秀吉と柴田勝家が激突した賤ヶ岳の戦いで活躍した7本槍の一人が片桐且元。関ケ原の戦い後は大和龍田村に2万8千石の大名として陣屋を構えていました。大坂方で家康と交渉をしていましたが方広寺の鐘名事件が起きます。
■方広寺 鐘名事件
「国家安康 君臣豊楽」という文字が家康を呪うものだという言いがかりです。鐘を作ったのは津の鋳物師辻家で、銘文を書いたのは京都南禅寺の清韓長老です。
清韓長老と辻家は捕まりますが、家康が信頼していた藤堂高虎が津にひきとったようで清韓長老のお墓は津の上宮寺にあります。清韓長老が津に来たのは出身が鈴鹿だったことも関係しているのでしょう。辻家は息子が専修寺、津四天王寺、松阪の岡寺の鐘などを作っています。
■大坂の陣
片桐且元は釈明に駿府へ向かいますが家康は会わず、淀を江戸へ人質に出すなどの条件を示されます。ところが同時期に駿府入りした大蔵卿局は家康とすんなり面会となり、鐘銘のことも話題とならずに丁寧に扱われて帰ってきます。全然、違う情報が届いた大坂方は片桐且元を疑い、これがために大坂城を退去し、大坂の陣へと突入していきます。大坂の陣のすぐ後に亡くなっています。
豊臣が滅んでも方広寺の鐘名はそのままだったので、やっぱり言いがかりだったんでしょうね。
■大和龍田城
片桐且元の嫡男から4代続きましたが、跡継ぎがいないために廃城となりました。且元の弟の子孫は、龍田の隣りにある大和小泉をおさめ明治まで続きました。大和龍田城の城跡はなく住宅地になっていますが、少し高台になっていて郭があったことが分かります。平太池あたりに堀の雰囲気が残っています。