秀吉が最後に造った京都新城

■秀吉が最後に造った京都新城
去年、京都・仙洞御所内で発掘調査が行われ京都新城の石垣や堀跡などが見つかり大ニュースになりました。秀吉が最後に造った城で、秀頼を公家武士として生き残らせるために作った等、色々な説が出ています。

仙洞御所(京都新城)
仙洞御所(京都新城)

関ケ原の合戦の1年前、大坂城西の丸に徳川家康が入りますが、入れ替わりに西の丸に住んでいた高台院(秀吉の奥さん)が京都新城に移ります。関ケ原の合戦前に戦闘に使われるのを防ぐために京都新城の防御施設が破棄され、高台院は退去します。

石田三成が関ケ原を一望できる玉城に豊臣秀頼を総大将として迎える予定でしたが、大坂方で秀頼出陣を反対する層が壊したという説もあります。立花宗茂らが大津城を攻め、関ケ原の合戦に間に合いませんでしたが、京都新城を中継として使えないので大津城は落とすしかなかったですね。

■京都新城の解体
関ケ原の戦いの後は、京都新城に、また高台院が住みました。高台院が亡くなり、後水尾天皇が譲位で仙洞御所を作る時に解体されます。西本願寺にある飛雲閣は聚楽第からの移築と考えられていましたが、どうも京都新城の解体によって移築されたようです。これで京都新城は幻の城になってしまいます。

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