古墳が大学の中に!

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    名古屋市新事業支援センターがある吹上ホールから少し歩くと名古屋工業大学があります。 

    大学の校舎が立ち並んでいる真ん中に通常ですと中庭があるんですが、名古屋工業大学には古墳があります。直径36メートル、高さ8メートルの円墳ですが、もともとは前方後円墳だったのが方墳が失われてしまったようです。 

    大学内には時計台などの目印になるランドマークがあるんですが、古墳がランドマークの大学は名古屋工業大学ぐらいでしょうね。古墳を残しながら、うまく校舎配置したものです。 

    一本松古墳と名付けられていますが大学のあるのは御器所台地という高地になり、古代は眺めがよかったでしょうね。近くの鶴舞公園横には東海地方最大の円墳・八幡山古墳があり、吹上ホールのあったあたりにも2つの古墳がありましたが、前身の名古屋刑務所を作る時に壊してしまったようです。古墳の霊を追悼する吹上観音しか残っていません。 

    大学には古墳に登ると留年する(単位を落とす)という伝説があるそうです。

名古屋城がやられたら八事で迎え撃つ

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名古屋の中心部を斜めに走るのが飯田街道。 
主要道路を斜めに横切るので都会では珍しい五道の辻がいたる所にできています。これが名古屋で道に迷う遠因にもなっています。飯高街道は飯田ろ結ぶ目的があるのですが別名、駿河街道、岡崎街道とも言われ、徳川家康の命により軍事・産業用道路として整備されました。 
まっすぐ進むと岡崎に行きますので、いろいろと考えられていて、まずは飯田街道沿いの八事(やごと)。近くには名城大学があります。地下鉄の八事がありますが、ここが名古屋から一番近い峠になります。興正寺など寺が整備されていますが、万が一西国から攻められて名古屋城が抜かれた時に迎撃する拠点でした。 
尾張藩の重臣を有事の際に陣を構えることがきまっていたそうで興正寺には土塁が残っています。

秀吉のお母さんの家

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    豊臣秀吉は名古屋駅から少しいった中村で生まれました。現在は中村公園になっていて秀吉清正記念館があります。 

    秀吉のお母さんは仲(なか)という名前ですが、秀吉が出世しちゃいましたので大政所と呼ばれています。織田家の雑兵だった言われる木下弥右衛門のもとに嫁ぎ、秀吉が生まれます。夫が死んだあとは竹阿弥と再婚し、堺屋太一が「ある補佐役の生涯」として描いた豊臣秀長が生まれます。 

    竹阿弥とソリがあわなかった秀吉は15歳の時に家出。秀吉が生まれた尾張の織田家といえば、まだまだ中小企業で、武士を目指すのなら、大企業であった今川家への仕官が王道。浜松では、今川家の幕下であった松下加兵衛に運良く仕えることができました。 

    紆余曲折があって織田信長に仕えることになりますが、秀吉は桶狭間の合戦以来、零落していたかつての主君、松下加兵衛を遠江久能城1万6千石の大名にしています。最初の武家奉公を教えてくれた、その恩義に報いています。 

    さて秀吉のお母さんの大政所ですが、出身地は御器所だと言われています。住宅地の真ん中に小さな公園があり御所屋敷跡とありますが、まあ伝説にちかいでしょうね。

21歳でなくなった北畠家の貴公子

kitabatake201309.jpg東天下茶屋の安倍晴明神社から少し行ったところにあるのが北畠公園という小さな公園。 

北畠公園の中に北畠顕家(きたばたけあきいえ)のお墓があります。北畠顕家は「神皇正統記」で有名な北畠親房の長男。16歳で陸奥守に任ぜられ、鎮守府将軍として奥州にいたのですが足利尊氏が後醍醐天皇と敵対すると上洛して新田義貞・楠木正成とともに九州へ追い落としました。この後、また奥州に赴任しています。 

ところが勢いをも盛り返した足利尊氏が九州から攻め上ってきました。そこで奥州より再度上洛。各地で転戦し、岐阜の大垣では足利方を大いに破りましたが、高師直軍との阿倍野での合戦後、堺の石津で戦死し東天下茶屋に葬られたそうです。 

北畠親房の三男である北畠顕能が伊勢国司となったことから、伊勢の北畠氏が始まります。長い間、南北朝に分かれて争っていましたが和解し、双方から順番に天皇になるという約束ができました。 

