矢走城のすぐ西側の尾根にあるのが矢走西城。
こちらには何の案内もないので適当に城めがけて直登するしかありません。直登すると出城のような郭に入れます。土塁などが残っていました。この郭から尾根道が続いて主郭に入れます。主郭の前には堀切があり、また郭の一番西側にも二重堀切がありました。特徴的なのは郭の中にも2つの横堀があって3つの郭で運用されていたようです。矢走城のすぐ横ですので一城別郭(ひとつの城でありながら、主郭が2つある城の構造 高天神城などが有名)だったようです。
矢走城のすぐ西側の尾根にあるのが矢走西城。
こちらには何の案内もないので適当に城めがけて直登するしかありません。直登すると出城のような郭に入れます。土塁などが残っていました。この郭から尾根道が続いて主郭に入れます。主郭の前には堀切があり、また郭の一番西側にも二重堀切がありました。特徴的なのは郭の中にも2つの横堀があって3つの郭で運用されていたようです。矢走城のすぐ横ですので一城別郭(ひとつの城でありながら、主郭が2つある城の構造 高天神城などが有名)だったようです。
矢走(やばせ)近くを明日香から吉野を結ぶ芦原峠越えの街道が通るので、矢走城は監視用に造られたようです。この街道は北の平城京から南の藤原京を結んだ中ツ道の延長で吉野へ向かメインルートでした。
矢走城の築造時期は室町時代とみられ、14世紀前半頃の土器と16世紀代とみられる中国製の磁器(青花碗)などがみつかっています。
矢走の里を目指して、ひたすら高台まで登ると松林寺という眺めがよいお寺につきます。この寺の脇に城への案内板があり、ここから矢走城に入れます。大きな堀切が土橋になっていて、ここを越えると切岸がありそのまま登っていくと主郭に出ます。東端にも大きな堀切がありました。
六田と書いて「ムダ」と呼びます。南北朝時代、吉野城を守る支城として丹治城、飯貝城、六田城、一の坂城がありました。一の坂城は吉野山への参道途中ということもあり遺構は消滅しています。丹治城、飯貝城は先日、登ってきたので最後の六田城に行ってきました。
六田城は牟田寺の背後にある尾根に築かれています。寺の後ろに墓地があり、そこからひたすら直登すると尾根へ出ます。便利なのがGoogleマップ、城はさらに西側と表示されます。尾根を西へ進むと主郭がありました。郭は2つあり、こじんまりとしていますが、土塁を設けた二重堀切などが楽しめます。また攻め込みにくい高い切岸を実現しています。
本善寺の裏山に飯貝城があります。鎌倉幕府と護良親王が戦っていた時、吉野の入口に立地するため丹治城などとともに吉野城の出城だったようです。
やがて浄土真宗本願寺派の本善寺ができると吉野の金峰山寺と敵対していたことから飯貝城として整備されました。ところが金峰山寺、越智氏などによって城は攻め落とされます。報復のために浄土真宗門徒が金峰山寺を攻めています。信長が石山本願寺と敵対した時には筒井順慶が本善寺と飯貝城を攻め、この時に廃城となったようです。
本善寺の裏山をえっちらおっちら登るとNTTの送信所があります。削平地になっているので、”城跡だあ!着いた”と思ったら、Googleマップはさらに先を示しています。違うのかいなと、さらに奥に登る道があったので登ると飯貝城がありました。空堀があり、その奥が城域でした。主郭には枡形状の虎口があり土塁などが残っています。割と技巧的なので戦国時代に改修されたのかもしれません。
近鉄・吉野神宮駅のすぐ東側の山頂にあるのが丹治城です。金龍寺の右横の狭い道から入っていくと山城には珍しく案内板がありました。そこからひたすら山道を登っていくと城跡に着きます。城跡には当然ながら何の案内もありません。
後醍醐天皇の皇子だった護良親王(大塔宮)が鎌倉幕府と対峙したのが吉野城(蔵王堂)。出城として築かれたのが丹治城で、吉野城へ通じる谷の入口を守っていました。郭は東西に長く配置され、一番東側が高くなっていて、ここが主郭だったようです。その先には堀切がありました。一番、西側の曲輪からは吉野城(蔵王堂)がよく見えます。
戦国時代となり石山本願寺と織田信長が戦っていた頃、筒井順慶が吉野における本願寺門徒を攻撃した時に丹治城に吉野方の武士や門徒衆らが立て籠もったため、この時に改修された可能性があります。
西市や辰市神社などを巡り、最終目的地がココ、奈良市立辰市幼稚園です!!
