共和国の砦だった草路城

草路城
草路城

JR同志社前駅を西に行くと普賢寺谷で山城群になりますが、東に行くと平地が拡がっており草路城があります。城跡は咋岡(くいおか)神社境内になっていて、神社の周りを水堀が巡り、境内には土塁の一部が残っています。

「応仁の乱 戦国時代を生んだ大乱」(呉座勇一 中公新書)がベストセラーになりましたが、とにかく複雑怪奇なのが応仁の乱。天皇だけでなく管領などの各家でも跡目争いが起こり登場人物が多すぎてよく分かりません。この草路城が応仁の乱の大きな舞台となります。

■山城国一揆の舞台
幕府の有力守護だった畠山家では畠山政長と畠山義就が争い、山城国をどちらが支配するかでも争っていました。畠山政長が支配していた草路城を畠山義就が攻め、落城させます。この後、南山城から大和にかけて戦場となり2ケ月ほど続いた時、疲弊した国人と農民が「もう、やってられない!」と起こしたのが山城国一揆。

1485年(文明17年)に南山城(久世郡、綴喜郡、相楽郡)の国人や農民が集まり自分たちで南山城の自治を行うことを決めます。その際、立て籠もったのが草路城とされています。さすがの畠山政長・義就もどうすることもできず、両者とも南山城から引き揚げます。

翌年、国人や農民が宇治の平等院に集まり、国中掟法を取り決めます。南山城は「惣国」と称される自治制となり、つまり共和国的存在となりますが、最終的には帝国軍である織田信長が侵略を迎えることになります。

学べばわかる北前船

Gacco
Gacco

大学・企業が提供する講座を無料で学べるGacco。最近、受講したのが「学べばわかる北前船 一攫千金の夢とロマン、人・モノ・文化の交流史」です。一攫千金というタイトルに惹かれました。(笑)

北前船とは本州各地と蝦夷地(北海道)を往来していた廻船のことで、西廻り航路ができ弁才船と呼ばれる船が行き来していました。各港で商売しながら富を蓄えていきます。「本間様には及びもないが せめてなりたや殿様に」と歌われた酒田の本間家も、幕末にロシアと渡り合った高田屋嘉兵衛も買積と呼ばれる船主自身が商品を取引して財を蓄えていきます。

北陸の船乗りも多いのですが船は大坂にあるので、北陸から陸路で大坂へ出てから出航するなど、面白い話題がけっこう出てきます。講師と女子大生の掛け合いになっていて毎回、最後に北前船クイズと各寄港地を写真で紹介するギャラリーがあるんですが、けっこう面白いです。

普賢寺

普賢寺
普賢寺

普賢寺(大御堂観音寺)

創建は義淵僧正で、天武天皇の勅願により建てられました。度々、火災に見舞われたようで現在は大御堂だけが再建されています。現在は観音寺という名前ですが古代・中世には普賢寺と呼ばれていました。普賢寺のすぐ横には地祇神社があり、大西氏をはじめとした地侍の氏寺になっていました。

■神君伊賀超え
本能寺の変が起きた頃、徳川家康は堺から京都へ向かう途中にある飯盛山で、本能寺の変を知らされます。本拠地の岡崎を目指すことになり、これが神君伊賀越えです。ルートについては諸説ありますが、飯森山から生駒山地の北側を抜ける尊延寺(枚方)-穂谷ー普賢寺のコースをとったようです。普賢寺からは草内から木津川を渡りました。足利義昭も普賢寺から河内の若江城へ向かいましたので交通の要衝だったようです。

創業塾(鈴鹿商工会議所)

鈴鹿商工会議所
鈴鹿商工会議所

久しぶりに創業塾でセミナーです。三重県よろず支援拠点のお仕事です。

鈴鹿商工会議所・創業塾全4回の3回目で
プログラムは
・「創業時の手続き」松岡コーディネータ(財務会計及び政務知識、創業計画書の作成方法)
・「プロモーションとは」(IT・SNS等を活用した販売促進手法)
・「労務管関係について」社会保険労務士
・「資金計画について」日本政策金融公庫
となっており、三重県よろず支援拠点では前半の2本が対象です。私はITを使ったプロモーションについて話をしてきました。

鈴鹿は、よい天気でとっても暖かいですねえ。久しぶりに津から伊勢鉄道に乗って鈴鹿駅で降り、伊勢神戸城、澤城を見てきました。

普賢寺谷 大西館

大西館
大西館

普賢寺谷の小野垣内遺跡の対面にあるのが大西館。3つの郭をもつ城でしたが開発でほとんど削平され、郭の一部だけが残っていました。戦国時代の城としては珍しく城主が分かる城だったのにもったいない。

