シン・テレワークシステムはラズパイ

NTT東日本とIPAによる「シン・テレワークシステム」。2020年10月31日まで、実証実験という位置づけで無償で提供されています。

インプレスのPCWatchにシステムについて掲載されていますが基本はラズパイで構築されています。現在、2万ユーザほどが使っており、しかも1ユーザーあたりの月額コストは5~14円になっています。月14円でも年間168円。正味のコストなんで有料化によって、いろいろとサポート代などが入っても安価で提供されそうです。

これで一人、在宅勤務でき会社に行かなくてすむので安いものですねえ。

→ NTTとIPAの「シン・テレワークシステム」はラズパイだった。1ユーザーあたり月14円で運用可能

オンライン講座がスタート

大学の講義が遅ればせながらスタート。

クロマキー
クロマキー

大きなクロマキーを自宅に準備し、クロマキーを使って大学のキャンパスを仮想背景にしてZoomを開始。Zoomの待機室に次々と入ってくる学生をチェックしてOKを出します。講義前にほとんどの学生が接続。2、3人は遅刻していました(笑)。

それにしても自宅で一人画面に向かってしゃべるのは、なかなか異様です。今日はシラバスなど説明で一方的な講座でしたので、課題とともに感想などはメールで送ってもらうことにしています。オンライン講義では学生は基本的にマイクを切っているので、私語は一切なし、なかなか不気味です(笑)。

オンライン講義は接続できない学生向けの準備が大変だし、また学生の反応を見ずにしゃべるので疲れますねえ。でも講義が終わってすぐにビールを飲めるのはいいですなあ!

ベニスに死す

疫病バトン 第七回(最終回)は「ベニスに死す」です。

【疫病バトン・ルール】
●疫病をテーマに7日間投稿する
●友達にバトンをお願いしたらダメ。友達をきっとなくします(笑)

ベニス
ベニス

トーマス・マンの「ベニスに死す」をルキノ・ヴィスコンティが1971年に映画化しました。テーマ曲にグスタフ・マーラーの交響曲第5番・第4楽章アダージェットが使われ、とっても印象的。舞台は疫病が流行しているベニス。主人公も最後は疫病で命を落とします。

■リド海岸へ
大昔の学生は小田実の「何でも見てやろう」や五木寛之の「青年は荒野をめざす」に感化され、バックパックに荷物を詰め込んだ放浪旅行が流行っていました。持参するのは「地球の歩き方」。ヨーロッパを目指すなら赤い表紙が印象的なトーマスクックの時刻表です。ということで航空券だけ予約してバックパックを持ってヨーロッパへ出かけました。

目的の一つがベニスのリド海岸、そう「ベニスに死す」の舞台です。夜行列車でベニスに入り現地で知り合った日本人学生と水中バスでリド海岸へ向かいました。リド海岸といっても単なる海水浴場、他のメンバーは映画を見ておらず感激しているのは私一人だけ(笑)。皆、大学四回生だったのでアドリア海を見ながら「日本へ帰ったら就職だなあ」としゃべっていたのを思い出しました。

菅原道真

疫病シリーズ No6は菅原道真です。

雷神
雷神

右大臣まで急速に出世したこともあり、周りの貴族に疎まれていたようで大宰府に左遷、延喜3年(903年)に亡くなります。さて、ここからが大変です。「北野天神縁起絵巻」によれば、道真が死んでまもない夏の夜、比叡山の僧侶のもとに道真が現れて「怨みを晴らす」と告げたと言います。さあ、怨霊の宣戦布告です。

延喜8年(908)、藤原菅根が雷に打たれて落命。翌年には藤原時平が病死。延喜13年(913)源光が鷹狩りの最中に泥沼に転落して溺死。延喜23年(923)藤原時平の妹と醍醐天皇の間に生まれた皇太子・保明親王が、満19歳で死去。と立て続けに道長の左遷に関わった関係者の死が続き、人々は「道真公の祟りだ」と噂します。

■清涼殿落雷事件がとどめに
疫病が流行り、923年疫病を鎮めるために「延長」と改元します。延長2年4月左遷の詔をした醍醐天皇は道真を右大臣に戻す詔を出しますが効果なし。翌年には藤原時平外孫で、皇太孫が数え年5歳で薨去し、当然、出てくる言葉は「道長公の祟り」!

