柳生古城

柳生古城
柳生城から北側に少し歩いたところに古城山があります。城山という名前の通りに、こちらにも山城がありました。バス停の背後から剣塚に向かう山道を歩くと城跡にたどりつけます。剣塚があるところが主郭となっています。
柳生古城もいつできたのか分かりません。ひょっとすると柳生城と同じ時期に造ったのかもしれません。奈良から月ヶ瀬に抜ける街道を柳生城と挟撃する形になっています。
柳生城と違い、藪もなく整備されているので堀切などがよく分かります。手前の堀切はL字型になっていて食違虎口のようになっているのが特徴です。ただ北側は二重堀切で防御を固めていますが、ちょっと北へ行くと直ぐに山頂になっていて、なんでここに郭をつくらなかったのかが不思議です。北側の笠置方面からの攻撃はあまり想定していなかったようです。

柳生城

柳生城
今日は原稿書きの予備日だったんですが、思ったより早く原稿があがったので、奈良からバスに乗って柳生へ出かけてきました。
柳生氏の菩提寺である芳徳禅寺の東南の丘にあるのが柳生城。
ただ案内も何もないので登る道が分かりません。とりあえず坂を登っていくと堀切と曲輪の一つを発見。主となる曲輪は8メートルほど上がったところのようです。仕方ないので切岸、つまり崖を直登します。けっこう広い曲輪がありました。登った反対側に虎口があり、そこからだと直登しなくても、よかったのですが後の祭りです。
芳徳禅寺の前に石舟斎塁城跡の碑があります。柳生石舟斎とは柳生宗厳のことです。高台にある芳徳禅寺も曲輪の一つだったようです。
城が造られたのはいつか分かりませんが、天文13年(1544年)に筒井氏の大軍に攻められ、落城したとあるので、それ以前に城はあったのでしょう。柳生家巌・宗巌父子は筒井氏に降ることになります。

岡城(畑城)

岡城
大津皇子の墓が二上山の雄岳にありますが、ちょうど雄岳に登る登山口近くの尾根にあるのが岡城(畑城)です。登山口から山城に入る道がなく、仕方なく切岸、早くいえば崖を登って先端の曲輪に入りました。帰りに給水タンクの裏側から登れたことを発見します。
尾根沿いに曲輪がずっと続いており、曲輪と曲輪の間には堀切もあります。写真は堀切の一つですが、遠くからみたら単なる土の塊ですね。別の尾根にも曲輪が続いているので、かなり大きな山城ですが、曲輪のなかは藪でした。
■国人・岡氏
山城では珍しく造った人が判明しており、国人・岡氏の山城です。大和の地には守護がおらず興福寺が支配し、国人が属していましたが一乗院傘下の筒井氏・越智氏、大乗院傘下の十市氏・古市氏に分かれて争われていました。岡氏は応仁の乱では越智方に属していたようです。
戦国時代に入ると松永久秀に属することになります。曲輪の端から見てみたら、すぐ先に信貴山城がみえますので、松永久秀に属さないわけにはいかないでしょう。松永久秀が信長に滅ぼされる前に信長に寝返りますが、許されず焼き討ちされたようです。

谷城(若桜神社)

谷城
桜井の駅を降りて、まっすぐ南に10分ほど歩くと若桜神社が小高い丘にあります。もともとは古墳だったようです。
境内には桜井市の地名のいわれになった「櫻の井」が復元されていました。若桜神社を履中天皇の磐余稚桜宮跡にあてる説があり、境内の案内板にもそう書かれていますが、もっと南へ行った稚櫻神社あたりで磐余池の堤跡が2011年に発見され、稚櫻神社あたりが磐余稚桜宮だったようです。履中天皇以降、歴代の天皇が磐余池近辺に宮を造り、謀反の罪で処刑された大津皇子が辞世の歌でこの磐余池を歌っています。
桜井の駅に近い若桜神社ですが階段を上がった小高い丘に社殿があります。奥の西側と南側に崩れかけてはいましたが、堀跡と土塁が見事に残っていました。
階段のある東側は帯曲輪状態になっています。字名が谷なので谷城と呼ばれています。伊賀や甲賀に多い方形単郭の城だったようです。北側も痕跡が残っていそうですが藪の中であきらめました。

