大仏鉄道2

2004年、知的生産の技術研究会・関西で大仏鉄道研究会に「なぜ大仏鉄道は消えたか?」というタイトルでセミナーをしてもらって以来、気になっていたので出かけてきました。加茂駅から大仏駅までを踏破するコースを歩いてきました。加茂駅から赤橋あたりまでは廃線跡が小道で残っていたり、レンガ造りの橋梁が残っていたり牧歌的な雰囲気です。ところが奈良に近づくと道路沿いを廃線跡をたどることになります。

大仏鉄道
大仏鉄道

大仏鉄道は山と谷が入り込んだコースで、奈良の手間に黒髪山越えという急勾配があり、当時の蒸気機関車には最大の難所でした。黒髪山から降りた所に大仏駅があったため、蒸気機関車にブレーキをかけて駅に止めるのが大変だったそうです。当時、真っ赤な蒸気機関車が走っていたそうで、大仏鉄道研究会でも探しているのですが、まだ写真が見つかっていません。

駅前に人力車がとまっていた大仏駅跡は大仏鉄道記念公園になっています。ここから佐保川を超えて奈良駅まで接続されました。

大仏鉄道

大仏鉄道って、ご存じですか?

大仏鉄道
大仏鉄道

100年以上前の明治時代の9年間、加茂駅から大仏駅まで、後に延伸して奈良駅まで走っていた路線です。目的は名古屋方面から奈良の大仏への観光客の誘致を図るためで大成功をおさめます。大仏鉄道が開通した朝日新聞のトップ記事は遼東半島の三国干渉という時代です。

この頃の西日本は私鉄が競争していた時代で、大仏鉄道の親会社である関西鉄道も奈良まで接続を目標にしましたが、大阪の湊町から奈良まで接続していた大阪鉄道との競争で奈良まで入れず、現在の奈良育英高校近くに大仏駅を作りました。一条通りから東大寺までは歩いて20分ほどです。大仏鉄道は現在の新幹線や近鉄と同じ広軌で作られていました。

大仏鉄道ですが急勾配の山を越える路線でコストがかかること、また平行して走る奈良鉄道(今のJR奈良線)の買収に成功したこともあり、わずか9年で廃線となってしまいました。時代は日清、日露戦争の頃で兵員や物資輸送に私鉄を乗り継いででは問題があるため鉄道国有化施策がスタートする、そんな時代でもありました。

C57

JR加茂駅の近くに保存展示されていたのがC57。懐かしいですね。Cなので動輪が3つあります。ちなみにD51はDなので動輪が4つになります。中学校への通学でディーゼル機関車が引っ張る客車に乗っていましたが、時たま蒸気機関車の時があり迫力がありました。

C57
C57

紀勢本線は単線なので駅と駅の間は閉塞区間になります。閉塞区間に入る時は必ず通票がはいった輪っか(タブレット)が必要でした。急行や特急が駅を通過する時はホーム入口あたりで、そこまでの閉塞区間の輪っかを立っている棒にひっかけて、ホームの端あたりで駅員が高く、次の閉塞区間の輪っかをあげ、車掌が通り過ぎながら腕で掴む職人技を見ることができました。今は信号にすべて変わってしまいましたね。

蒸気機関車では機関助士がこの輪っかを渡したり受け取ったりしていて迫力ありました。

紫香楽宮跡駅

紫香楽宮の最寄り駅は信楽高原鉄道の紫香楽宮跡駅。JR草津駅の貴生川駅から二両編成の列車に乗り込みます。車内はほぼ満員ですが、紫香楽宮跡駅で降りたのは私一人だけ。ローカル線アルアルで一番前のドアしか開かないので前の方にはいたのですが、さすがに誰も降りないのには驚きました。

紫香楽宮跡駅
紫香楽宮跡駅

紫香楽宮や甲賀寺巡りをする人はいないようで、巡ってみても車で来ている人もいませんでした。そんなに信楽のタヌキがいいんですかねえ。帰り紫香楽宮跡駅から乗り込んだのも私一人だけ。車内は信楽観光した乗客で満員でした。

別府鉄道

大中遺跡公園の横にあるのが播磨町郷土資料館で、行ったら館内工事中とかで閉館していました(泣)。資料館の横にあったのが別府鉄道の展示。別府は「べっぷ」ではなく「べふ」と呼ぶそうです。

別府鉄道
別府鉄道

調べてみたら軽便鉄道だったそうで、野口線と土山線の2つの路線があり、1984年に廃止されていました。もともとは化学肥料の運搬用で土山線は国鉄の土山駅と別府港駅を結び直接、国鉄の山陽本線に連絡できたことから、国鉄との貨物輸送にも使われていたそうです。土山駅から大中遺跡まで、オシャレな遊歩道が続いているのですが、これが廃線跡でした。