そしてあの有名な事件が起きます!
延長8年(930)清涼殿で雨乞いについて会議をしていると、あっという間に都の上空に黒雲が垂れ込め雷雨が降り注ぎます。そして清涼殿に雷が直撃。藤原清貫が衣服に燃え移った火で即死、他にも公卿4人が死亡、警備の近衛兵も2名死亡します。この清涼殿落雷事件で体調を崩した醍醐天皇は朱雀天皇に譲位しますが7日後に亡くなります。

■武士の時代へ
震えあがったのが朝廷で、北野天満宮を作り菅原道真を祀ることになります。しかし疫病がまた流行。東では平将門の乱、西では藤原純友の乱がおき、新たな怨霊である平将門が誕生し、平将門を鎮めるために神田明神ができます。

武田信虎の追放

疫病シリーズ No5は武田信虎の追放です。

武田信虎って誰?という人もいると思いますが武田信玄のお父さんです。今川義元に娘を嫁がせて甲駿同盟を結び甲斐を統一した戦国武将です。今川義元に会うために駿河へ行き帰ってきたら甲斐の国境が封鎖されていました。

武田信玄と国衆によるクーデタです。同じ年に武田と争っていた北条氏でも北条氏康から氏政に家督が譲られます。背景には飢饉と疫病があり、民衆の間では疫病や飢饉がひどくなると世直しということで徳政(借金棒引き)&為政者の交代を求めました。甲斐も同じで民衆や国衆からの圧力があり信玄はクーデターを起こさざるをえなかったようです。

疱瘡地蔵
疱瘡地蔵

■徳政とは
柳生街道沿いに疱瘡除けを祈願した疱瘡地蔵があり正長の土一揆によって徳政令(柳生4庄の借金消滅)を勝ち取ったという碑文が書きこまれています。当時、なにかあると徳政令を求める動きになり、貸す方にしたらたまったものではありません。結局は信用できない社会となり疲弊していきます。大和国宇智郡の百姓連判状が残っていますが、これは蔵本(貸す方)に10年は徳政をしないので、お金を貸してという内容でした。

当時の金融は高利貸しでしたが、稲はたくさんの実をつけるので実質はそれほどでもありませんでした。ところが小氷期に入り冷夏などで作物ができなくなると借金が返せなくなります。天候不順も徳政令の背景にありました。

応天門の変と竹取物語

疫病シリーズ No4は応天門の放火犯とされた伴善男です。

朱雀門
朱雀門

貞観8年(866年)、応天門の変が起きます。応天門が放火され大納言・伴善男が犯人であるとされ伊豆に流罪となります。国宝「伴大納言絵詞」はこの事件を描いており応天門が燃えているのを見る群衆が日本史の教科書に出ていました。この時、事件の処理に当たったのが藤原良房。どうもうまく伴善男をはめたようで結局は古代からの名族だった伴氏(大伴氏)と紀氏の追い落としに成功しました。冤罪だったようです。

今昔物語には国中に疫病が流行った時に伴善男の幽霊が現れ、自身は行疫流行神となったが国に仕えた時の恩があるので本来は疫病で国中の者が病死するはずのところを咳程度でおさえていると言って立ち去ったそうです。

■藤原氏への憂さ晴らしだった竹取物語
藤原氏以外の氏族を追い落とすことで藤原氏は全盛時代を迎えます。そして出来上がったのが竹取物語。朝ドラの「エール」にもモチーフとして出てきます。かぐや姫に求愛する5人の公達がいますが4人は古代の官僚名簿「公卿補任」の文武5年(701)に出てくる名前と同じ。一人だけ違っているのが、くらもちの皇子です。この名前は公卿補任に出てきません。藤原不比等の母親が車持氏(くるまもち)の出身で、語呂が似ているから隠語的に使ったのではという説です。藤原の全盛期に小説とはいえ、あからさまにはできなかったようです。竹取物語では「くらもちの皇子」をこき下ろし、ラストは、かぐや姫が汚きところから月へ戻るシーンですが、意味は藤原が支配する汚きところでしょう。竹取物語の作者は分かっていませんが紀貫之ら紀氏ではないかと言われています。

祇園祭

大好評の疫病シリーズ。誰も楽しみにしていないって!、という声は無視して第三段は祇園祭です。

綾傘鉾
綾傘鉾

今年は新型コロナのせいで中止となってしまいました。祇園祭のきっかけは貞観11年(869)の疫病流行です。5年前の貞観6年(864年)には富士山が噴火します。いわゆる貞観大噴火が起き、騒然とした時代でした。

祇園祭はもともと祇園御霊会(ごりょうえ)と呼ばれ、神泉苑に66本(当時の国数)の鉾を立て、祇園の神を祀り、さらに神輿を繰り出して災厄の除去を祈ったことにはじまります。室町時代頃から山鉾巡行が始まりました。祇園祭では「蘇民将来子孫也」の護符を身につけて参加します。

■蘇民将来子孫也
今も伊勢へ行くと軒先に注連縄が1年中飾られ木札にこの文字が書かれています。「蘇民将来子孫家門」という文字で、省略して「笑門」とも書きますが、昔は「将門」だったそうです。平将門との関係を言われることもあり、商売繁盛の面からも「笑門」に変更になりました。

旅の途中で泊めてほしいというスサノオに対し裕福な弟は断り、貧しい兄の蘇民将来は粗末ながらもてなしました。後に再訪したスサノオは、蘇民の娘だけ茅の輪をつけさせ、蘇民の娘以外を滅ぼしてしまいました。なんちゅう神さんや!それ以来、ウチは”蘇民将来の子孫なんでよろしゅう”という札をつけることになります。