外山(とび)城

外山城
正倉院展へ行く前に大和桜井に寄ってきました。
桜井駅から20分ほど歩いたところに鳥見山があり、麓に等彌(とみ)神社があります。一の鳥居が内宮の鳥居で、古い鳥居を式年遷宮でもらったそうです。
等彌神社の奥から山道があり1kmほど歩いて霊畤を目指します。山道なんでスーツ姿では難しいですねえ。(笑)霊畤(れいじ)とは天皇が即位して最初に行う新嘗祭を行う場所をいいます。大嘗祭といいますが、神武天皇が日本で初めて行った大嘗祭が鳥見山で、行った場所が鳥見山山頂といわれています。
ずっと山道を登ると白庭と書かれた碑がありますが、ここが外山城の曲輪の1つです。外山城がつくられたのは南北朝時代で、たびたび合戦の舞台となりました。戦国時代には筒井方が守っていた外山城を松永久秀方が攻めて落城させています。
曲輪跡は4つあり、一番奥の曲輪が霊畤の碑があるところ。曲輪の虎口はちゃんと横矢がかかるよう作られていました。山道をつけるのに改変されていますが、曲輪跡はしっかり残っていました。ただ一番、端の曲輪はヤブだらけで、さすがに中に入るのをあきらめました。

平野氏陣屋跡

田原本
近鉄・田原本駅の東側は城下町になっていて小さな通りが碁盤の目のように走っています。
駅から少し行った田原本町役場あたりにあったのが平野氏陣屋跡。陣屋の遺構は残っていません。戦国時代、田原本をおさめたのが平野長泰という人物。賤ヶ岳の七本槍で有名です。七本槍というと福島正則、加藤清正、加藤嘉明、脇坂安治、片桐且元の5人は真田丸にも登場して有名なんですが、糟屋武則と平野長泰はあまり知られていません。
実は真田丸に平野長泰は登場していて、母衣衆になった信繁の上司です。信繫に「おまえはいいなあ」と言ったり、胡散臭さい人物として描かれています。
もともと尾張津島の住人で平野村をおさめていたことから平野氏という名前にしています。織田信長は祖父の時代から津島の経済をおさえたことでビッグになりましたので、津島は賑やかな町だったでしょう。
若き平野長泰は秀吉に仕え、軍功をあげていきます。そして与えられたのが田原本です。関ヶ原の合戦では徳川秀忠に従っていたので、上田城攻めにも加わっていたでしょう。大坂の陣では一転、大坂方につこうとしますが、家康に止められます。戦国時代の武将としては珍しく天寿を全うしました。

保津の環濠集落

保津の環濠集落
台風が近づくなか、午後から専門家派遣のお仕事。ということで午前中に田原本駅で途中下車して保津の環濠集落へ。
大阪ですと堺や平野の環濠集落が有名ですが、堀などは姿を消してしまいました。奈良には環濠集落がいくつか、そのまま残っています。村や町を守るために堀(環濠)が巡らされ、これで土塁があれば城です。実際、環濠集落は戦いの舞台ともなりました。
保津の環濠集落は一部が暗渠になっていますが見事に環濠が残っています。鏡作伊多神社というのが近くに2ヶ所あり、南側の鏡作伊多神社のあるところはちょうど張り出したところにあります。横矢がかかる郭だとピッタリですので中世は館があったかもしれません。