ところが足利幕府が約束を反故にしてしまいます。そこで伊勢国司北畠家の第3代当主だった北畠 満雅(きたばたけ みつまさ)が挙兵し、幕府軍とぶつかります。北畠満雅は津市の南にある雲出川において幕府軍を大敗させますが、その後、津の中心街にある「岩田川での戦い」で敗れ、北畠満雅は戦死してしまいます。こちらは津の阿漕駅の近くに碑だけ建っていてお墓はありません。 

あべのにある安倍晴明神社

abeno201309.jpg午前中は専門家派遣で大阪の企業さんへ。天王寺駅から阪堺電車(チンチン電車) に乗って3駅目の東天下茶屋駅へ。 企業さんへ寄った後に神社へ行ってきました。

駅のすぐ近くを熊野街道が通っています。熊野街道というのは大阪から熊野本宮へお参りする参道道で途中にマイルストーンとなる王子社があります。この熊野街道から近鉄百貨店あべのハルカスが見えますが、このあたりも「あべの」と呼ばれています。 

「あべの」の知名の由来は諸説あるんですが、有名なのが古代にこの地を領有していた豪族・阿倍氏の姓からとする説です。 

安倍晴明神社と言うと京都が有名なのですが、大阪は生まれた所に神社があります。安倍晴明は葛の葉という狐の子として有名。安倍晴明のお父さんが狩人に追われていた白狐を助けますが、この白狐が葛の葉で、やがて恋仲となり生まれたのが安倍晴明。ただ正体がばれると「恋しくば尋ね来て見よ 和泉なる信太の森のうらみ葛の葉」という一首を残して信太の森へと帰っていきます。 

やがて成長した清明は陰陽師となります。神社には狐の像もありますし、やっぱりシンボルマークは五芒星ですね。

旧国鉄 伊勢鉄道開業40周年

isetetudou201308.jpg国鉄時代に名古屋から津へ行こうとすれば、関西本線に乗って三重県内陸部にある亀山駅へ向かいます。ここで紀勢本線に乗りかえて津に行きますが、三重県を三角形のように走ればならず大回り。必然的に海岸を走る近鉄に乗ることになります。 

そこで四日市と津を結ぶバイパス線として40年前(1973年)9月1日にできたのが伊勢線。名古屋へ向かう特急が伊勢線経由になりましたので早くなり便利になりました。ところが国鉄の分割・民営化に伴い第三セクターに。今ではレールバスがトコトコ走る路線になっています。 

経営は順調でJRの快速みえや南紀特急がこの伊勢線を借りて走っているため賃貸収入で黒字経営。ただ快速みえが我が物顔で走っているのを、本家であるレールバスが駅で通過を待ち「軒を貸して母屋を取られる」ということになっています。(笑)

御器所西城(尾陽神社)

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    吹上にある名古屋市新事業支援センターから白金にあるNavi白金に出かけてきました。Navi白金は名古屋市のビジネスインキュベータで、ベンチャー企業が入居しています。 

    JRで行くには中途半端なので行き帰りとも歩いていきました。白金と吹上の途中にあるのが御器所にある尾陽神社。御器所(ごきそ)は熱田神宮の神領で、神事に用る土器を調達したところから御器所と名付けられたようです。地下鉄御器所駅は少し離れたところで、最寄りの駅は荒畑駅になります。 

    御器所の尾陽神社は少し高台になっていて、遺構は何も残っていませんが御器所西城跡と。佐久間一族が作った平山城で、佐久間盛次の代になると織田信長に仕えました。 

    盛次の子が佐久間盛政で、勇猛さから鬼玄蕃と呼ばれました。柴田勝家の甥でもあり、賤ヶ岳の戦いでは盛政は中川清秀の砦を急襲し、勝利をおさめますが前田利家の敵前逃亡もあり、秀吉に敗れます。廃城となりましたが明治になってから神社が建立されました。

羽の生えたトースターが飛ぶ

flying_toaster201308.jpg■スクリーンセーバで画面の焼きつきを防ぐ
昔、画面がブラウン管だった時代、同じ画面をずっと表示していると焼きつきが起き、画面の跡が残ってしまいました。防止するために登場したのがスクリーンセーバで、焼きつきが起きないよう画面を常時動かしました。

