薄田兼相(すすきだ かねすけ)は秀吉の馬廻り衆でしたが大坂冬の陣で失態をおかします。剛勇の武将として有名だったので豊臣方の期待も高く、阿波座近くにあった博労ヶ淵砦の守将を命じます。ところが、遊女屋で遊んでいる最中に、砦を徳川方に陥落されてしまいます。
味方からは「橙武者」と軽蔑されてしまいます。意味は橙(だいだい)は大きくて色はいいが、正月の飾りにする以外になんの役にもたたない、です。面白い話なんですが1次資料には出てこないのでガセネタかもしれません。一説には薄田兼相は歌舞伎で有名な豪傑・岩見重太郎とも言われています。
夏の陣では道明寺の戦いに出陣し、誉田八幡宮から出撃します。先に出陣した後藤又兵衛に続いて、戦地に到着する予定でしたが濃霧で進軍が難しく、薄田兼相が到着した時には後藤又兵衛は討ち死にしていました。薄田隊も徳川軍に各個撃破され薄田兼相は討ち死にします。東高野街道からちょっと離れたところにお墓があります。