三吉石塚遺跡

奈良盆地の西側にあるのが馬見丘陵。南北7km、東西3km、標高は最大で25mにあり、ここに古墳が点在しており馬見古墳群です。4世紀末~6世紀にかけて造営され葛城氏の墓域とみる説が有力です。馬見古墳群の一つが三吉石塚古墳で帆立貝形になっています。古墳時代中期の5世紀後半頃に築造されたようで、発掘後にきれいに整備されています。

三吉石塚遺跡
三吉石塚遺跡

葛城の地を本拠にしたのが葛城氏です。葛城襲津彦(かづらきのそつひこ)という人物がいて百済記にも名前が出てきますので実在は確かなようです。大きな政治力があり、子孫は大王家と婚姻関係を持つことで維持していきました。5世紀には履中天皇から武烈天皇まで9人の大王のうち、6人の母が葛城氏でした。雄略天皇の時に滅ぼされてしまいます。

一説には葛城氏の後裔が蘇我氏だった可能性があります。ですので「我、蘇り」と名乗ったのかもしれません。

BCN Conference 2022 夏

本日は珍しくセミナーのダブルヘッダー。

BCN Conference2022
BCN Confrence2022

午前中は、週刊BCNさん主催の「BCN Conference 2022 夏」。3日間にわたって開催されており本日の基調講演を担当していました。セミナーはITベンダー向けなので「あなたの顧客・取引先が狙われる 標的型メール攻撃などセキュリティ対策」というタイトルです。ITベンダーとしては顧客や取引先の意識を変えさせて、教育などを充実させ、セキュリティー対策しなければならないという内容です。

最初、話が来た時に、「やったー、久しぶりに東京へ行ける!ついでに山城だ!」と思ったらオンラインでした(泣)。というわけで自宅で扇風機をまわしながらスーツを着てセミナーです。

午後は大阪府よろず支援拠点のお仕事で荒本にあるクリエイションコアへ。こちらもセミナーで大阪府よろず支援拠点や活動内容の紹介です。こっちはリアル開催でした。

讃岐神社(竹取物語の故郷)

日本最古の小説として有名な竹取物語ですが、竹林でかぐや姫を発見したお爺さんの名前を知っていますか?

正解は「讃岐造(さぬきのみやつこ)」です。

讃岐なんで四国説もありますが、我が町だと言っているのが奈良広陵町です。開化天皇の孫に「讃岐垂根王」の名前があるので讃岐氏がいたことは確かなようです。この讃岐氏が関係しているのが広陵町にある讃岐神社で、このあたりに屋敷があり竹取物語の故郷だと竹取公園まで作っています(笑)。

讃岐神社
讃岐神社

竹取物語は作者不詳ですがアンチ藤原氏が書いたのは確かなようで、かぐや姫に求婚する「くらもちの皇子」は藤原不比等の母親が車持氏(くるまもち)の出身をあてこすっています。

山の辺の道

ファイティング・コンサルタンツという、確か20年ほど前はコンサルティング・ファームを作ろうと燃えていた集団があるのですが、今や宴会と歴史散策をこよなく愛する、ていたらく状態になっています。

桧原神社
桧原神社

ということで歴史散策です。「どこでもよいけど、山はダメ」という、お達しに今回のテーマは日本最古の道である山の辺の道です。桜井から天理まで休憩なしだと3時間ほどで踏破できる初心者用コースです。飯森山城巡りで皆さん、山道にはトラウマがあり、それほど起伏がなく基本的に平坦コースな山の辺の道を選択。

■出発前の宴会で2時間
桜井駅に集合して、まずは腹ごしらえ。台湾料理店に入り、ビールから始まったのはよいのですが結局は食事というより宴会状態に。途中で雨があがるのを待ったり、頼まなくてもよいジャージャー麺を頼むヤツがいて2時間、店にいてから出発。山の辺の道・入口にたどりついたのは桜井駅を出て2時間半後でした。

海石榴市ー大神神社ー狭井神社ー桧原神社を巡ります。写真は桧原神社の鳥居前に拡がるレイライン。桧原神社は元伊勢と呼ばれ西に行くと淡路島の「伊勢の森」に至り、東に行くと伊勢神宮になります。

桧原神社を出発したところで、「疲れた~」の声。工程の1/3でリタイアし、卑弥呼の宮といわれる纏向遺跡を見学しJR巻向駅から奈良駅へ出て、また宴会して散会しました。

大和鈴山城

近鉄・五位堂駅を降りて少し歩くと「かつらぎの道」が馬見丘陵公園に向かって続いています。この「かつらぎの道」に入って坂を登ったところにあるのが鈴山城。馬見丘陵の一番西側になります。

鈴山城
鈴山城

鈴山城は誰が造ったのか不明で南北朝期に出来たようです。遊歩道建設に伴う発掘調査で南側にも堀跡が検出され方形居館形態の縄張りと考えられています。堀切や土塁、井戸跡などが見事に残っています。かってはうっそうとした山の中でしたがニュータウン開発で切り開かれ、丘陵部分に奇跡的に残っています。

地元の人が城跡の掃除などをしており、とてもアクセスしやすい城跡になっています。ただし入口はとっても分かりにくいところにあります。

インターネット・エクスプローラ サポート終了

1995年といえば1月17日に阪神淡路大震災が発生した年です。情報が錯そうする中、神戸市職員が、被害の様子をデジカメで撮り、インターネットで世界に送り続けたことがテレビなどで報道されたことから、大災害時の通信手段の一つとしてインターネットが意外に役立つことが認識されました。

