江戸川乱歩生家

犯人はお前だ!

江戸川乱歩生家

江戸川コナンの決め台詞ですが、江戸川といえば乱歩ですね。東京生まれのイメージが強いのですが生まれは名張です。もっとも2歳の時に亀山に移転し、翌年には名古屋に引越したので本人は覚えていないでしょう。生家は残っておらず初瀬街道から少し入ったところに公園があって案内板が建てられています。ただ三重とは縁が深く、鳥羽で働き、結婚もしました。この頃の経験から「パノラマ島奇談」などが生まれています。2023年は処女作「二銭銅貨」が発表されて100年だそうです。

戦後は日本探偵作家クラブを作ったり探偵雑誌などを創刊して若手を支援する活動が中心になります。ただ子供向けに探偵小説を書いており、怪人二十面相シリーズなどのヒットとなっていきます。以前、名張の木屋正酒造が「幻影城」という地酒を出していたんですが、まだ売っているのかなあ。

名張城

名張

名張駅の西出口を出ると名張中学校、名張小学校、名張藤堂家邸跡あたりが高台になっています。名張川が削った河岸段丘になっていて高さはビルの3階ぐらいですね。この場所にあったのが名張城です。江戸時代になってから名張城跡に名張陣屋が作られ陣屋の一部が名張藤堂家邸として残っています。名張城の遺構は残念ながら地下の石垣だけです。

■筒井定次
伊賀といえば藤堂高虎が有名ですが、信長による伊賀攻め(天正伊賀の乱)の後は乱の元をつくった織田信雄が支配します。本能寺の変後、秀吉は脇坂安治(賤ケ岳七本槍の一人)を伊賀守護にしますが、わずが1年で筒井定次(筒井順慶の養子)を大和から伊賀に国替えさせます。筒井定次は伊賀上野城を築城し、名張は与力の松倉勝重に名張城を築かせて担当させます。

石田三成の家来として有名な島左近はもともとは筒井の家臣でしたが、伊賀時代に筒井家を離れることになります。天正伊賀の乱で伊賀はせん滅されたので、治めるには難しい土地でしたが秀吉は筒井定次を評価していたのでしょう。「武士の家計簿」などで著名な磯田道史さんの先祖は岡山の侍で天正伊賀の乱にも参加しており、乱の後に自宅の納屋で不審死したそうで伊賀忍者の仕業とおしゃっていました。

油日神社

油日神社は甲賀の総社とも呼ばれています。甲賀に突出した勢力はなく、甲賀五十三家による自治組織でした。堺の会合衆のようなものですね。掟を定め、合議制でした。基本は多数決で、決まらない場合はくクジで決めます。甲賀衆の談合場所だったのが油日神社で、甲賀の総社と呼ばれています。

楼門の左右には廻廊のびていて、時代劇を撮影するには絶好の場所です。というころでドラマや映画のロケ地としても使われています。「るろうに剣心」、「わろてんか」、「必殺仕事人」、「信長協奏曲」などなど。

鹿深の道

鹿深の道

油日城や滝川城は県道131号にありますが、県道には「鹿深の道」という名前がつけられています。って道の途中にあった看板を見て知りました。調べてみると東海道って、いろいろと変遷があったんですね。

江戸時代の東海道は、近江の土山宿から鈴鹿峠を超えて伊勢の関宿に入りますが、古くは甲賀から柘植へ出て、加太越えをして関に入ったようです。難所の鈴鹿峠を避けたのでしょう。もっと古い時代の東海道は飛鳥から名張、伊賀、柘植を通って東国へ向かいました。

■古代の東海道 倉歴(くらふ)道
天智天皇が大津京を作った時に新しく道が整備され、草津で東山道と分岐し、甲賀を通って柘植へ入り、柘植から以前の飛鳥からの道に合流しました。柘植の北側に杣川が流れ、この川沿いのルートが東海道です。途中で倉歴を超えていくので倉歴(くらふ)道という名前だったようです。これが東海道の旧名になります。

大友皇子と大海人皇子が争った壬申の乱では大海人皇子が軍勢を派遣して倉歴道を守らせました。これに対して大友皇子側も軍勢を送り鹿深山を越え、倉歴で戦いになったようで倉部川沿いに古戦場跡があります。倉歴の地名は残っておらず川の名前で残っています。土山と甲賀にはバイパスがあったようで、それが鹿深道になります。

■鹿深(かふか)から甲賀に
日本書紀の敏達天皇13年(584年)に鹿深臣が百済から弥勒の石像を持ち帰ったと書かれています。敏達天皇といえば物部守屋と蘇我馬子が争っていた時の大王で、争いの背景は廃仏・崇仏よりも朝鮮外交の対立といわれています。この鹿深臣の本貫だったのか、どうか分かりませんが、この鹿深(かふか)が「かうか」「こうか」と変化して甲賀(こうか)となったようです。

櫟野大原城

櫟野大原城

甲賀・櫟野(いちの)に築かれた大原氏の城です。大原氏は甲賀五十三家の一つになります。独立した丘陵に築かれた城で、よく整備されていました。登山口に案内があり登っていくと郭と郭の間の堀切を進むことになります。当時は搦手として、この道が使われていたのかもしれません。郭から攻撃されたらひとたまりもありません。道は途中で90度に曲がり郭の虎口につながっています。

