ファイティング・コンサルタンツ忘年会

ファイティング・コンサルタンツ研究会の忘年会。場所はいつもの黒門市場にある寿恵廣で、昼間からいつものメンバーが集まり、これまた定番のブリシャブです。昨今の値上がりの影響をうけて価格は高めでした。

黒門市場
黒門市場

黒門市場、コロナ禍では誰も歩いていませんでしたが、今は7割ほど戻ってきています。すっかりインバウンドの街になり錦市場と同様に食べ歩きできる店が多いですね。ホタテやカニを店先で買って焼いて食べられます。

そうそう寿恵廣も、ずっと文字だけのお品書きでしたが料理の写真入りに変わっていました。ブリシャブを食べている時も隣は韓国人グループでした。以前からインバウンド客も入ってきていましたが、さすがに無視できなくなったんですかねえ。結局、4時間ぐらい食べたり飲んでいて、最後はお店の人に追い出されました(笑)

貝塚御坊の堀

本願寺は、けっこう引越しをしています。

貝塚御坊の堀
貝塚御坊の堀

本願寺はもともと京都の大谷にありましたが、戦国時代は宗教戦争の時代でもあったので延暦寺の衆徒によって破却されます。越前の吉崎に移り、やがて山科に本願寺を作ります。寺といいながら中身は城で、高い土塁や堀、郭から構成されていました。山科中央公園に今も当時の土塁跡が残っています。堅牢な城でしたが京都の日蓮宗徒と近江の六角定頼の連合軍によって攻められ焼かれます。

こうして移ったのが大坂の石山本願寺。ところが信長と敵対したことで10年にわたる戦いになります。信長は天王寺砦などを構築して攻めますが、なかなか決着しません。最終的には和睦となり本願寺は紀伊の鷺森に移ります。秀吉の時代になって貝塚に移り、これが貝塚御坊(願泉寺)になります。貝塚御坊も寺内町になっていて周りを堀で囲んだ環濠になっています。感田神社に堀跡の一部が残っています。

このあと貝塚から天満に移り、やがて京都へ戻ります。家康の時代になると勢力をそぐために西本願寺と東本願寺に分けられます。

水間鉄道

水間鉄道
水間鉄道

貝塚駅と水間観音駅を結ぶのが大正時代にできた水間鉄道です。水間観音への参詣鉄道でした。バブルの時に不動産事業に乗り出したのですがバブル崩壊で倒産。グルメ杵屋が支援をすることになり、子会社になっています。

2両編成のワンマン運転で1時間に2本の割合で走っています。貝塚駅を出発すると大きく左に急カーブします。もともとカーブの先に海塚駅があり、ここが起点でしたが南海・貝塚駅ができたことで乗り入れするために急カーブになったようです。

貝塚から水間観音駅間は15分で、けっこう短く、単線のため途中の名越駅で行き違いします。千石堀城の最寄り駅になります。関西のローカル線ながらICカードが使えるのがいいですね。

千石堀城

千石堀城の隣の尾根
千石堀城の隣の尾根

高井城と同様に根来衆の出城となっていたのが千石堀城です。高井城とは近木川をはさんだ反対側にあります。千石堀城は周りを囲む堀が二重になっていて、特に東堀と北堀が明瞭に残っています。主郭へ続く虎口は食い違いになっています。千石堀城には根来方が千数百人が立て籠もり、なかなか落城しませんでしたが、筒井順慶軍が放った火矢が城内の火薬に引火し爆発で落城したといわれています。

千石堀城ですが、以前は藪から直登するしかなかったのですが、空堀に入れる遊歩道ができており、難なく郭内に入ることができるようになっています。紛らわしいのは紀泉鉄道計画路線跡に出ている案内版で城とは反対の南の尾根に登るようになっています。千石堀城を攻める付城がないかなと登りましたが展望台があるだけで遺構はなかったです。展望台からは遠くに関空が見えます。

高井城

秀吉と家康が直接、戦った小牧・長久手の戦いですが、関ケ原の合戦と同様に戦場は全国で家康に呼応していた根来衆は岸和田城を攻めます。城主は中村一氏でなんとか根来衆を撃退します。この時に大蛸に乗った僧と数千の蛸に城を救われたという伝説から蛸地蔵駅があります。

高井城
高井城

翌年、天正13(1585)年に秀吉は紀州根来衆征伐に乗り出します。大坂城から10万の軍勢を率いて岸和田城に入場します。根来衆は貝塚の海から山まで近木川沿いに出城を13も築きます。その一つが高井城。現在は公園になっていて案内板だけがあります。3つの郭と3重の堀に囲まれていました。籠城していたのは根来寺の行左京・熊取大納言と近隣の農民約200名でしたが福島正則の軍勢によって攻められ落城しました。

當麻寺

當麻寺
當麻寺

聖徳太子の弟が創建したと伝わる當麻寺。奈良時代から平安時代に建てられた東と西の三重塔(東塔・西塔)がいいですね。當麻と言えば當麻蹶速(たいまのけはや)という人物が古代にいました。互角に力比べできるものはいないと豪語していたため、対戦相手を探していたところ出雲に野見宿禰(のみのすくね)がいました。出雲は島根県という説もありますが桜井から東に入ったところにも出雲があり、こちらの方が合理的です。

當麻蹶速と野見宿禰の相撲による試合が行われ、垂仁天皇が見守りますので天覧試合です。勝ったのは野見宿禰では當麻蹶速は殺されてしまいました。口は禍の元ですねえ。天覧試合が行われたのが山の辺の道沿いにある穴師の相撲神社です。野見宿禰は土師氏の祖となり出雲の畑のなかに塚が作られ近鉄電車から見ることができます。

當麻山口神社

當麻山口神社
當麻山口神社

鳥谷口古墳から坂を下りていくと、すぐ近くに當麻山口神社があります。延喜式神名帳に記載された式内社ですので、古い神社ですね。ひっそりとした境内です。祭神は大山祗命(おおやまつみのかみ)で山の神様です。

山の神様なんで生駒や鴨、都祁などに山口神社があります。法人番号検索サイトで「山口神社」で検索すると全国に39あり、そのうち奈良には15ありますので、半分弱が集中しています。山口神社は奈良を取り囲むように配置され、中心部にも耳成山や畝傍山に配置されています。