堺に台場があったことをご存じですか。
■台場とは
台場とは大砲を備えた防塁のことで、今の大浜公園(南海本線堺駅の近く)の場所に造られ、遺構も残っています。幕末、ペリーによる黒船来航から国防が意識され日本各地で台場整備がすすみます。長州藩では関門海峡に築いた台場から異国船に向かい攘夷実行を行い、馬関戦争を引き起こしています。
台場で有名なのが”お台場”にある台場公園。近くにはフジテレビや湾岸警察署があります。台場公園は東京湾上に造られた第三台場跡で、陣屋跡や弾薬庫跡が残っています。私の郷里の津には岩田川沿いに贄崎砲台、塔世川沿いに西浦砲台が造られ、贄崎砲台の土台が一部残っています。
■大阪に異国船が来訪
黒船によるペリー来航に引き続き、 今度は大阪・天保山沖にロシア使節プチャーチンが来航しました。京都に近い大阪港に異国船が来たことから朝廷では大騒ぎになります。朝廷の要望もあり江戸幕府は大阪湾各所に台場を築きかれ西宮砲台、和田岬砲台は当時のまま残っています。
■堺台場
堺砲台が造られたのが今の大浜公園がある場所で、彦根藩によって稜堡式城郭が造られました。大浜公園の半分ほどが城郭で、大砲8門が備えられました。当時の石垣が阪神高速湾岸線大浜ICの出入口南側と公園内の菖蒲園に残っています。単なる石垣なので大浜公園で遊んでいる人はそんなものがあったとはたぶん知らないでしょうねえ。
カテゴリー: 大阪府の山城
登城口がなかなか見つからない山下城
能勢電鉄に揺られて山下駅へ。駅から山の麓へ歩くと平野神社があります。山城の地図を見ると、この平野神社の裏山あたりで、山道を登りはじめます。山道のところどころに地蔵があり、33ケ所巡りができるような形になっています。さて頂上ちかくに登ってもとんと山城跡がありません。おまけに野生の鹿が出てくる始末。どうも山を間違えたようで、もう一度、下って平野神社まで撤退。
平野神社の奥の方へ行くと「山下城」と小さな木札がかかっているのを発見。”これだ”と歩きはじめると、途中から沢道になってしまいました。しかも、さっき頂上まで行った山につながっているようです。”こりゃ、違うなあ”と山道で行くのはあきらめて、崖の直登を開始。20メートルほど上がると山道を発見。これが城につながる道だろうと歩いていくとピンポン。なんですが、着いたのは城を守るために造れらた二重堀切の跡。見上げると櫓跡のようなものが見えます。山道を行くとかなり回り道になりそうなので、今度は切岸の直登を開始。10メートルほど登ると主郭の櫓跡に着きました。
■獅子山城、一庫城
山下城は獅子山城、一庫城とも呼ばれていたようで、もともとは源頼仲が造った城のようです。源頼仲の婿だった塩川氏が代々、城主になっていたようです。南北朝時代から戦国時代にかけて攻城戦が行われました。まだ細川春元の部下だった三好長慶が三好政長、波多野秀忠らと共に山下城の塩川政年を包囲して戦ったりしています。秀吉の時代まで城はあり、その後に破城になりました。
主郭は公園になっていますが土塁も櫓跡も残っています。いくつも曲輪があり、多くは畑や神社になっていますが、曲輪の形は見事に残っています。写真は主郭からずっと下ってきた七の段にある愛宕神社から眺めた能勢の風景。能勢街道をおさえる城でした。
山から下り、ようやく山城への入口を発見しましたが、「あぶない」という立て看板が立っているだけで、道かどうかも分からない入口。こりゃ気がつくのは無理ですねえ。やっぱり迷ったら直登ですなあ。(笑)直登は体力を使いますので良い子はやめましょう。
日本の国名ができた時代に造られた高安城(古代)
中世の高安山城から信貴山城へ行く途中にあるのが高安城倉庫跡です。山の上に倉庫の礎石跡が残っていて、ここに7つほどの倉庫があったようです。
