金剛山の登口から急な石段が続いており、この石段をひたすら登ると千早神社境内。ここが、日本史で必ず習う千早城跡。
千早城跡を通って、そのまま金剛山へハイキングできますので、訪れる皆さんは山城マニアではなく、ほとんどがハイカー。神社にお参りしてから神社裏の登山道を通って金剛山を目指します。神社の境内を見て回っているのは私ぐらい。(笑)
神社の裏手に本郭跡があるんですが、神域となっているため立入禁止。本郭以外の郭跡をめぐっておりました。それにしても広い郭ですねえ、大きな郭が4つほどあり、かなりの兵が常駐できました。太平記には1,000名の手勢で立てこもったと出てきますが、十分に常駐できそうです。
郭を歩き回っていると入口の郭から20メートルほど下のところにも郭があるのを発見。崖を降りてみると、かなり広い帯郭でした。後で調べると「馬かけ場」という名前がついていました。千早城は四方が絶壁になっていて、裏手から金剛山へ抜ける道があるだけ、守りやすい城になっています。
後醍醐天皇が笠置山に挙兵。倒幕運動に呼応し、楠正成も挙兵します。鎌倉幕府軍が攻め寄せ、下赤坂城、上赤坂城が落城するなか、楠軍は千早城にたてこもり1,000人の兵で幕府軍100万を相手にしたと太平記に出てきますが、そんなことはなく、1000対数万でしょう。攻めあぐねた幕府軍は向かいの山から100尺(300m)もの橋を掛けて、攻め入ろうとしましたが楠軍に火をかけられてしまいます。楠正成が千早城でがんばっていることで倒幕気運が高まり、新田義貞が鎌倉を攻め、足利尊氏が六波羅探題を攻め、鎌倉幕府が滅亡してしまいます。
カテゴリー: 大阪府の山城
太平記の舞台 楠木本城(上赤坂城)
大阪府にある唯一の村・千早赤坂村の赤坂の方にある上赤坂城へ行ってきました。
鎌倉幕府が倒れる原因をつくった楠正成の戦いに登場するお城。出城が下赤坂城、拠点となる本城が上赤坂城、詰城が千早城でした。晴天のゴールデンウィーク、まさか、こんな山城へ来ている観光客はいないと思ったら、いてました。(笑)山城入口に小さな駐車場があるんですが1台留まっています。こちとら暑い中、バス亭から歩いてきたのに。
さて城に入ると堀底道がずっと続きます。神戸の滝川城や高取城と同じ感じですね。一の木戸跡から四の木戸跡まであるんですが、どう考えても上から狙われる構造になっています。鎌倉幕府軍が攻めるのはさぞ、大変だったでしょう。
四の木戸を過ぎると土橋になっています。堀切も見えていて、これが鎌倉時代の城?えらく技巧的だなと思ったら、戦国時代も使われていて改変されているようです。ようやく一番上の本郭にたどりつくとアベックがおりました。駐車場の車の主のようです。デートで山城に登るとは、さすがですなあ。(笑)本郭からの眺めはよく、北摂から神戸の方まで見渡せます。こりゃ、幕府軍の動きもよく分かります。
本郭の周りには広い帯郭がありました。二の丸と書いてある方にも登ってみましたが、こっちには小さな帯郭がいくつも築かれ、堅牢な城に仕上がっていました。上赤坂城は楠正成の死後、正成の三男である楠正儀らが籠城し、落城しました。この時に焼けた建物跡などが発掘調査で出てきたそうです。金剛山の尾根上にあるので、落城しそうになったら、金剛山方面に逃げることができる造りになっています。
楠正行の神感寺城
天気もよいから、前から行きたかった神感寺城跡に行こうと、まずはネットで神感寺を検索。奈良と大阪を結ぶ暗峠から行けることを確かめて家を出発。
枚岡公園から暗峠を目指しますが、せっかくだからハイキングコースを行こうと思ったのがウンのツキ。歩いていると、いかにも土塁が続いていて虎口(城の入口)のような所を発見。こりゃ、見つかっていない城跡ではないかなと藪の中へ(笑)。日本には、まだまだ見つかっていない山城跡がかなりありますので、見つけるチャンスはあなたにもあります!
藪の中を進むと空堀跡と土塁を発見。ところが空堀と思う所がグニャグニャ曲がっています。どうも違うな~あ。昔の山道跡のようでした。気を取り直して暗峠を目指しますが、途中で道を間違えてしまい、結局は標高642mの生駒山頂へ。山頂から尾根伝いに150mほど降りて、暗峠へ。150mも、余計に登ってしまいました。
暗峠から山道に入って神感寺へ。今も小さな寺はありますが、もともとは山岳寺院の神感寺があり、発掘では東西200m,南北250mに大伽藍があったことが確かめられています。神感寺は奈良時代末に創建され、鎌倉時代に大いに栄えます。
南北朝時代には楠木正行が城塞化し、神感寺城になっていました。眺めがよいので見張り用だったのでしょう。四条畷の戦いでは北朝方の佐々木道誉軍に攻められ焼失してしまいます。佐々木道誉と言えば婆沙羅大名で有名ですね。山門近くの藪の中に入り込んでみると、平坦地などが残っていましたが、明確な城跡はありませんでした。
家から90分で登れる山城(鷲尾山城)
東大阪コミュニティニュース「ふれあい東大阪」に地名の連載記事があり、今回は上石切の記事。
■鷲尾山興法寺
読んでいると生駒山中腹にある鷲尾山興法寺が南北朝時代に南朝側の城砦になっていて楠木氏や水走氏がゲリラ戦を展開していたとあります。四条畷の戦いでは足利軍の高師直に焼かれてしまいます寺を復興したのが若江城を築いた畠山基国。南朝勢力圏の一番北にあった城でした。
家の近くに山城があったんだ!