■祇園祭
山鉾や花笠は疫鬼対策の呪具、祭りの踊りは、地に這う悪霊を踏み鎮める呪法で、これは今も相撲の四股として残っています。最終的に悪霊や疫鬼を八坂神社に集め、祭神のスサノオによって退散させます。

天平の疫病

疫病シリーズNo2は737年に起きた天平の疫病です。天然痘の大流行でした。

長屋王邸跡
長屋王邸跡

天平年間、藤原不比等には4人の息子がいました。武智麻呂、房前、宇合、麻呂で藤原四兄弟と呼ばれています。同じ頃に台頭していたのが長屋王。父親は壬申の乱で大活躍をした天武天皇の長男である高市皇子です。奈良そごう(その後イトーヨーカ堂→ミ・ナーラ)があった場所が長屋王邸で平城京極近の一等地です。

■長屋王
長屋王邸では夏には氷室から氷を運ばせて楽しむ生活をおくっていましたが、今でいう商家(邸宅+会社)のような家でした。平城京の東市、西市にも店を出していて、弁当(笥に入れて販売。今でいうホカ弁)と酒を出品していました。お米がたくさんあったので付加価値をあげて稼ぐ、なかなかの商売人です。

長屋王に近い人物が大伴旅人ですが、藤原四兄弟によって大宰府に追いやられます。大伴旅人が大宰府で行った梅花の宴での歌から令和となりました。軍事一族の頭である大伴旅人を追いやってから藤原四兄弟が無実の罪で長屋王を密告し長屋王は滅びます(長屋王の変)。

■法華滅罪之寺
長屋王の変の後、藤原四兄弟は妹で聖武天皇の夫人であった光明子を皇后に立て、藤原政権を樹立します。ところが天平の疫病で四兄弟とも病死。長屋王の祟りと皆が噂します。一番ショックを受けたのが光明皇后で貧しい人に施しをするための悲田院、医療施設である施薬院を設置して慈善を行います。法華滅罪之寺(法華寺)を建立し、藤原氏の罪を何とかしようと邁進しました。

出雲神が祀られた大神神社

奈良東部に桜井があり南には飛鳥、北には邪馬台国畿内説の最優良候補である纏向遺跡があります。古代の超一等地で、ここに鎮座するのが大和一ノ宮・大神神社です。ご神体は三輪山です。

三輪山
三輪山

■疫病が原因だった
崇神天皇の時代、国中に疫病がはやり死者がたくさん出ます。いろいろと祈祷しましたが効果はありません。崇神天皇の夢に大物主神があらわれ子孫である大田田根子(おおたたねこ)に自分を参らせたら、うまくいくと言われます。大田田根子を探し出し、大物主神を祀らせたところ疫病が収まりました。こうしてできたのが大神神社です。

■疫病の原因は出雲神の祟り?
崇神天皇は実在した可能性のある最初の天皇で、有名なのが四道将軍の派遣で全国を掌握をはたします。ですので、「はつくにしらすすめらみこと」とも呼ばれています。

不思議なのが高天原から天下った神様が天照大神など天津神で、子孫が天皇家です。中心地である三輪山に天津神を祀るのが筋ですが、なぜか国津神(土着の神様)である大物主神を祀ることになります。

しかも大物主神の別名は大国主大神です。そう出雲大社の祭神です。無理やり国譲りをさせたので、疫病の原因は祟りだと思ったんでしょうかねえ。

光秀は明智からいずこへ

大河ドラマ「麒麟がくる」では”長良川の戦い”が行われました。斎藤道三と斎藤義龍の一騎打ちがありましたが過剰な演出ですねえ(笑)。総大将がそうそう最前線で戦うものではなく、実際に戦ったのは上杉謙信、井伊直政、藤堂高虎など数えるほどです。

田中城
田中城

予告編では光秀が越前に行くシーンが出ていましたが、「明智軍記」をネタ本にしているようです。越前の朝倉氏と美濃守護の土岐氏は姻戚関係ですので、土岐一族だった明智光秀は明智の里を出た後、縁を頼って越前朝倉家に仕えたことになっていますが、どうですかねえ。

■近江 高嶋郡の田中城にいた
最新の研究では明智光秀は室町幕府の足軽だったようです。湖北を支配していた浅井長政が琵琶湖の西側にある高嶋郡を浸蝕してきた時、足利将軍家と縁がある朽木谷の朽木氏や、田中城の田中氏は抵抗していました。

この時、田中城に幕府から派遣された兵の一人に明智光秀がいました。明智光秀は医学知識があったようで籠城していた時に同僚の米田貞能に教えていました。これが米田文書として発見され、明智光秀の名前が出る最古の資料となりました。となると明智光秀は京都を根城にしていたんですかねえ。