明日香城塞群(2) 雷ギヲ城

雷ギヲ城
明日香というと蘇我馬子や聖徳太子などが活躍した古代の宮跡というイメージがありますが、その後も現在に続く歴史がありました。応仁の乱から戦国時代にかけて大和では国人どおしの戦いがあり、最終的に織田信長が大和を平定するまで戦乱が続きます。明日香には山も多く、城造りにはうってつけの土地でした。
大和三山・耳成山の頂上には天神山城という城が造られ、この城で室町幕府方の赤澤朝経(ともつね)という武将が大和の国人と戦っていました。越智氏、十市氏、箸尾氏が多武峰(中大兄皇子と藤原鎌足が密談した談山神社のある所)の城塞群にたてこもっており、明日香も戦場になっていました。
雷丘の北側200メートルぐらいの所に雷丘と同じような丘があり、ここが雷ギヲ城です。見事な郭跡と堀切が残っていました。雷丘のすぐ近くなので連携して用いられたか、付城としたのかなど詳しいことは分かっていません。

明日香城塞群(1) 雷丘城

雷丘城
大君は 神にしませば 天雲の 雷の上に いほりせるかも
皆さんご存じのように柿本人麻呂の有名な歌で、歌の舞台は明日香にある雷丘(いかづちのおか)です。雷丘のすぐ近くで小治田宮と書かれた土器が見つかり、この付近に推古天皇の小治田宮があったようです。教科書の記載でもめている聖徳太子が小野妹子を隋に派遣し「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」という国書を渡し、翌年には隋使・裴世清を連れて帰国します。一行を迎えた場所がこの小治田宮となります。
■雷丘城
雷丘は高さ10メートルほどの小高い丘で上に登ることができます。この丘は中世には城になっていました。一番上に主郭があり、隣りの郭との間には堀切もあります。これがなかなか見事な堀切でしっかり残っていました。よく見ると帯郭もありました。ただ掲示板などには城に関する説明はどこにもないので明日香を散策する人にとっては単なる丘です(笑)

「春の坂道」の舞台 柳生藩家老屋敷

柳生藩家老屋敷
柳生藩陣屋の近くにあるのが柳生藩家老屋敷。国家老・小山田主鈴の邸宅で江戸時代の武家屋敷がそのまま残っています。
明治まで子孫が住んでいましたが、その後、売られ、やがて手に入れたのが作家・山岡荘八。全26巻の徳川家康などで有名な作家です。ここで「春の坂道」の構想をねりました。
本が発売され、1971年にはNHKの大河ドラマとなりました。柳生但馬守宗矩(中村錦之助)、柳生十兵衛(原田芳雄)、柳生石舟斎(芥川比呂志)、徳川家康(山村聡)という俳優陣でした。柳生でロケが行われた写真の展示がありました。
知り合いの鎌田さん情報によれば、大河ドラマ「春の坂道」は唯一1話も映像がNHKに残っていない大河ドラマで、たまたま視聴者が録画していた最終回がDVDとして発売されたそうです。

柳生陣屋跡

柳生陣屋跡
柳生但馬守、柳生十兵衛といえば徳川将軍の剣道指南役で、柳生新陰流で有名です。
”新”という名前がついているので、もともとは陰流がありました。伊勢の五ヶ所浦出身の愛洲移香斎が編み出した流派です。柳生石舟斎(但馬守)が戦国時代の人を殺す剣法ではなく、人を活かす活人剣として発展させ、また無刀取りでも有名となりました。
柳生石舟斎は筒井氏に敗れ、柳生城などが落城し筒井順慶に従うことになりますが、やがて筒井を追い出して大和を支配した松永久秀の配下となります。ところが勢力を盛り返していた筒井純慶と松永久秀が辰市城でぶつかり松永久秀は敗退します。この時、柳生は久秀側で戦います。のちに筒井とは和睦しますが柳生の里に逼塞することになります。逼塞している時に新陰流の祖、上泉伊勢守秀綱と出あい新陰流の奥意を極めることになります。自身も鍛錬していた家康との縁ができ、将軍指南役になっていきます。
柳生城のすぐ近くの丘の上にできたのが柳生陣屋。柳生石舟斎の子である柳生宗矩が築きました。ここが柳生藩の政庁となります。横は川が流れ、高台にあり城にはもってこいの立地でした。

柳生古城

柳生古城
柳生城から北側に少し歩いたところに古城山があります。城山という名前の通りに、こちらにも山城がありました。バス停の背後から剣塚に向かう山道を歩くと城跡にたどりつけます。剣塚があるところが主郭となっています。
柳生古城もいつできたのか分かりません。ひょっとすると柳生城と同じ時期に造ったのかもしれません。奈良から月ヶ瀬に抜ける街道を柳生城と挟撃する形になっています。
柳生城と違い、藪もなく整備されているので堀切などがよく分かります。手前の堀切はL字型になっていて食違虎口のようになっているのが特徴です。ただ北側は二重堀切で防御を固めていますが、ちょっと北へ行くと直ぐに山頂になっていて、なんでここに郭をつくらなかったのかが不思議です。北側の笠置方面からの攻撃はあまり想定していなかったようです。

