり伊勢湾が一望できるところで、航行中の船からはランドマークになっていたでしょう。宝塚古墳は国の史跡として整備され船形埴輪が見つかった造り出し部分に埴輪が再現されています。

【伊勢にもあった国譲り神話】
1号墳の被葬者は分かっていませんが、地域をおさめた飯高氏の先祖である乙加豆知命(オトカズチノミコト)ではないかともいわれています。乙加豆知命は斎王である倭姫命を伊勢で出迎えたと伝わっていますので、大和朝廷と関係があり、東の守りをまかされた人物でしょう。日本武尊(ヤマトタケル)が東征に出向く前、伊勢へ寄って倭姫命より草薙剣を受け取っています。

伊勢にはもともと伊勢津彦という出雲神がいて、神武天皇に逆らっていました。ところが攻められて東海に逃げたという、出雲と同じような国譲り神話が残っています。伊勢という国名はこの伊勢津彦からとられたという説があり、古代にはいろいろとあったようです。

1号墳のすぐ横に2号墳があり、こちらは帆立貝形古墳になっています。1号墳との位置関係から1号墳の後を引き継いだ首長のようです。宝塚古墳には88基以上の古墳があり、王家の谷のようになっていましたが、宅地開発などでほとんどが消滅してしまいました。