■白村江の戦いの後に造られた城
日本史で習いましたが663年の白村江(ハクソンコウ)の戦いで大和・百済連合軍は大敗北。国家存亡の危機に唐・新羅などの侵攻に備えて高安城、屋嶋城(讃岐)、金田城(対馬)を築いた話が日本書紀に出てきます。
倭国は唐と戦後処理を行い、友好関係を目指しますが、そこはどうなるか分かりません。国内では飛鳥浄御原令の制定など律令国家などを急速に進め、国家体制を充実させます。国名も倭国から日本に変えます。そして最後の防衛線として造られたのが高安城です。
■ずっと幻の城だった
高安城は日本書紀に記載されていますが、場所が分からず幻の城と言われていましたが、市民グループ「高安城を探る会」が発見したのが倉庫群。ただ発掘調査したところ廃城後の奈良時代初期(730年頃)の建物であることが判明します。それでも大仏開眼や正倉院よりも以前の話なんで、すごいんですがあ。
ところが1999年に100メートル以上も続く石垣が地元の研究者によって発見されます。調査が進むと城壁が南北2.1kmにわたって山の西側斜面に連なり、所々に櫓が突き出すという壮大な城だった模様で、東西も1.2kmあったようです。こうなると高安山一体が城跡ということでホンマかいな!!
■壬申の乱の舞台にもなる
壬申の乱というと不破の関での戦いなどが有名ですが高安城も戦場になりました。近江朝廷軍が支配していた高安城を大伴吹負の兵が攻め占領します。朝廷軍が難波から攻め込んできたので高安城から下り、難波から攻めてきた朝廷軍と石川で戦います。
大坂の陣では後藤又兵衛が石川を渡り、小松山で徳川軍と戦いますが、昔から要衝の地だったんですね。
高安山城(中世)
高安山に登り生駒山縦走路にぶつかります。この縦走路沿いに歩くと丸いドームが印象的な高安山気象レーダー観測所があります。大阪の街からも見えます。
この観測所のすぐ近くに高安山山頂があり、ここに高安山城跡があります。生駒山縦走路が城の真中をつっきっており中世は路ではなく堀切だったようです。以前に通ったことがあるんですが、ここが城跡とは全然気づきませんでした。
今回は地図を調べていったので、路から少し崖を登ると曲輪と曲輪の間の堀切に入れます。曲輪の土塁も残っていて、なかなか見事です。奥にも曲輪があり、かなり大きな城です。高安山山頂にも曲輪があったのですが、こっちはあんまり痕跡が残っていません。
字は出城になっていて信貴山城の出城だったようです。そうなると造ったのは松永久秀でしょう。高安山は標高488mあり、信貴山の標高より高いので大阪よりの防備を固めたのでしょう。高安山城から30分ほど山道を歩くと信貴山です。
川越夜戦の舞台 川越城
Red Ballが始まる前、川越へ行ってきました。
”時の鐘”がある蔵の街はすごい人でしたが、川越城の本丸御殿あたりはほとんど人がいません。富士見櫓跡にいたっては誰もいませんでした。(笑)土塁などが見事に残っていて川越の街が一望できるのにもったいないな~あ。
■川越夜戦へ
川越城といえば川越夜戦でめちゃくちゃ有名です。造ったのは太田道灌で江戸城と結ぶ防衛ラインを作るためでした。太田道灌が亡くなってから、川越城は取ったり取られたりとなり、やがて北条氏が支配するようになります。
北条氏康に対し、互いに争っていた山内上杉憲政、扇谷上杉朝定、古河公方足利晴氏が手を組んで大連合を組みます。圧倒的な戦力で三方から川越城を囲み、兵糧攻めとなります。
後詰ででてきた北条氏康ですが、消極的な戦いで相手を油断させ、夜、扇谷上杉朝定の陣を攻め、上杉朝定は戦死。潰走した扇谷軍が山内軍がなだれ込む事態になりました。川越城にこもっていた北条軍は戦いに気がつき、うまいことに古河公方軍を攻撃。結果的に各個撃破となり劇的勝利をおさめることになります。