松永久秀が散った信貴山城

信貴山城
信貴山といえば大きな虎がある朝護孫子寺で有名です。毘沙門天が本尊で、毘沙門天に援けられたのが、寅年、寅日、寅刻だったことから虎がシンボルマークになっています。阪神タイガースの聖地です。
この信貴山にあったのが信貴山城。現在、山頂には空鉢堂がありますが、このあたりに天守代わりの櫓がありました。寺側の反対側に松永屋敷跡という巨大な曲輪跡などが残っています。広大な城でした。この松永久秀の城造りを学んだのが信長でした。
■三好長慶の家臣として頭角をあらわす松永久秀
城主はいろいろ変わりますが、有名なのが松永弾正久秀。生まれは諸説ありますが、一説が西岡で物集女城や勝龍寺城があったあたりの生まれといわれています。松永久秀は三好長慶に仕えますが、この三好長慶がすごい人物で織田信長の前に天下(近畿地域)をおさめました。
また拠点となる城を次々と移しキリシタンも容認します。また信長以上に実力主義で家臣を登用します。松永久秀もその一人で側近となり、いわば秀吉のような存在ですね。三好長慶は晩年、恵まれず飯盛山城で病死しますが、跡取りを盛り立てて三好家のために頑張ったのが松永久秀です。
■信長の家来となる松永久秀
信長が上洛し、最初は敵対しますが、かなわずと見るや信長に臣従します。この頃、久秀は58歳とかなりの高齢。
織田信長が家康に久秀を紹介する時に「この老人は常人には出来ぬ天下の大罪を三つ(主君・長慶殺し、将軍殺し、大仏焼き討ち)も犯した」と紹介しましたが、最近の研究では3つとも久秀とは直接、関係がないと言われています。
信長も久秀をけっこうかっていたようで、信玄による信長包囲網ができ久秀が裏切っても許したりしています。足利義昭についた三好長慶の後継者が若江城の戦いで佐久間信盛に敗死したことが大きかったのでしょう。
ところがもう一度、信長を裏切り、信貴山城で滅ぶこととなります。

住宅街に残る菜畑城

菜畑城
「近畿の城郭3」を読んでいたら住宅街にある城を発見。さっそく行ってきました。
大阪から生駒トンネルを抜けると生駒駅、ここで生駒線に乗り越えて一駅目が菜畑駅。少し歩くと往馬大社で、この近くに城があるはずなんですが、なかなか見つかりません。
けっこう迷っていると住宅地図の看板を発見。城山という字名があったので、たどりつくとピンポン、城跡でした。といっても住宅地なので丘の上に家が並んでいるだけで土塁などは残っていませんが、堀切(曲輪と曲輪の間を断ち切った堀)などが狭い公道で残っていました。
■住宅地に残る菜畑城
曲輪がそのまま住宅地として残っていて見事ですね。住宅地開発では城は壊されたり津の渋見砦公園のように何もなくなって、単なる公園になるケースがほとんどですが、曲輪だけですが見事に城跡が残っていました。
城の横は小川が流れていて、これが堀代わりだったのでしょう。この堀から切岸(侵入できないような崖)になっていました。誰が領主だったのか記録にもまったく出てこない城ですが、けっこう大きな城です。近畿大学のグラウンドと緑ヶ丘中学校のちょうど間ぐらいにあります。

大和三山に山城があった

耳成山
大阪から三重へ行く時に、よく大和八木駅で乗換しています。大和八木駅の横に見えるのが耳成山。大和三山の1つです。
先日、6,480円の大枚を払って買ってきた「近畿の城郭3」を読んでいたら、天神山城という山城が出てきました。場所をよく見ると耳成山頂上!耳成山に山城があったんだあ!
■天神山城へ
ということで雨が降る前の午前中に大和八木まで出かけてきました。耳成山の頂上近くに耳成山口神社があり、かっては天神社と呼ばれ、耳成山も天神山と呼ばれていたそうです。それで天神山城なんですなあ。この神社の裏手が城跡です。
明治天皇が陸軍の演習見学で頂上へ登った時に少し改変していますが、割と城跡が残っていました。郭もたくさんあり、帯郭もあって、けっこう大きな城です。
城を造ったのは赤澤朝経(ともつね)という人物で室町幕府方。大和の国人と戦っており、越智氏、十市氏、箸尾氏が多武峰の城塞群に立てこもっており、赤澤朝経は山城を本陣にして連日、合戦にむかっていたと記録に残っているそうです。香具山にも城跡があるそうなんで、これは行かねば!