長篠城の近くに馬場信房の墓があり、信房の首を埋めたと伝えられています。馬場信房は武田信虎、信玄、勝頼の三代に渡り仕えた重臣で、三方ヶ原の戦いにも参加し、徳川軍を浜松城下まで追い詰めました。
長篠の合戦では鉄砲の弾という物量戦と武田軍が攻めつかれたところへ信長が温存していた兵力をぶつけたため武田軍は崩れます。馬場信房は撤退する武田軍の殿隊をつとめ、武田勝頼が戦場を脱出したのを確認し、そのまま引き返して敵方に突入し戦死します。62歳でした。
武田家の武将の討死は撤退時が多く、勝頼を逃がすために身代わりになったようです。勝頼は決して凡庸な2代目ではありませんでした。真田信綱・昌輝兄弟も長篠の戦いで討死にしたため、真田昌幸が家督を継ぐことになり真田丸につながっていきます。長篠の合戦は武田家に致命的な影響は与えませんでした。
■武田家滅亡の引き金
高天神城を家康が攻め、武田勝頼は高天神城の後詰にいけず、落城したことで勝頼の信頼が落ちます。信長は勝頼と和睦交渉しており、交渉を長引かせて救援にいけないよう時間稼ぎしていました。高天神城が落ちてから勝頼が見捨てたと宣伝する心理戦でした。
また上杉謙信の跡目争いで勝頼が上杉景勝に加担したことが致命傷になりました。上杉景虎を敵に回すことは景虎の兄である北条氏政を敵にしてしまい、これが武田家滅亡へつながっていきます。