綾井城

綾井城
綾井城

高石駅からずっと住宅街を歩くと専称寺という寺があり、ここが綾井城跡です。単郭の平城で郭の周りは堀が巡っていたようですが、現在は山門前の堀跡だけが残っています。「沼間日向守綾井城址」と書かれた高石ロータリークラブの白い木標があり、寺の山号も城蹟山になっています。

綾井城は和泉国の国人である田代氏によって鎌倉期に造られ、南北朝の頃は北朝方の守護・細川清氏の命を受けていたようです。戦国時代は沼間氏の影響力が強まり沼間伝内が綾井城に入ります。沼間氏は大阪湾の制海権の一翼をになっており沼間伝内は織田信長に従い、織田信長の水軍と石山本願寺に味方する毛利水軍が戦った木津川口の合戦で戦死しました。伝内の子である沼間任世も信長に仕えました。豊臣政権下では岸和田城に入った中村一氏の 配下となり、徳川時代は旗本になっています 。

「板原家文書」に綾井城主・沼間任世が天正9年に各領主から差出を提出させ、まとめて安土にもっていって領地に対して交渉しています。これが和泉検知の一環だったようです。差出を無視した松尾寺や施福寺は焼き討ちされました。

文禄2年(1593年)以降、助松(泉大津)から移転した専称寺の境内となりました。昔の絵図には一部の堀は二重になっていました。

根福寺城(和泉)

根福寺城(和泉)
根福寺城(和泉)

和泉にある根福寺城へ。

水間寺から秬谷(きびたに)川をさかのぼった秬谷・大川の集落近くの山にあります。主要街道などがない所なので非常用の山城かなと思うわりには、かなり大規模な山城になっています。一城別郭の城になっていて東と西の2つの尾根に郭群が拡がっています。山に入り込み、山道を15分ほど歩くと二重堀切がいきなりあらわれます。大規模な堀切が2つもあり、見事に侵入者を防ぐ形になっています。

東側の郭群を堪能した後、尾根を一度下って今度は西の尾根を登ります。頂上には千畳敷と呼ばれる広い郭があり、ここから泉佐野の街が見え、関空からは飛行機が飛び立つところが見えます。

根福寺城は天文年間(1532年~1555年)に細川晴元に従っていた松浦肥前守によって築かれたと云われています。最初は野田山城という名前でした。細川晴元が三好長慶と対立すると松浦肥前守は三好長慶方となり根来寺勢力と対立していましたが、根来衆が野田山城を接収して根福寺城としたようです。

豊臣秀吉の雑賀、根来攻めで根福寺城も秀吉側になったようです。西にある郭群には見事な畝状竪堀群があるとのことでしたが、切岸を降りる道がなくあきらめました。

渚陣屋跡

渚陣屋跡

京阪に御殿山駅があります。名前の通り駅近くの丘陵上に御殿(渚陣屋)がありました。

陣屋を作ったのは永井伊賀守尚庸という人物で、淀藩の初代藩主だった永井尚政の息子です。永井尚政が信濃守となった時の下屋敷があったことから東京都新宿区信濃町になっています。息子の永井尚庸は徳川家綱の小姓を務め、2万石を分与されて渚陣屋を作りました。その後、子孫はすぐ移封となったため陣屋があった時期は短そうです。

現在、陣屋跡は神社や公園になっていますが、けっこう広く、断崖で囲まれているため守りやすい城で枚方や樟葉も一望できます。発掘調査で、中世の大溝が見つかっており、陣屋の前に松永久秀方の野尻備後大夫が造った渚城があったと言われています。この野尻備後大夫ですが借金返済が滞っていると今井宗久が信長に訴えた記録が残っています。

近くには渚の院という惟喬親王の別荘があり、在原業平もよく訪れたようで渚の院をよんだ歌が残っています。

楠葉台場

楠葉台場

枚方で打ち合わせでしたので楠葉台場に寄ってきました。京阪電車の路線のすぐ横に遺構があります。なにもない畑でしたが発掘調査の後、2011年に楠葉台場跡として国の史跡として整備されました。