柳生城

柳生城
今日は原稿書きの予備日だったんですが、思ったより早く原稿があがったので、奈良からバスに乗って柳生へ出かけてきました。
柳生氏の菩提寺である芳徳禅寺の東南の丘にあるのが柳生城。
ただ案内も何もないので登る道が分かりません。とりあえず坂を登っていくと堀切と曲輪の一つを発見。主となる曲輪は8メートルほど上がったところのようです。仕方ないので切岸、つまり崖を直登します。けっこう広い曲輪がありました。登った反対側に虎口があり、そこからだと直登しなくても、よかったのですが後の祭りです。
芳徳禅寺の前に石舟斎塁城跡の碑があります。柳生石舟斎とは柳生宗厳のことです。高台にある芳徳禅寺も曲輪の一つだったようです。
城が造られたのはいつか分かりませんが、天文13年(1544年)に筒井氏の大軍に攻められ、落城したとあるので、それ以前に城はあったのでしょう。柳生家巌・宗巌父子は筒井氏に降ることになります。

岡城(畑城)

岡城
大津皇子の墓が二上山の雄岳にありますが、ちょうど雄岳に登る登山口近くの尾根にあるのが岡城(畑城)です。登山口から山城に入る道がなく、仕方なく切岸、早くいえば崖を登って先端の曲輪に入りました。帰りに給水タンクの裏側から登れたことを発見します。
尾根沿いに曲輪がずっと続いており、曲輪と曲輪の間には堀切もあります。写真は堀切の一つですが、遠くからみたら単なる土の塊ですね。別の尾根にも曲輪が続いているので、かなり大きな山城ですが、曲輪のなかは藪でした。
■国人・岡氏
山城では珍しく造った人が判明しており、国人・岡氏の山城です。大和の地には守護がおらず興福寺が支配し、国人が属していましたが一乗院傘下の筒井氏・越智氏、大乗院傘下の十市氏・古市氏に分かれて争われていました。岡氏は応仁の乱では越智方に属していたようです。
戦国時代に入ると松永久秀に属することになります。曲輪の端から見てみたら、すぐ先に信貴山城がみえますので、松永久秀に属さないわけにはいかないでしょう。松永久秀が信長に滅ぼされる前に信長に寝返りますが、許されず焼き討ちされたようです。

谷城(若桜神社)

谷城
桜井の駅を降りて、まっすぐ南に10分ほど歩くと若桜神社が小高い丘にあります。もともとは古墳だったようです。
境内には桜井市の地名のいわれになった「櫻の井」が復元されていました。若桜神社を履中天皇の磐余稚桜宮跡にあてる説があり、境内の案内板にもそう書かれていますが、もっと南へ行った稚櫻神社あたりで磐余池の堤跡が2011年に発見され、稚櫻神社あたりが磐余稚桜宮だったようです。履中天皇以降、歴代の天皇が磐余池近辺に宮を造り、謀反の罪で処刑された大津皇子が辞世の歌でこの磐余池を歌っています。
桜井の駅に近い若桜神社ですが階段を上がった小高い丘に社殿があります。奥の西側と南側に崩れかけてはいましたが、堀跡と土塁が見事に残っていました。
階段のある東側は帯曲輪状態になっています。字名が谷なので谷城と呼ばれています。伊賀や甲賀に多い方形単郭の城だったようです。北側も痕跡が残っていそうですが藪の中であきらめました。

外山(とび)城

外山城
正倉院展へ行く前に大和桜井に寄ってきました。
桜井駅から20分ほど歩いたところに鳥見山があり、麓に等彌(とみ)神社があります。一の鳥居が内宮の鳥居で、古い鳥居を式年遷宮でもらったそうです。
等彌神社の奥から山道があり1kmほど歩いて霊畤を目指します。山道なんでスーツ姿では難しいですねえ。(笑)霊畤(れいじ)とは天皇が即位して最初に行う新嘗祭を行う場所をいいます。大嘗祭といいますが、神武天皇が日本で初めて行った大嘗祭が鳥見山で、行った場所が鳥見山山頂といわれています。
ずっと山道を登ると白庭と書かれた碑がありますが、ここが外山城の曲輪の1つです。外山城がつくられたのは南北朝時代で、たびたび合戦の舞台となりました。戦国時代には筒井方が守っていた外山城を松永久秀方が攻めて落城させています。
曲輪跡は4つあり、一番奥の曲輪が霊畤の碑があるところ。曲輪の虎口はちゃんと横矢がかかるよう作られていました。山道をつけるのに改変されていますが、曲輪跡はしっかり残っていました。ただ一番、端の曲輪はヤブだらけで、さすがに中に入るのをあきらめました。

平野氏陣屋跡

田原本
近鉄・田原本駅の東側は城下町になっていて小さな通りが碁盤の目のように走っています。
駅から少し行った田原本町役場あたりにあったのが平野氏陣屋跡。陣屋の遺構は残っていません。戦国時代、田原本をおさめたのが平野長泰という人物。賤ヶ岳の七本槍で有名です。七本槍というと福島正則、加藤清正、加藤嘉明、脇坂安治、片桐且元の5人は真田丸にも登場して有名なんですが、糟屋武則と平野長泰はあまり知られていません。
実は真田丸に平野長泰は登場していて、母衣衆になった信繁の上司です。信繫に「おまえはいいなあ」と言ったり、胡散臭さい人物として描かれています。
もともと尾張津島の住人で平野村をおさめていたことから平野氏という名前にしています。織田信長は祖父の時代から津島の経済をおさえたことでビッグになりましたので、津島は賑やかな町だったでしょう。
若き平野長泰は秀吉に仕え、軍功をあげていきます。そして与えられたのが田原本です。関ヶ原の合戦では徳川秀忠に従っていたので、上田城攻めにも加わっていたでしょう。大坂の陣では一転、大坂方につこうとしますが、家康に止められます。戦国時代の武将としては珍しく天寿を全うしました。