■上杉謙信誕生へ
この戦いを契機に没落していった山内上杉憲政は最終的に越後の長尾景虎を頼ることになります。上杉の名跡を継ぐことになり長尾景虎は上杉謙信となります。川後夜戦により北条家は関東で圧倒的な勢力となります。
深野池にあった三箇城
戦国時代の大阪東部には深野池(ふけのいけ)という大きな池があり、現在の寝屋川市南部、門真市東部、大東市中央部、東大阪市北部、四條畷市西部に拡がっていました。もともとは神武東征の時代にあった河内湖の名残です。江戸時代に大和川の付替が行われ、深野池はだんだん縮小し、今ではふつうの池になっています。
■三箇城
深野池は淀川などとつながっていますので港がありました。上方落語「野崎参り」に屋形船のシーンが出てきますが、近年まで船運が使われていました。三好長慶の時代も港があり、飯盛山城の支城が深野池の島に造られます。それが三箇(さんか)城。池に3つの島があったことから三箇と名付けられ、最も大きかった大箇島に城は造られました。
岡山城や城と同様に河内キリシタンの拠点でした。朝廷から伴天連追放令が出た時に京都から逃れてきたビレラやフロイスが数か月滞在したのがこの三箇にあった教会です。フロイスはローマに「教会は水に囲まれた小さい島にある」と報告しています。城主は三箇頼照でキリスト教の洗礼を受けサンチョと名乗りますが、敬虔なキリシタンとして修道士の間でも有名でした。畿内一大きかったと言われる三箇の教会では盛大に復活祭(イースター)もやっていたそうです。劇も行われ見物客が3000人もいたと記録されています。
■明智光秀に味方
三箇頼照の息子になった時代、”河内国の半分をやる”といった条件にのって明智光秀に味方してしまいました。結局、秀吉に領地などを没収され三箇頼照と息子などは追放されることになり教会も破壊されてしまいました。
三箇城跡は残っておらず、現在の三箇菅原神社付近にあったようです。
フロイスの日本史に登場する「砂」
先日、行った河内岡山城のすぐ近くにあるのが砂という住宅地。今は単なる住宅地ですがルイス・フロイスの「日本史」に「砂の寺内」として登場します。
■河内がキリシタンの土地となる
信長より先に天下人となった三好長慶に仕えていたのが松永久秀。都を支配していた松永久秀はキリシタンがきらいだったようで朝廷に手をまわして都から伴天連を追放せよという命令を出させました。やむなく伴天連は堺などへ避難します。
松永久秀は部下に命じてキリシタンとの宗論(宗教間のディベート)をするよう計画しました。事前準備のために修道士を訪ねたところ、理路整然とした修道士からの回答に感銘をうけて結城忠正や高山図書(高山右近のお父さん)が洗礼をうけます。
結城忠正が、飯盛山城へ戻った時に同僚の武将にもデウスの教えをすすめます。息子の結城左衛門尉は飯盛山城に近い砂に邸宅を構えていたこともあり、この地に最初の教会を建てました。
またロレンソ修道士などが三好長慶に招かれて飯盛山城に来訪し河内はキリシタンの一大拠点となり3,500人のキリシタンがいたと言われます。砂にも砂城があったようで、結城左衛門尉の邸宅がそうだったのでしょう。三好長慶は茶や連歌でも有名で、当時の砂は最先端の文化都市でした。
■松永久秀の子孫
信長が天下人として台頭すると、フロイスとロレンソは足利義昭のために二条城を工事している最中の信長と対面。京に居住する許可をもらい、先に出ていた宣教師追放令は事実上、無効になりました。よく映画などで信長が伴天連と会うシーンで登場しますが、この時です。
この後、安土にはセミナリヨなどが建てられます。そうそう信貴山城で信長に刃向って死んだ松永久秀の子孫がiモードの生みの親でもある松永真理さんです。
■砂は大坂夏の陣の舞台の1つ