近鉄デルタ線

近鉄名古屋線と大阪線が合流するのが伊勢中川駅です。伊勢中川駅の前に短絡線があり、伊勢中川駅に寄らずに列車が運行できるデルタ線になっています。デルタ線とは三角形状に敷設された鉄道線路の配線のことです。この短絡線を名古屋ー難波を結ぶ特急が走っています。

近鉄デルタ線

デルタ線ができたのは、けっこう古く1961年です。近鉄大阪線は広軌、名古屋線は狭軌で線路の幅が違っていたため直通運転ができませんでした。伊勢湾台風の復旧時にあわせて名古屋線を広軌としたため線路の幅が統一されます。しばらくは伊勢中川駅でスイッチバックしていたのですが、しなくてもよいように短絡線が作られました。

デルタ線は割とよくあり、名鉄では枇杷島駅近くにもあります。

吉野軽便鉄道

近鉄吉野線・六田駅近くに吉野軽便鉄道の看板がありました。

六田駅
六田駅

吉野軽便鉄道について調べると1912年(大正元年)に国鉄・吉野口駅から吉野駅(今の六田駅)を結ぶ軽便鉄道ができたそうです。六田からは柳の渡しで吉野川を渡り吉野山へ向かいました。

その後、近鉄の前身である大軌に買収され、そのまま軽便鉄道の路線を使って今の近鉄・吉野線になっています。それで古いトンネルや鉄橋が吉野線に残っているんですね。なかなかの山岳路線で山の中をひたすら登っていきます。1928年(昭和3年)に現在の吉野駅ができたため、これまでの吉野駅が六田駅に改称されました。

昔、軽便鉄道は吉野への観光客以外に木材運搬にも使われていたので国鉄との貨車直通が行われました。そのため鉄道は狭軌になっています。なるほど八木から橿原神宮駅へ向かうと、橿原神宮駅の構内を歩いて吉野線まで歩かないといけないのは線路の幅が違っていたからですね。吉野線はそのまま近鉄・南大阪線につながっていますので、この路線は全て狭軌になっています。

吉野の桜の時期には湊町(JR難波)-王寺-高田-吉野口-吉野という吉野行観桜列車が走っていたそうです。

近江塩津駅

琵琶湖の北側にある近江塩津駅。冬はめちゃくちゃ寒そうなホームです。ホームの乗り換えや駅から出るには、けっこうな階段を降りる必要があります。

近江塩津駅
近江塩津駅

大阪から琵琶湖線経由の新快速に乗ると近江塩津駅が終着駅になります。ただここまでたどりつく人はほどんどおらず、大体は彦根や長浜といった観光地で下車します。静ヶ岳の戦いの舞台や小谷城攻めなどを巡るには最適な路線です。

近江塩津駅で湖西線と合流し、湖西線の新快速はさらに峠を越して敦賀駅まで向かいます。敦賀から出た新快速は京都、大阪、神戸を通って姫路から播州赤穂まで行きますので、めちゃくちゃの長距離運行ですね。福井、滋賀、京都、岡山、兵庫と岡山の県境まで5府県をまたがって運行しています。

養老鉄道

桑名駅・養老鉄道ホームも変わっていました。近鉄ホーム下りホーム横にあるのは同じなんですが場所は名古屋寄りに移動していました。写真は以前の養老鉄道線で今は上左に移動しています。そのうちに線路は撤去されそうです。右にあるのがJR線です。

養老鉄道
養老鉄道

養老鉄道は桑名駅と岐阜県の揖斐駅(大垣経由)をつなぐローカル線で、揖斐川沿いの沿線をのんびり走ります。関ケ原の戦いで島津の退き口で通った道沿いになります。大垣に行くには距離が一番短いのですが、時間的には名古屋経由で大回りする方が早くなります。沿線には養老の滝があり、居酒屋の養老乃瀧はここから命名しています。

大仏鉄道

大仏鉄道
大仏鉄道

昔の地図を見るとJR奈良駅から右に鉄道があり、ドリームランド近くを経て京都府加茂町まで鉄道が走ってました。明治31年4月19日から明治40年8月21日の約9年間、走って廃止された大仏鉄道です。

関西鉄道大仏線の通称で、名古屋方面から奈良の大仏への観光客の誘致を図るため、当時の関西鉄道株式会社によって明治31年(1898年)に設置されたものです。

開通当時は、思惑通りかなりの乗客があり、大仏駅周辺は賑わっていました。加茂駅~大仏駅間は、山と谷が入り込んでおり、黒髪山越えの急勾配という当時の蒸気機関車には最大の難所を抱えた路線でした。明治40年、平坦な加茂~木津~奈良ルートの完成により、わずか9年あまりで姿を消しました。