黒船来航以降、全国に台場が作られ、その一つが楠葉台場。京都の入口にあたる淀川左岸にあり大砲3門を備えていました。勝海舟が指揮をとり外国船が淀川を遡ってくることがないように作られましたが、外国人におびえる朝廷を安心させるためと、過激派などを京に入れさせないための関所の意味合いが強かったようです。

■鳥羽・伏見の戦い
鳥羽・伏見の戦いでは初戦で敗退した幕府軍が後退し淀城へ向かいますが淀藩に入城を断られます。しかたないので淀の先の橋本番所と楠葉台場に兵を集合させます。ところが対岸の高浜台場を守備していた津藩が新政府側について幕府軍に砲撃をはじめたため、幕府軍は総崩れになって大坂に退却します。

楠葉近辺は交通の要衝で今も名神、新幹線、JR、阪急、京阪電車が狭いエリアを走っています。写真に見える山は山崎山で秀吉と明智光秀が激突した山崎の合戦が行われたところです。

佐竹氏

佐竹氏陣跡

”今福の戦い”で豊臣方と戦った佐竹義宣は佐竹氏19代、佐竹氏は常陸源氏の嫡流で名門でした。本貫は常陸国久慈郡佐竹郷(茨城県常陸太田市)で、鎌倉公方や足利将軍家との争いに巻き込まれながら常陸を中心に戦国大名へと育っていきます。

当主の佐竹義宣は石田三成に近かったですが、関ヶ原の戦いでは家中での意見がまとまらずに中立的な態度をとります。これが問題となったのか徳川家康から突然、出羽国秋田郡への国替えを命じられ、先祖伝来の常陸を離れることになりました。国替えの原因は諸説あります。

この後、大坂冬の陣で上杉景勝と共に最前線を任せられ鴫野・今福の戦いに臨みますが、この時の陣跡が現在、若宮八幡大神宮となっています。江戸時代は国替えもなく明治維新を迎えますが、幕末はいろいろと事件がありました。まず平賀源内が遠近法などの蘭画の手法を伝えたところから生まれたのが秋田蘭画でなんと藩主までが蘭画を描いています。戊辰戦争では平田篤胤が秋田出身ということもあり尊王の意識が強く、最初は奥羽越列藩同盟に加わっていましたが離脱して新政府軍に参加、怒った仙台藩と秋田戦争を戦うことになります。

今福の戦い(大坂冬の陣)

今福の戦い(大坂冬の陣)

大坂城の北側にある鴫野村のさらに北側を大和川が流れ、川を渡った対岸が今福村です。今は大和川でなく寝屋川が流れています。

今は住宅街になっていますが当時は低湿地帯でした。兵が展開できるのは堤の上だけで周りは田んぼという状況です。豊臣方は柵を設け守備していましたが、徳川家康は附城を鴫野と今福に築くため、柵の攻略を佐竹義宣に命じます。佐竹義宣が堤を進み柵に攻めかかっていたところ、大坂城から木村重成が応援に出て反撃したため佐竹勢は後退します。ところが対岸から上杉勢が銃撃するため木村隊も進めず膠着状態になります。

そこへかけつけたのが後藤又兵衛で、ひるむ豊臣方を立て直して堤の上から銃撃を開始し、木村隊が突っ込むことで佐竹勢の先鋒隊が潰走することになります。佐竹義宣も危うくなり家老が討死にする事態となります。対岸の上杉勢に救援を求め、上杉景勝、堀尾忠晴、榊原康勝の軍勢が中州まで降りて側面から銃撃したことで豊臣方が引き上げることになりました。両者、引き分けの戦いでした。

今福の戦いの碑が三郷橋稲荷神社のすぐ横にありますが、何も残っていません。ただ堤の高低差が残っていて、かなり狭い堤の上での戦いが実感できます。真田丸での戦いが始まる2週間前のことです。