有名なのがアフターダーク。アフターダークと言っても村上春樹の小説タイトルではありません。バークレー・システムズ社から発売されたスクリーンセーバ。

1990年代初頭、マッキントッシュ用のスクリーンセーバと言えば花火のようなシンプルなものが中心でしたが、そこに登場したのがアフターダークです。アフターダークにはいくつかのスクリーンセーバが入っていましたが、その中の一つが羽の生えたトースタ(フライング・トースタ)。

■羽の生えたトースタが画面の中を飛ぶ
コンピュータを使わずにしばらく放置しておくとスクリーンセーバが起動され、やがてトースタと焼けたパンがマックの画面いっぱいに飛びはじめます。なかなかシュールな画面でした。このシュールさが話題となりアフターダークはよく売れ、後にウィンドウズ版も登場します。アフターダークはモジュールと呼ばれるファイルを入れ替えることでスクリーンセーバを切り替えることができました。

中には猫のボリスが蝶々を追い掛けたり、闇夜に夜行性の動物の目が次々と画面に浮かぶスクリーンセーバがありました。画面からは狼の遠吠えや虫の音が聞こえ、深夜、残業している時にスクリーンセーバが動くとまるでジャングルで仕事をしているような印象でした。その後、ジョーク的なモジュールが次々と開発され、中には羽の生えたトイレや懐かしいみかん星人もありました。

現在は液晶モニターが中心となり、スクリーンセーバの用途も様変わり。インテリア、癒しといった用途で使われています。

この懐かしいフラィング・トースターの復刻版が登場しました。 
http://www.masswerk.at/flyer/flyer.html 

ロードス書房の閉店

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    ひょうご産業活性化センターが入っている三宮のビル・サンパルは古書街「サンパル古書のまち」で有名でした。昔は8軒の古書店があって、三宮に行くとサンパルに寄っていたんですが、だんだんと減少。 

    2001年には、伊勢の古書店「万陽書房」が大型店をオープン。広くて品揃えがよかったのですが、2010年頃に閉店。閉店セールにはしっかりと行きました。 

    サンパル2階で営業していたロードス書房がいよいよ8月末に閉店することとなり、これでサンパルから古書店がなくなります。ひょうご産業活性化センターには毎週木曜日に行っているんですがロードス書房の休みも木曜日。シャッターが降りた古書店をいつも見ておりました。 

    今日は珍しく金曜にひょうご産業活性化センターでしたので、昼休みに閉店セールへ行ってきました。店内の本がすべて半額なので、買い込んできましたが混雑してましたねえ。でも古書店がなくなるのは寂しいなあ。神戸新聞によると店主の体調が優れず、「棚を整理する体力が残るうちに」と幕を下ろすことになったそうです。ネット販売と目録販売で店は続けるともありました。

創業時の自己資金は貯め続けることが大切

日本政策金融公庫
家でも仕事ができるサービス業で創業する場合はあまり経費がかかりませんが、サービス業でも教室を持つような場合、敷金、家賃、内装費、備品(机、椅子)、看板代などがかかってきます。これが飲食店となるとさらに厨房、冷蔵庫、食材の仕入れなどの費用がかかります。
自己資金だけでは無理なので外部から資金調達を考えますが、よく使われるのが日本政策金融公庫の新創業融資。上限1,500万円で無担保、無保証で借りられます。ただし自己資金ゼロでは借りることができず3分の1以上の自己資金が必要になります。
例えば自己資金が300万円あれば、600万円の融資が可能で900万円の事業を行うことができます。もちろん、しっかりしたビジネスプランを作らないと融資はしてくれません。ビジネスプランのブラッシュアップなどは、お近くの支援機関などが相談にのってくれます。
問題はこの自己資金。本人の貯金が50万円で、知り合いが250万円を応援してくれるというのなら知り合いからの譲渡するという証明が必要です。証明がないと単なる”見せ金”ではないかと審査で思われ、自己資金扱いにならず、この場合の自己資金は50万円です。
この50万円もいきなり通帳に50万円と振込せず、給料が出たらそこから毎月5万円を通帳に振り込んで少しずつ貯めたという履歴がないと信用されません。創業時に融資が必要と思ったら、計画をたてて自己資金を事前ずっと貯めておかなければなりません。支援センターで創業相談にのっているんですが、いきなり通帳に300万円を記載したら、これが自己資金になると思っている人が実際に多いですね。