櫟野大原城は細長い丘陵の稜線上に、直線的に連立し3つの曲輪が連なっています。真ん中の郭が主郭のようで、高い土塁で囲まれています。もう一つの郭は土塁もありますが、土塁がとぎれていることもあり、こちらが大手道だったかもしれません。郭の中もよく整備されていて登りやすい山城です。

滝川城

滝川城

織田信長・家臣で中途採用から駆け上がった武将といえば秀吉や光秀が有名ですが、もう一人います。それが滝川一益です。伊勢攻めや武田攻めなどで功績をあげ、織田信長の信任も厚く、最終的に関東をまかされて関東管領のような地位につきます。ところが本能寺の変が起き、まだ戦後処理の真っ最中だった関東では騒乱となり、争いに負けて領地だった伊勢へ戻ります。最終的には秀吉に仕えることになりますが、運が悪かったですね。

滝川一益は甲賀出身といわれていて、滝川氏一族の居城だったのが滝川城です。櫟野川沿いの小山に築かれている城で尾根の先端部に築かれています。案内版があり、瀧川一益は、甲賀大原荘に生まれて16歳まで在住したと書かれていますが、本当かどうか分かりません。案内版から登ると土塁があり、南側には大きな堀切があります。

油日城

油日城

杣川と支流に囲まれた丘陵に築かれたのが油日城です。甲賀上野城と同様に上野氏一族の城と考えられています。近くに油日館跡という屋敷跡があり、油日城は有事の際の詰城と考えられています。ここは案内も何もないので事前に調べて山城へ。墓地を抜けて杣川の小さな橋を渡ったところから城跡に入れるとありましたが、行ってみたら藪の中。こりゃ、とても無理だなと鹿深の道(県道131号)へ戻ると遠くに土塁の壁が見えます。

藪よりはましだろうと林の中を進んで土塁の登れそうなところを探して直登です。主郭は方形で高い土塁が巡っています。一部は高くなっていて櫓台のようです。北東部に虎口があり出ると腰郭がありました。腰郭の虎口を抜けていくと藪になっていて、藪をかき分けていくと最初に断念した場所へ出ました。ここから入るのは冬でないと無理そうです。兵站地のような場所も城周りにありました。

甲賀上野城

甲賀上野城

伊賀、甲賀といえば忍者が有名で、忍者ハットリくんの敵役だったケムマキくんが甲賀忍者です。甲賀忍者が記録に初めて登場するのが鈎の陣です。第9代将軍、足利義尚が六角討伐の軍勢を率いて京を出発し、近江の鈎に陣をかまえます。この陣に夜襲をかけたのが甲賀衆で、神出鬼没の動きに甲賀忍者と呼ばれるようになります。

■上野氏
六角氏に味方したのが甲賀の地侍五十三家で甲賀五十三家と呼ばれます。この甲賀衆の一人が上野氏で、この上野氏の居城が甲賀上野城です。山城では珍しく県道4号線に「上野城」という道標がありました。道標に従って山に入り、山道に従って登っていくと城跡につきます。ただ虎口などはけっこう技巧的になっていて戦国時代に改修されたようです。主郭は方形で高い土塁が巡っています。よく遺構が保存されています。

溝谷砦

溝谷砦

東野山城の出城の一つ。以前、東野山城に登った帰りに砦を探したことがあります。あたりをつけて崖を登ったところに堀切らしいものをを見つけ、そこから続いている尾根をずっと登って城の痕跡を探したのですが見つからず、今回はそのリベンジです。

事前にいろいろと情報を調べると堀切らしきものと思ったのが、やっぱり堀切でした。砦があるのは堀切の反対側で尾根の張り出しの先端部に築かれた砦跡でした。ウーン、尾根の先端とは気が付かなかったなあ。尾根筋を堀切で遮断し、三段の削平地を連ねた構造の小さな郭でした。ただ林道で削られた部分があるので、もう少し大きかったかもしれません。

菖蒲谷砦

菖蒲谷砦

天正11年(1583年)、柴田勝家と秀吉が戦った賎ヶ岳合戦は攻城戦でした。秀吉は最前線にあった天神山砦と茶臼山砦を放棄して、前線を下げたため堀秀政が守る東野山城が最前線になります。東野山城の出城として築かれたのが菖蒲谷砦です。菖蒲谷砦から堂木山砦との間には防塁を作って北国街道を封鎖しました。

■菖蒲谷砦
菖蒲谷砦は2つの尾根上に築かれ頂上に主郭があります。北側の尾根の裾野から城を目指しましたが、かなりの急斜面になっています。ヒーハー言いながら何とか木々の間の斜面を登り、ようやく尾根筋へ出ると郭跡がありました。ここが最前線で見張り台だったのでしょう。尾根筋がまた斜面になっていて、ひたすら登っていくと主郭に到達しました。土塁や堀切が明瞭に残っていました。帯郭や虎口もあります。

もう一つの尾根筋を下ろうと思ったら違った尾根を下ってしまい、途中で切れ落ちていました。こりゃダメだと主郭まで戻り、尾根を下っていくと、こちらは見張り台のような先にも削平地がありました。当時のものかは不明ですが、虎口もあるので駐屯地だったかもしれません。さらに下って、ようやく林道に出ました。