と登ってきました。まずは石切神社にお参りして参道を通って上之社へ。ここから川沿いの細い道を登っていくとやがてハイキングコースになります。
生駒山から降りてくるハイカーと行き交うと、こちらは息も絶え絶えで登っているので
「頂上まで行きなさるのか?」
「いや途中の寺までです」
「じゃあ、もう少しがんばれば着きまっせ」
「おおきに」
■鷲尾山城
山城を見に行くというと奇異な目で見られますので、とりあえず寺が目的と答えます(笑)寺は山の中腹にあると記事にありましたが、ほとんど頂上近くにありました。家から歩いて90分。確かに城砦になるような寺でした。
寺の裏山に登る道があり、途中から山に入ってみると見事な土塁や堀切跡のようなものがありました。ネットで城跡について調べましたが、この情報は出てきません。どう見ても土塁と堀切なんですがねえ違うのかなあ。こりゃ東大阪の発掘資料などにあたってみないといけませんなあ。
余野本城へ登り汗びっしょり
摂津の池田からずっと山に分け入った豊能町へ専門家派遣で行ってきました。せっかく豊能町まで行ったので山城へ行ってきました。(笑)
行ったのは余野本城。応仁の乱の後に廃城になった説もありますが、しっかりした虎口もあるので戦国時代に改修して使っていたようです。看板などがある山城はほとんどないので、城への入口をネットで調べるとネットで資材置場ちかくから尾根まで直登とあります。つまり尾根まで崖を登れということです。
行ってみたらヤブだらけ。さすがにスーツ姿では無理だなあ、冬にもう一度来るかなと思ったのですが、あきらめ悪く、そこらへんを探していると空堀を発見。空堀沿いにすすむと主郭に出ることができました。ラッキー!
なかなか広い縄張のお城で、ヤブや余計な木が伐り倒されており、とっても見やすくなっています。虎口(郭への入口)が見事で、2回、折り曲がらないと郭へ入れず、張り出した土塁から横矢がかかる仕組みになっていました。こんな複雑な虎口は戦国時代のものでしょう。土塁の高さも10メートルほどもあり、よく遺構が残っていました。堪能しましたが、汗びっしょりになりました。やっぱり山城めぐりは冬がベストシーズンです。
若江城
織田信長の臣下だった太田牛一が書いた「信長公記」によく登場するのが若江城。
難波から近鉄奈良線に乗ると途中に若江岩田駅があります。ラグビーで有名な花園の手前にあり、普通しか止まりません。若江岩田駅から商店街を抜けて、ずっと南に行くと若江城跡があります。遺構はなにも残っていなく碑がたっているだけ。
若江城は南北朝時代に北朝方の有力な守護大名である畠山基國(もとくに)が対南朝の防衛拠点として築城。大坂城の築城の時に破却されました。よく戦乱に巻き込まれ河内をおさえるには若江城攻略がかかせませんでした。足利義昭が京を追放された時も、まず若江城に入ります。織田信長が石山本願寺と戦ったいた時に織田方の前線であったのが若江城で、織田信長もよく滞在していました。
城下町には教会が建っていて旧字名に大臼(だいうす)という所がありゼウスからきているようです。遺構は残っていませんが、堀のかわりだった川は今も流れています。若江という名前は大昔にあった河内湖の港からきているのでしょう。
田原城跡(四条畷)
芥川山城 天下人・三好長慶の城
茶臼山古墳 真田幸村の陣跡
今年は大坂夏の陣から399年(来年が400周年)。
和睦で堀が埋め立てられ裸城になってしまった大坂城では野戦するしかなく、真田幸村が陣取ったのが茶臼山古墳。今は天王寺公園の中にあり、ハルカスがすぐ近くにあります。
茶臼山古墳のすぐ近くにあるのが四天王寺で、四天王寺南門前に布陣したのが毛利勝永。戦闘が始まると本多忠朝、小笠原秀政らを瞬く間に討ち取り、酒井家次・本多忠純といった部隊を次々に撃破。あわてたのが徳川方、毛利勝永の軍勢をとめようと各軍が殺到。
ぽっかり穴が空いた所に真田幸村隊が突進。松平忠直隊を突き抜け、徳川家康本陣を襲います。徳川家康の本陣は天王寺駅の少し向こうの阿倍野あたりでした。家康本陣を3回攻撃し、武田信玄との三方がケ原の戦いで馬印を倒されていらい、倒れることがなかった馬印を倒されます。家康もかなり危なかったようで、この時に家康は殺され堺にお墓が作られたという話まで残っています。
真田隊は力尽き、茶臼山古墳のすぐ北にある安居神社の地で休んでいた幸村が討ち取られます。真田隊が壊滅して戦線が崩壊すると、毛利勝永は反撃してきた藤堂高虎隊を打ち破りながら撤退します。
茶臼山古墳は上まで登れますが、かなり広い平場になっていて陣を置くには最適。大坂冬の陣では反対に徳川家康が茶臼山古墳を本陣にしていました。