今は幼稚園ですが、ここが大和最大の合戦である辰市城合戦の舞台となった所です。城跡は何も残っていませんが、この幼稚園のあたりに主郭がありました。
■辰市城合戦
辰市城合戦は筒井順慶と松永久秀が激突し筒井側の勝利となりました。大河ドラマ「麒麟がくる」でも反目しあっていましたね。大和には守護がおらず、筒井、箸尾、十市、越智などの国人が同盟したり反目したり勢力争いしていたところに割り込んできたのが松永久秀です。
武田信玄が家康を破ったこともあり松永久秀は信玄と組んで織田信長に謀反を起こします。筒井順慶は居城だった筒井城を松永久秀に奪われており劣勢で、松永久秀はこれを機に筒井を攻めようと平城だった辰市城を襲撃します。松永軍は優勢でしたが大和の国人が筒井方に味方して辰市城に援軍がかけつけ松永軍は劣勢となり撤退します。
筒井順慶は筒井城を奪回し、頼みの綱だった信玄が病没してしまったことから松永久秀は多聞山城を明け渡すことを条件に再度、織田信長に仕えることになります。
志賀の陣の舞台となった壺笠山城。
織田信長が朝倉義景、浅井長政と対峙したのが志賀の陣。まず朝倉・浅井連合軍が南下して坂本方面に出陣してきました。坂本港を守るために宇佐山城から出陣してきた森可成(森蘭丸のお父さん)が討ちとられます。朝倉・浅井軍が動いた知らせが摂津攻めをしている織田信長に届き、信長が急遽、宇佐山城へ戻ったため落城せずにすみました。
■壺笠山城
朝倉・浅井連合軍は宇佐山城近くの「はちが峰」、「あほ山」、「つぼ笠山」に着陣します。3つのうち位置が判明しているのが「つぼ笠山」にあるのが壺笠山城です。両者ともに膠着状態となり和議を結びますが、和議を結んだのがこの壺笠山城です。それはよいのですが、こんな山城まで和議とはいえ登るのはしんどいなあ。ちちんぷいぷいではありませんが「昔の人は偉かった!」。
白鳥越えといわれる間道が当時あり、京都と坂本を結んでいました。この間道から頂上を目指すと壺笠山城があります。城域に入ると削平地が続いていて、ここに朝倉・浅井連合軍の兵が駐屯したのでしょう。壺笠山城の主郭は円郭式になっていて石垣が積まれています。朝倉・浅井が陣城に使ったのなら石垣は必要ないため、後に坂本を支配した明智光秀が改修したものでしょう。城からは琵琶湖や宇佐山城方面を見ることができます。
五條駅から西に登った尾根の上に岡西山城があります。周囲は住宅団地として開発されていますが奇跡的に山城が残っています。
けっこう技巧的な山城になっていますので筒井順慶と松永久秀が戦った永禄期に築城されたのでしょう。城主は在地の国人である大岡氏のようで麓に館跡があり、岡西山城は詰城でした。
写真は堀切と土橋で、郭内に入っていくと大きな堀切などが残っていました。
黒木西城を目指して尾根を登り頂上を目指しますが堀切などの遺構がない。
おかしいなあ、確かにこの山のはずなんだが。しかし、どうも違う。結局、一山間違えておりました。せっかく登った山を降りるのは面倒なので尾根筋を歩いて、ひたすら隣の山を目指します。
ようやくたどりつくと郭の間を堀切があるのを発見。郭をずっと歩いていくと大堀切と大土塁がありました。写真が堀切から見た大土塁ですが、よく分かりませんね。ぜひ、現地で見てください。行くのは大変ですが
黒木西城は黒木氏の居城という説、秋山氏が本城である秋山城を奪われた時の城説、松永久秀が秋山城攻略のために築いた陣城説などがあります。
山城で案内板などがある所はほんの一握り。地元の人に聞いても知らないケースがほとんどです。そこでひたすら城の記録を検索し、先人が登った場所などを探します。あとは「近畿の城郭」などに縄張図などが掲載されていますので、これでどういう山かを把握して現地に向かいます。
宇陀五津城は五津(いつつ)という場所にあるお城です。採石場の隣という記録があったので、この山だろうと藪を突っ切って尾根にたどりつき頂上を目指しましたが平削地があるばかりで空堀などが見つかりません。おかしいなと麓まで降りて採石場の反対側の山へ。ピンポン!こちらに宇陀五津城がありました。主郭を中心に二重の空堀に囲まれ、技巧的な城になっています。二重の空堀は見事ですねえ。誰が造った城なのか皆目わかっていません。