上杉景勝陣跡(鴫野)

八剱神社

大河ドラマ「真田丸」で真田丸での真田軍の奮闘を見た上杉景勝が「真田左衛門佐、日ノ本一の兵なり! 」と叫ぶシーンが出てきますが、上杉景勝は真田丸近くにはおらず、いたのははるか北の鴫野という場所です。

鴫野には八劔神社があり、ここが大坂冬の陣での上杉景勝陣所と伝わっています。ここで鴫野の戦いが行われました。豊臣方は鴫野村に柵を設置し、兵2,000で守備していましたが、徳川家康は付城を築くため、鴫野の柵の奪取を命じます。鴫野へ向かったのが上杉景勝と後詰の堀尾忠晴、丹羽長重、榊原康勝です。

上杉軍が鴫野の柵を攻撃し、柵を占拠しますが、大坂城から大野治長らが12,000の兵で来援し反撃に転じました。上杉軍は鉄砲の一斉射撃や槍兵の側面からの突撃で援軍を撃退します。

鴫野の戦いの後、上杉景勝は大坂城の東側で大坂方と対峙しましたので真田丸ははるか先です。日ノ本一の兵なり! と言ったのは大体、島津ですしね。

榎並城

榎並城
ようやく雨があがった大阪で仕事でしたので、ついでに榎並城跡へ寄ってきました。
三好長慶がまだ天下人でなく、売り出し中だった時代、三好一族の長老だったのが三好政長。出る杭は打たれるのは昔から変わらず、ついに両者は衝突します。摂津越水城(西宮にありました)を出陣した三好長慶が包囲したのが三好政長のこもる榎並城で、これが江口の戦いです。江口は旧大和川と淀川の合流地点であり交通の要衝でしたので、江口の遊女もおり、能にもなっています。
榎並城は8ケ月ほど持ちこたえたようです。膠着状態に陥ったので江口城、三宅城、中嶋城、柴島城、富松城、芥川山城など付近一帯の戦いとなり、榎並城から江口城に移っていた三好政長の戦死もあり、榎並城は放棄され三好長慶が摂津を支配することになります。
石山本願寺と信長との戦いでは本願寺側の野江城として再利用されたようです。榎並城近くを流れていた大和川も付け替えられ、今は住宅地に碑が建っているだけです。近くの野江水神社を含んだあたりが城郭だったようです。

岸和田城 防潮石垣

岸和田城 防潮石垣
岸和田城のすぐ西側(海側)を走っているのが熊野街道。大坂と熊野(和歌山)を結ぶ街道で大坂ではマイドーム大阪のすぐ近くの中大江公園の横を熊野街道が走っています。この街道から少し海側に行ったところにあったのが防潮石垣です。
岡部氏が岸和田城城主になる前の松平時代にできた古い石垣です。海ははるか西側になりましたが、当時、もっと内陸部まで海でした。800メートルにもわたる石垣でしたが、明治維新後に大部分が破壊され、今は住宅街の中に9メートルほどが残っています。

岸和田城

岸和田城
桶狭間の合戦の時、今川側の最前線だったのが鳴海城。織田信長は鳴海城対策のため周囲に丹下砦、善照寺砦、中嶋砦を築きました。この時、鳴海城を守っていたのが今川家家臣だった岡部元信。
本貫は駿河国志太郡岡部郷です。桶狭間の合戦で今川義元が討ち取られても岡部元信の織田家と戦いを続けます。開城をうながすと主君・義元の首と引き換えならということで、織田信長も敵ながらあっぱれと思ったのか義元の首級を棺に納めて渡し、鳴海城は受け渡されました。帰りがけには刈谷城を攻撃し、織田方の水野信近を討ち取ったとも伝わる剛の者です。
岡部家は今川が滅んだ後は武田に仕え、武田が滅ぶと徳川家康に仕えました。江戸時代となり、この岡部一族が藩主として入ったのが岸和田城です。岡部家は13代、明治まで続きました。