インターネット・エクスプローラ
インターネット・エクスプローラ

■Windows95登場
同じ1995年の暮、11月23日「勤労感謝の日」にウィンドウズ95が発売されます。秋葉原、大阪・日本橋、名古屋の大須商店街など各地の電気屋街には深夜に向けて続々と人が集まり、店舗前には長い行列。午前0時ジャストにウィンドウズ95販売が開始されますが、深夜のカウントダウン・イベントがテレビや新聞で大きく採りあげられ、お祭り騒ぎとなります。

■インターネット・エクスプローラ
テレビを見ていた人への宣伝効果はバッチリで、ウィンドウズ95をきっかけに、はじめてパソコンを買う人が続出。今はサブカルチャーの街となった秋葉原ですが、パソコンや周辺機器を求める人で賑わう電気屋街として発展していきます。ウィンドウズ95にはインターネット・エクスプローラなどインターネットの機能が標準搭載されていました。ウィンドウズ95を買えばインターネットが簡単に始められるというイメージ戦略もあって、人気に拍車をかけます。

簡単といってもモデムに接続するために暗号のようなコマンドなどを覚える必要はありました。ただウィンドウズ95がきっかけで個人や企業へ急速にパソコンが普及していきます。この時に誕生したインターネット・エクスプローラですが、 2022年6月15日にサポートを終了しました。

神足

西国街道を歩いていたら公民館の前に「JR神足(こうたり)」の駅名表示がありました。懐かしい駅名ですねえ。

神足駅
神足駅

村田製作所の本社が目の前にあるJR長岡京駅の昔の名前はJR神足でした。桓武天皇が平城京から長岡京に遷都した頃、この地域に聖なる池があり、ここに神が降臨したので「神(かむ)」「到り」と称され、これが転じて「神足(こうたり)」と呼ばれるようになったといいます。本当かどうかは分かりません。この時に神足神社が創建されたようです。

JR長岡京駅は確かに長岡京の範囲ですが六条あたりで中心地域は阪急・西向日駅の周辺でした。ですので神足の名前でよかったのに。長岡京は2度にわたる大洪水と、陰陽師・安倍晴明で有名ですが早良親王の怨霊に悩まさ、わずか10年で平安京に遷都します。

開田城

勝龍寺城のあった西岡の地にはたくさんの城がありました。革嶋城、上羽城、石見城、物集女城、上植野城、今里城、開田城、神足城。京都・桂川の西にこんなにたくさんの城があったんですね。

開田城
開田城

阪急長岡天神駅のすぐ近くに開田(かいでん)城があり国人の中小路氏の居城です。といってもバス停近くに土塁の一部だけが残り開田城土塁公園となっています。マンション建設に伴って発掘調査が行われ、一辺約70mの方形居館が堀と土塁に囲まれていたことが分かりました。マンション1階には開田城の復元模型があります。文献に文明2年(1470年)、山名弾正と丹波勢が開田城と勝龍寺城を攻めた記録が残されています。

勝竜寺城の城跡(神足城)

現在の勝竜寺城跡は本丸跡で、勝竜寺城自体の城域はかなり拡がっていました。神足(こうたり)神社の境内に外郭の堀跡が残っています。かなり深い堀で真ん中には土橋がかかっています。土塁も見事ですね。土塁と空堀の比高が約六メートありました。

勝竜寺城の城跡
勝竜寺城の城跡

もともとは国人の城郭があったのを細川藤孝が勝竜寺城に組み込んだようです。昔、整備された頃に見に行った時はきれいな堀跡でしたが、いまは草が生い茂っていました。せっかくの遺構なのに、もったいないなあ。でも整備にはお金がいりますし自治体には金がないし、悩ましいですね。

勝竜寺城

長岡京市でお仕事だったので終わってから勝竜寺城へ

勝竜寺城
勝竜寺城

戦国時代、三好三人衆が拠点にしており足利義昭を奉じて織田信長が上洛した時、勝竜寺城を攻めて落城させ、三好勢を追い払います。織田信長の命で細川藤孝が勝竜寺城を大幅に造り変え、西岡一帯を支配することになります。大河ドラマ「麒麟がくる」では眞島秀和が演じていました。

■古今伝授
細川藤孝は土地の名をとって長岡藤孝と名乗ります。息子の細川忠興と明智光秀の娘であるお玉(細川ガラシャ)が結婚した城でもあります。そうそう古今和歌集の奥義を伝えるため細川藤孝が智仁親王へ古今伝授を行いますが、最初のレッスンはこの勝竜寺城から始まりました。いろいろと中断があり関ヶ原合戦まで続きますが、東軍側として舞鶴の田辺城に籠城した細川藤孝に対し、天皇が古今伝授が途絶えるのは残念と包囲していた西軍と和睦するよう勧告します。まさに芸は身をたすけるですね。

■山崎の合戦
本能寺の変の後、中国大返しで戻ってきた秀吉と激突した光秀が拠点にしたのが勝竜寺城です。山崎の合戦で敗れたので勝竜寺城に立てこもりますが明智軍の士気は低く、また秀吉軍が夜の間も鉄砲を撃ち続けたため逃亡者も多く、光秀も体制を立て直すため城を出て近江へ向かう途中、落ち武者狩りにあって亡くなります。