夏越の大祓

夏越の大祓
夏越の大祓

6月30日、上半期終了です。

本日、行われるのが夏越の大祓。「水無月の夏越の祓する人は、千歳の命延ぶというなり」ということなんで、氏神さんの枚岡神社に人形(ひとかた)を奉納してきました。これで上半期の穢れを払って、下半期を乗り切りましょう。

夏越の大祓にあわせ、白の外郎に小豆をのせ、三角形に切った「水無月」というお菓子を食べる風習があります。三角形の外郎は氷をあらわしていて、もともとは宮中で行われていた「氷の節句」からきています。氷室から運んだ氷を食べて夏を乗り切るということで、庶民が氷の代わりに編み出したのが水無月です。

というわけで夏越の大祓にあわせ、オンザロックのグラスにビールを注いで飲んでおります。

黒門市場で惜別の宴

寿恵廣
寿恵廣

ファイティング・コンサルタンツ、メンバーの一人が都落ちすることとなり惜別の宴です。赴任先は東人が住む太田道灌の地、つまり坂東です。

唐人や韓人が多く集う黒門市場の寿恵廣で惜別の宴が開催されました。”いっそうのこと宮仕えを辞めて独立しろ”という建設的な意見にも耳をかさず転勤していくこととになりました。

時に、初夏の令月にして、気淑く風和ぐ...。令和の元となった大伴旅人の大宰府での宴では寂しい歌がいくつか上がっていますが、それもそのはず、宴の前年に起きたのが長屋王の変です。藤原四兄弟には権力を握っていた長屋王排斥の動きがあり、長屋王側であった大伴旅人を大宰帥として遠くに追いやるための人事だったと言われています。さて、今回の転勤人事には何が隠れているのでしょうか。

岡山城へ

岡山城
岡山城

午後から岡山でお仕事。 

必然的に早目に岡山へ行って岡山城を散策することになります。まっとな行動です。 

街中に宇喜多家の旗印と池田家の旗印が飾られていました。宇喜多家と池田家との間に岡山をおさめた小早川秀秋はないんですねえ。丸に違い鎌紋もなかなかお洒落なんですが。

岡山へ行ったので、ついでに本屋巡りをして本の宣伝をしてきました。 

岡山城のすぐ近くの城下にある丸善、クレド岡山にある紀伊国屋書店をまわってきました。前回は岡山駅にある三省堂書店とイオンモール岡山の未来堂書店をまわってきましたので、これで岡山市の大型書店は制覇かなあ。

信長より早く、飯盛山城は見せる城だった!!

飯盛山城
飯盛山城

久々にビッグニュースが飛び込んできましたね。 

信長より先に天下人となった三好長慶の飯盛山城から広範囲な石垣が発見されました。おお!!! 

城の南側にある千畳敷郭周辺で、推定で長さ30メートル、高さ4メートルの石垣を発見。大東市教育委員会によると今まで発見された石垣約100カ所のうち約半数が、三好長慶が飯盛山城に居城した時期に造られたことが判明しました。 

これまで石垣を多用し、それまでの「守る城」から「見せる城」へ変えたのが織田信長の小牧山城からと言われていましたが、それよりも早く三好長慶が「見せる城」を実現していたようです。 

飯盛山城は生駒山地の北側に築かれ、河内、摂津、大和、山城が眺められます。麓から見ると今まで見たことがない石垣の城が山上にそびえ視覚効果が高かったでしょうね。三好長慶は織田信長よりも早く足利将軍を追放し、天下人となった人物で、織田信長は三好長慶を手本にしていたようです。三好長慶を支えた松永久秀の多聞城にあった天守閣をまねて安土城天守閣を作ったとも言われています。 

G20となっているインテックス大阪からも飯盛山城が眺められますが、どこもニュースで流さないでしょうね。

G20 大阪は厳戒態勢に

いよいよG20が始まるということで全国からお巡りさんが大阪に集まって厳戒態勢になっています。でも大阪の町を神奈川県警と書いたパトカーが走っていると、とっても違和感がありますね。伊勢志摩サミットの時は津駅に熊本県警と書いたお巡りさんが警戒にあたっていて乗客に道を聞かれて困っていました(笑)。 

地下鉄のゴミ箱が撤去され、ロッカーも使えなくなったためインバウンドで民泊に泊まっている外国人などに影響が出ています。交通規制となり物流に影響を与えますので大阪経由の宅配便などは遅れるとアナウンスされています。 

そこらへんで検問がはじまり、お巡りさんを、めたらやったら見かけるようになったので犯罪が減るのはいいのですが、G20の会場となる南港で商売しているお店にとってはマイナスだけ、会期中の4日間は閉店するように言われ補償は一切なしだそうです。先週あたりから南港に近づかない人も増え商売あがったりで、全国から応援にきた、お巡りさんへは弁当支給でしょうから、飲食店は軒並みダメ、仕事終わりにお巡りさんが寄ってくれるアイスクリーム屋だけは少し繁盛しているそうです。

