當麻寺

當麻寺
當麻寺

聖徳太子の弟が創建したと伝わる當麻寺。奈良時代から平安時代に建てられた東と西の三重塔(東塔・西塔)がいいですね。當麻と言えば當麻蹶速(たいまのけはや)という人物が古代にいました。互角に力比べできるものはいないと豪語していたため、対戦相手を探していたところ出雲に野見宿禰(のみのすくね)がいました。出雲は島根県という説もありますが桜井から東に入ったところにも出雲があり、こちらの方が合理的です。

當麻蹶速と野見宿禰の相撲による試合が行われ、垂仁天皇が見守りますので天覧試合です。勝ったのは野見宿禰では當麻蹶速は殺されてしまいました。口は禍の元ですねえ。天覧試合が行われたのが山の辺の道沿いにある穴師の相撲神社です。野見宿禰は土師氏の祖となり出雲の畑のなかに塚が作られ近鉄電車から見ることができます。

二上山城(雄岳)

最近、奥方は山登りにはまっていますが、こちとら山登りには何の興味もなく、ついていくことはありません。

大津皇子墓
大津皇子墓

先日、二上山に登るということで、ついていきましたが目的は二上山城です(笑)。途中、二上山の麓に岡城があるんですが、岡城に入るには切岸を直登しないといけないので、さすがに文句が出るだろうとあきらめ、ゼイゼイ言いながら山登りを続けます。ようやく雄岳頂上の大津皇子墓跡へ。ここが郭の一つです。墓跡は横に回り込めますので高い切岸を楽しめることができます。

雄岳にある山城は神社のある頂上部から北東と南西の尾根沿いに郭が続きます。

新宮神社 表門

甲賀にあるのが新宮神社。神社の門は1485年のものだそうです。ちょうど室町時代で、都の徳政一揆、山城国一揆、加賀の一向一揆などが起きた騒然とした時代です。この後、北条早雲や斎藤道三が活躍する戦国時代になります。

新宮神社 表門
新宮神社 表門

門は茅葺の八脚門で国の重要文化財になっています。甲賀地域には甲賀郡中惣と呼ばれる大きな連合組織がありました。また各地域では惣寄合がもたれ、合議制によって様々な決め事や問題解決にあたります。この新宮神社も話し合いがもたれた舞台の一つで当時の記録にも名前が出てきます。嵐の大野智が主演を務めた映画「忍びの国」でも神社での談合シーンが出てきましたが、あちらは伊賀なんで敢國神社ですが、あんな雰囲気だったのでしょう。

正倉院展へ

正倉院展へ

奈良国立博物館
奈良国立博物館

コロナ禍で予約購買制になり、面倒だと足が遠のいていましたが、久しぶりにチケットを買って行ってきました。以前は閉館90分前から入れるオータムレイトチケットがありましたが、平日の最終は16:00入場になっています。これをポチッと押して購入。夕方に奈良へ出かけオータムレイトチケットと同じ16:30頃に奈良国立博物館に到着。平日は18時まで開館で入場締切は17時になっています。

16:30に行くと入口には誰も並んでいません。16時から入場できるチケットなので皆さん16時に入場した模様です。ということで混雑なしにゆっくり見てきました。毎回、楽しみにしていた写経生の欠勤願いなんかはなく、その代わり予算書などがありました。興味深かったのが天蓋の残決です。飛鳥時代の布を流用したようで、編み方が全然違う構成になっていました。

旧東海道

街道をゆく 旧東海道

東海道
東海道

東海道は古代からありましたが徳川家康が五街道として整備しました。京都の三条大橋から江戸の日本橋を結ぶ街道です。近江には大津、草津、石部、水口、土山宿がおかれました。草津で中山道と分岐して伊勢との境である鈴鹿峠を目指します。鈴鹿峠を超えたところが関宿で古代に関所が置かれ、ここから東が関東でした。

石部宿あたりの東海道は古い町並みが残り、なかなか風情があります。

榎木大明神

空堀商店街近くにあるのが榎木大明神という小さな神社。

榎木大明神
榎木大明神

榎木大明神の向こうは道が落ち込んでいますが長堀通りが走っています。長堀という名前の通り、大坂城の南総構堀がありました。もう少し東にある南総構堀のさらに南側にあったのが真田丸で大坂城から切り離された出城でした。