1437年に普賢寺が炎上した後、大西志摩守が普賢寺再興のために全国を勧請したという記録が残っています。普賢寺に一番近いところにもあり、このあたりの盟主だったようです。織田信長が侵攻してきた時代は反信長派だったようで織田信長の命令で切腹させられています。足利義昭と信長が仲違いし、足利義昭が宇治の槙島城で挙兵しましたが敗れて河内へ逃げる時に普賢寺谷を通っています。大西備前守敏元は、この時に足利義昭に付き従ったようで河内若江城で討死にしています。

竹屋精肉店 閉店(津市)

竹屋精肉店
竹屋精肉店

商工中金津支店が移転した跡地に建てた竹屋精肉店が閉店していました。

張り紙には昨年11月21日にオープンしましたが閉店したということで1年もたなかったんですね。レストラン営業は続けるともありました。

でっかい精肉のオブジェが店頭にあったんですが朝日屋と伊勢屋の間に割り込んだ形での出店でしたから、難しかったのかなあ。

普賢寺谷 小田垣内遺跡

小田垣内遺跡
小田垣内遺跡

皆さま、お待ちかねの普賢寺谷・城館群シリーズ。今回は小田垣内遺跡です

垣内という地名がついていますので、かって城がありました。他にも内本町のように内がついていると城内を指す場合が多いです。

京奈和自動車道のすぐ横の山の中にあります。隣には同志社大学多々羅キャンパスがあります。近くまで小道があり、ここから郭内に入れるが楽ですね。小田垣内遺跡はけっこう古い時代から使われていたようで室町時代の石仏が土塁の中から見つかっています。

高い土塁と堀切などが見事に残っていました。けっこう大きな郭跡ですので、いろいろな館が建っていたようです。谷の反対側に大西館がありますので、大西関係者の城だったかもしれません。

太閤園でセミナー

太閤園
太閤園

大阪府よろず支援拠点のお仕事で太閤園へ。
近畿菓子卸商業組合の「流通問題検討会議」でセミナーをしてきました。演題は「AI・Iot活用」で持ち時間は40分でしたが、一つ前の話が伸びたので持ち時間は20分に(笑)。だいぶ端折ってしゃべってきました。
一つ前が岡山にある株式会社大町の秋山社長でチンドン屋さんの恰好で登場し会場を盛り上げていました。田道間守にちなんで3月12日を「だがしの日」にしようと運動されるなど、なかなか面白い内容でした。
会場は大手の菓子メーカーなど80名ほどが参加し、なかなか盛況でした。

普賢寺谷 駒ヶ谷遺跡

駒ヶ谷遺跡
駒ヶ谷遺跡

同志社大学・田辺キャンパスは山の上にあり、麓を流れているのが普賢寺川。反対側も山になっていて川が流れているのが普賢寺谷になります。不思議なことに谷の両川に城郭が続きます。

南北朝時代から山城が造られたようで、その一つが駒ヶ谷遺跡。ただし遺跡に関する情報はほとんどありません。昔は山しかありませんでしたが大学ができたので道路が整備され大学正門前の道がずっと多々羅という地を通っています。西山神社あたりから山に登れる道があり、登っていくと送電線があって、このあたりが郭のようです。探し回っていると井戸跡や堀切を発見。どうやらここらへんが遺跡のようです。ただけっこう崩れていたりして、よう分かりませんでした。

大学キャンパスにある筒城宮

筒城宮
筒城宮

継体天皇は応神天皇の5世孫であり越前国を治めていた人物。万世一系ということなら、ほとんど傍流で、この時に王朝交代したのではという説もあります。継体天皇陵は宮内庁指定ではなく高槻にある今城塚古墳と言われています。

継体天皇は大和に入れなかったのか、または越前-琵琶湖ー淀川の水運(当時の交易は日本海ルートが主でした)を重視したのか根拠地とした宮殿が

507年 樟葉宮(くすばのみや:枚方市)
511年 筒城宮(つつきのみや:京田辺市)
518年 弟国宮(おとくにのみや:長岡京市)
526年 磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや:桜井市)
と移り替わり、大和に入ったのは即位から19年後になります。

同志社大学・京田辺キャンパスの入口を入ると右手にこんもりとした森があり、階段を登ると開けた場所があって、ここが継体天皇・筒城宮跡伝承地で石碑などが建っています。周りはキャンパスに囲まれています。

京田辺は木津川に近く、琵琶湖と大和や難波(瀬戸内海)との水運を意識するなら最適地になります。