明治のドタバタ騒ぎ、次はカレンダー業者の話です。
江戸時代は太陰暦が使われていました。太陰暦は農作業に便利で、暦には二十四節気が書かれていました。二十四節気とは1年を24等分した季節の変わり目です。今でも寒の入り、節分、立春、冬至など、よく使われています。また暦の日には歴注が書かれていました。歴注というのは日時・方位などの吉凶やその日の運勢などです。方角が悪いと方違え(かたたがえ)と言って目的地とは別の方角に行ってから方向を変えて目的地に向かいました。この歴注を見るために暦を買っていました。
■苦肉の策で六曜を導入
暦は専門業者が作成し、販売していました。ところが明治になると西洋諸国にあわせて太陽暦の導入がはかられます。この時にお上が、とんでもないことを言いだします。今後は暦注みたいな迷信は書いちゃだめというお達しです。さあ困ったのが暦の作成業者。新暦(太陽暦)で暦を作っても、暦注に値打ちがあるのに、日だけしか書かれていない暦なんか、誰も買いません。このままでは倒産です。
苦肉の策で、”これなら歴注じゃないでしょう”と暦に入れたのが六曜です。お上も倒産まで追い込むのはと考えたようで黙認となりました。六曜というのは先勝、友引、先負、仏滅、大安、赤口で、単なる順番でした。旧暦の毎月1日にそれぞれの六曜を割り振るのがルールで例えば1月1日と7月1日は先勝からスタートします。
ここからカレンダー業者の奮闘が始まります。日だけでは売れませんので日の横に六曜を目立たせて記載します。勝手に漢字の意味を解釈して、いつしか”結婚式はやっぱり大安”、”友引の葬式はダメ”と言われるようになり、現在まで伝わることになります。