淡河城西付城
淡河城の南南西に築かれた付城です。天正7(1549)年に織田信長が越前衆と丹羽長秀に淡河城を攻める付城を構築するように命じましたが実際に付城を造ったのは秀吉のようです。三木合戦では淡河城の城主である淡河弾正は三木城の別所長治に味方し、淡河城は毛利方の花隈から三木城への兵糧の中継基地になっていました。
淡河城西付城の土塁などはずいぶん低くなっていますが、3つの郭から構成されており土橋なども残っていました。秀吉は3つほどの付城を造り、淡河城は落ち、三木城への補給路の一つが閉ざされることになります。三木の干殺しと呼ばれる三木城の周りに、たくさんの付城が造られて国史跡になっていますが。三田城にしろ淡河城にしろ付城で囲んで戦うというのが織田信長の常道でした。