万城目学氏の小説「プリンセス・トヨトミ」は、この小さな神社から始まります。風情がある神社で、説明をみると楠正成が植えた木だとあります。近くを熊野街道が通っています。

鴨川デルタ

賀茂川と高野川が合流するのが鴨川デルタ。ここから鴨川になって三条や四条に流れていきます。

鴨川デルタ
鴨川デルタ

森見登美彦の四畳半神話大系など色々な作品やドラマに登場する三角州です。明治の頃は三角州はもっと小さくって出町橋も河合橋も一本の長い橋だった時代でした。国立国会図書館に応仁元年から信長が活躍した天正期までの約120年間の京都の状況を考証し、作成された中昔京師地図があります。これをみると2つの川が合流していますが三角州はとっても小さいですね。
相国寺から南に流れる川があり東に90度曲がって、また南に90度曲がって流れているのは東京極川です。現在も今出川という地名で残っています。

東六甲砕石場

■太閤さんの城
大坂の陣で豊臣を滅ぼした徳川は秀吉が築いた大坂城を徹底的に破壊しようとします。石垣ごと土に埋めて、新たに石垣を造り直します。ところが宣伝としてはうまくいってなかったようで、昭和の初めまで大阪人は城の土台を『太閤さん』が造ったものと信じ込んでいました。

東六甲砕石場
東六甲砕石場

昭和34年に秀吉時代の石垣が地中から発見され、現存している石垣は徳川時代にものと分かりました。この時に大阪市からしばらく発表しないように要請があったそうで、理由は石垣が徳川製と分かると大阪市民がショックで倒れるからということでした。

■東六甲採石場
新しい大坂城を造るには大量の石垣が必要です。小豆島や石切にも砕石場がありますが、甲山近くにもあります。甲山森林公園に東六甲採石場があり、古墳時代から石切場だったようで石丁場の跡や、現地に放置された石材(残石)が数多く残っています。

仏性ケ原の頂上付近の斜面にも矢穴が残された石がたくさんありました。近くに仁川が流れていますが、高い山から石を降ろすのは大変だったでしょうね。仁川からは武庫川を通じて大坂城へ運んだのでしょう。

石切神社の夏祭り

お百度参りで有名な石切神社の夏祭り。正式には石切劔箭神社・夏季大祭で金、土、日と開催されています。散歩ついでにのぞいてきました。境内に太鼓台が入るのでお百度参りも中止になっています。今年は屋台も出ていました。

石切神社の夏祭り
石切神社の夏祭り

■饒速日尊とは
石切神社の祭神は饒速日尊(にぎはやひのみこと)と可美真手命(うましまでのみこと:ニギハヤヒの子供)ですので物部の神様です。めちゃくちゃ古い神社で文献では貞観7年(865年)に登場しています。菅原道真が遣唐使を白紙(894年)に戻したちょっと前ですね。

■本当の祭神は長髄彦?
石切神社は本当は長髄彦を祀っているのではという説があります。石切(i-si-kiri)はアイヌ語で「その・長い・彼の足」の意味になるそうで、ほんまですかいなあ。饒速日尊は神武天皇よりも先に大和へ天下った天神で、長髄彦の妹と結婚し、生まれたのが可美真手命で物部氏の先祖になります。饒速日尊は熊野から大和に入った神武天皇に協力し長髄彦を裏切って殺すことになります。

長髄彦は最初の朝敵となるためか正式に祭神にしている神社はなく、富雄にある添御縣坐神社の祭神・武乳速命がそうではないかと言われています。

120年前の亀の瀬トンネル

昭和6年に起きた亀の瀬の地すべりによって道路や線路は寸断されます。亀の瀬を通っていたのは国鉄・関西本線で山間の狭い場所ですから亀ノ瀬トンネル(隧道)が通っていました。もともと造られたのは大阪鉄道時代の明治25年(1892年)です。このトンネルも含めて知すべりで全て埋まってしまいます。

亀の瀬トンネル
亀の瀬トンネル

平成20年から始まった地すべり対策工事の一貫で排水トンネル工事の掘削推進中に、レンガ構造のトンネル下り線(大阪方面行き)を発見。ほぼ当時の原形をとどめた状態でした。煉瓦積ですが、側壁は強度が高いイギリス積みになっていて上部のアーチは長手積みになっています。

亀の瀬では地すべり見学会が行われていますが、120年前のトンネルを見ることができます。