二十歳の原点

二十歳の原点
二十歳の原点

先日、丸善をのぞいていた時、面陳列されていたのが「二十歳の原点 コミック版」。

また懐かしい本がコミックになったんですねえ!ラベルには「今のままじゃダメだと感じている全ての人に」とあります。50年ほど前、立命館大学は衣笠ではなく河原町広小路にありました。跡地の一部は以前に勤務していた関西文理学園が買って、今は長浜バイオ大学の学舎などになっています。京都府立医大のあたりも立命館大学でした。

学生運動が盛んな頃、立命館で学生生活をしていた高野悦子が書いていた日記が「二十歳の原点」です。「独りであること、未熟であること、これが私の二十歳の原点である」という言葉からタイトルになりましたが、本を読むと朝日ジャーナルやら哲学書など、よく読んでいますねえ。最後は「旅に出よう テントとシュラフの入ったザックをしょい ポケットには1箱の煙草と笛をもち 旅に出よう...」で終わります。当時は二十歳になったら読む本で影響を受けた若者が私も含め多かったですね。

おおさか東線

おおさか東線
おおさか東線

東大阪からJRで京都や東京へ行く時に便利なのが「おおさか東線」。従来は大和路線の久宝寺駅から片町線の放出(はなてん)駅までですが、放出駅から延伸されて新大阪駅に接続されました。ダイヤは15分に1本と大阪にしては少ないのですが混み合う本町などを経由せずにすみます。

■赤川鉄橋
放出から新大阪までは城東貨物線が通っていたのですが「おおさか東線」にするために複線化されました。途中、淀川には赤川鉄橋がかかっていて、昔、上新庄に住んでいた頃、通勤はラッシュで混み合う阪急電車でした。

晴れた日は、この赤川鉄橋を自転車で渡り毛馬から中之島を通って堂島の会社まで自転車通勤していました。貨物線のすぐ横に歩道があり、貨物列車が通ると風圧で淀川に飛ばされるようになる鉄橋でした。この歩道をつぶして複線化されたので、今は通れません。

この懐かしい赤川鉄橋を通って列車は新大阪へ向かいます。おおさか東線には時たま貨物も通っています。

重量3kgの戦国全史がある神保町、恐るべし

神保町
神保町

石神井城をめぐった後、RedBall(AllAbout)に参加する前に時間があったので迷わず神保町へ。東京で時間があったら、やっぱり神保町でしょう(笑)。 

いつも地方出版を扱っていた書肆アクセスをのぞいていたのですが、閉店したのは本当に残念です。かわりにアットワンダーなどの新しい古本屋が誕生していました。道路の壁一面が古本といえば矢口書店が有名ですが、このアットワンダーでも脇に入った道路の壁一面に古本を並べていて、外国人が思わず写真を撮っていました。 

神田古書センターに出向くと地下ホールで古書市をやっていました。もっとも来店しているのはオッサンばっかりです。恵比寿へ出てRedBallに参加するので、荷物になるような本は買わないでおこうと誓っていたんですが、「クロニック戦国全史」を発見。定価が14,369円で800ページにわたって戦国時代を網羅した一冊です。でかいし重量が3kgと猫なみです。”いくらかな”と見返しを見ると800円!! 

結局、買ってしまい重い本を持ったまま恵比寿へ出てRed Ballに参加。大阪まで持ち帰りました。重かった! 

太田道灌と戦った石神井城

石神井城
石神井城

石神井といえば有名なのが石神井城で、石神井公園に今も残っています。

石神井城は鎌倉時代に豊島氏が造ったようで、豊島氏の本貫は武蔵国豊嶋郡になり、東京都豊島区の名前はこの豊島に由来しています。豊島氏は他に練馬城(今の豊島園にあったようです)を造り、扇谷上杉氏の家宰だった太田道灌(江戸城を造ったことで有名)と戦っていました。

当時の関東は公方や関東管領が争い、関東管領に上杉氏も扇谷上杉氏や山内上杉家い分裂、そこに北条早雲まで加わって混沌とした状態になっていました。太田道灌が築いた江戸城と河越城の防衛ラインを豊島氏の練馬城と石神井城が遮断してしまったため、太田道灌との戦いになります。太田道灌は練馬城を攻めた後、石神井城近くの愛宕山に陣を張って石神井城を攻め豊島氏は敗走。これで没落することになります。

石神井城は石神井公園の三宝寺池横の丘上に残り、保存のため立ち入り禁止となっていますが、土塁と空堀を廻らせた内郭が残り、外から眺められます。