大坂夏の陣が起きると徳川本体は京都から道明寺をめざし、東高野街道を南下します。途中、家康が陣をおいたのが砂。秀忠は近くの岡山城に陣を置きました。
南下する徳川本体を横から攻めるため大坂城から出撃したのが木村重成と長宗我部盛親で、これに気がついた藤堂高虎と井伊直孝が多大な犠牲をはらって敗退させ、木村重成を討ち取ったのが八尾・若江の戦いです。砂を出た家康は枚岡に宿営します。
河内岡山城
岡山城へ行ってきました。
岡山城といっても宇喜多秀家の岡山城ではなく飯盛山城の支城の1つである岡山城でJR学研都市線の忍ケ丘駅の近くにあります。東高野街道と清滝海道の交差するところの近くで交通の便のよいところでした。
名前の通り忍ケ丘の高台の端にあり、現在は忍陵神社があります。城の遺構は残っていませんが、眺めがいいですね。室戸台風で社殿が倒壊した時の再建工事で石室があるのが分かり、古墳だったことが判明します。古墳の上に造られた城でした。
■河内キリシタンの拠点
松永久秀の家臣だった結城忠政が高山右近の父親である高山友照と共に大和の沢城でキリシタンとなったのが河内キリシタンのはじまりですが、この結城氏一族が岡山をおさめており城を造りました。
熱心なキリシタンで家臣にもすすめ、京都の教会作りにも積極的に参加しています。岡山城にも教会堂が造られました。
■徳川秀忠の陣になる
信長の時代に岡山城は破城となりましたが、大坂夏の陣では徳川秀忠の陣が置かれました。徳川秀忠は京都から東高野街道を使って大坂へ向かいましたので、大坂城もよく見える高台の岡山に陣を置いたのでしょう。
中川清秀、片桐且元の茨木城
高槻と大阪の間にあるのが茨木市。
イバラギではなくイバラキです。そういえばSEをやっていた頃、イバラギでプログラムから帳票印刷してしまい、回収騒ぎになったイヤな思い出がある地名です。(笑)
■城主 片桐且元
阪急茨木市駅から少し行ったところが片桐町。大河ドラマ「真田丸」では、後半の方に登場してくる片桐且元にちなんだ町名でしょう。
賤ヶ岳の七本槍のひとりで、徳川家康側ですが秀頼の代行のような役割をしていました。方広寺鐘銘事件では大坂方と徳川方の調整をしていましたが決裂し、徳川との内通を疑われた片桐且元は大坂城を出て茨木城に入ります。
■城主 中川清秀
片桐且元の前には中川清秀が城主を勤めていました。荒木村重が謀反を起こした時に従いましたが織田信長の調略で寝返りました。中川清秀がそのまま荒木方だと播磨へ進出していた秀吉は摂津が閉ざされ連絡ができなくなり、大変な事態になっていたでしょう。
本能寺の変の後、中川清秀は秀吉に味方し、柴田勝家の賤ヶ岳の戦いでは佐久間盛政の奇襲を受けて討死しています。
茨木城ですが本丸などの字名が残っているだけで遺構はありません。茨木神社の門が茨木城の搦め手門を移築したものになります。
茨木郊外に残る安威砦跡
先日、高槻からの帰り道に茨木で下車。駅前からバスに乗って郊外の安威という場所へ。近くには追手門学院大学があります。
安威川が流れていて、川沿いに茨木と京都の亀岡を結ぶ街道が走っています。この街道を見下ろす天神山の山頂に築かれたのが安威砦。3つの曲輪と帯曲輪などが残っており、見事なのが曲輪との間の大堀切。高さは8メートルほどあります。一番端の曲輪へ行くと街道をすぐ下に見下ろすことができます。街道側には石垣跡もありましたので、街道を威圧していたのでしょう。
城を造ったのはこのあたりを支配していた安威氏で、近くに安威城があり、安威砦は詰めの城だったようです。安威城は住宅化で遺構がなくなってしまいましたが、こちらの砦はよく残りました。安威氏は茨木城主・中川清秀に属していたようです。
城の近くには排水場があり、舗装された道が通っており、ここから山城まではすぐ。ですのでスーツ姿でも登れる山城です。