岸和田城

岸和田城
桶狭間の合戦の時、今川側の最前線だったのが鳴海城。織田信長は鳴海城対策のため周囲に丹下砦、善照寺砦、中嶋砦を築きました。この時、鳴海城を守っていたのが今川家家臣だった岡部元信。
本貫は駿河国志太郡岡部郷です。桶狭間の合戦で今川義元が討ち取られても岡部元信の織田家と戦いを続けます。開城をうながすと主君・義元の首と引き換えならということで、織田信長も敵ながらあっぱれと思ったのか義元の首級を棺に納めて渡し、鳴海城は受け渡されました。帰りがけには刈谷城を攻撃し、織田方の水野信近を討ち取ったとも伝わる剛の者です。
岡部家は今川が滅んだ後は武田に仕え、武田が滅ぶと徳川家康に仕えました。江戸時代となり、この岡部一族が藩主として入ったのが岸和田城です。岡部家は13代、明治まで続きました。

山下城(出城)

山下城
山下城の隣山、ちょうど能勢街道(173号線)のトンネルがある向山の頂上に山城があります。
山下城の出城といわれていますが、どうも山下城と縄張りの作り方が違っているようで、別の城の可能性があります。山城はたくさんあり、誰が造ったか分かっている方が珍しいのが実態です。ひょっとすると山下城攻めで使われた陣城かもしれません。
けっこう大きな単郭で堀切がありました。この堀切の途中に近代城郭のように折れがあり、横矢がかかるようになっています。堀切といえば真っすぐ造るのが定番ですが、けっこう技巧的な構造になっています。
城に向かう山道はなさそうなので、とりあえず山下城から下って谷へ降ります。谷へ降りる途中、木立を突っ切っていく時にメガネを落としてしまい、20分ほど横山やすし状態でメガネを探していました。ようやくメガネを発見し、今度は谷から切岸を登りようやく城へたどりつきました。途中には野生のリスもいて、前回、山下城へ行った時は野生の鹿にも遭遇しましたので、能勢の山々は自然豊かです。

山下城(一庫城)

能勢電鉄・山下駅そばにある山の頂上にあるのが山下城(一庫城)。
源満仲を祖に持つ多田武士団(多田院御家人)の筆頭のような存在だった塩川氏の城です。一度、道がわからず散々苦労して登りましたが、郷土博物館の近くから山道があるのを前回、行った時に見つけており、今回はすんなり登ってきました。山道の途中には社があり、これが郭跡の一つで能勢の町が見渡せます。頂上には三段になっている広い広場の郭と土塁が残っています。また尾根沿いにも三段ほどの郭があり、かなり大きな山城です。
■塩川氏
戦国時代、塩川氏は守護の戦いに巻き込まれ山下城で三好長慶と戦っているようです。三好長慶亡き後の三好氏とも敵対していた関係から織田信長が足利義昭を擁して上洛した時は信長に協力して摂津から三好勢を追い落とすのに協力しています。そのあと、信長の家来になったようで、荒木村重が信長に謀反を起こした時には有岡城(伊丹城)攻めにも参加していますし、本願寺攻めにも加わっています。同じ能勢の国人で多田院御家人だった能勢氏や野間氏とは犬猿の仲でよく争っています。
信長が本能寺の変で倒れた時には秀吉に属して、山崎の合戦にも出陣します。ところが能勢氏が秀吉の命令で島津征伐に出かけている留守を狙って塩川氏が攻撃したため秀吉は激怒。片桐且元・池田輝政・堀尾吉春らを討抜軍として山下城に派遣し、塩川氏は没落したと「多田雪霜談」なる軍記物に出てきますが、この頃に能勢氏はすでに没落していたはずで、軍記物の話はどうもトンデモ話のようです。

和泉葛葉城

信田森葛葉稲荷神社
陰陽道で有名な安倍晴明のお母さんは狐でした。
阿倍野にいた安倍保名という若者が願掛けで信太の森の稲荷へ日参したところ、葛の葉という女性と出会い、やがて子供が生まれます。これが安倍晴明。ところが葛の葉がキツネということがばれて姿を消してしまいます。この舞台となったのが北信太駅の近くにある信田森葛葉稲荷神社です。安倍晴明が生まれた場所は東天下茶屋駅近くに安倍晴明神社になります。
安倍晴明はどうでもよくって(笑)、ここにあったのが和泉葛葉城と言われています。神社の北側には土塁が巡っていますが、けっこう低くなっていて本当に土塁だったのかは不明です。城だとすると単郭だったようです。

吉川城(能勢)

妙見山
最近のGoogleマップには困ったもので、マイナーな山城まで掲載されています。能勢の山城を巡り能勢電鉄・妙見口駅に戻ろうとマップを見ると駅の近くに摂津・吉川城跡という文字を発見。
城跡の大体の場所が分かったので、とりあえず山登りを開始。ところが頂上付近にたどりついても城の遺構はなく、GPSを確認すると隣の山の頂上でした。つくづく便利な世の中になりました。
というわけで尾根道を探して歩くと途中でハイキング道を発見。あとは道なりに山を登ると吉川城へたどりつきました。単郭で郭の周りに土塁などが残っていました。ベンチなども置かれていて能勢の街を見渡すことができます。写真は吉川城へ登る途中から見た妙見山で妙見山ケーブルが見えます。(冬は動いていません)
吉川城は多田院御家人だった吉川氏が城主でしたが、「高台寺日記 塩川家臣日記」によると塩川氏に吉川城を攻撃され丹波に逃げたとあります。能勢、野間、吉川は塩川氏と対立していたようで、いろいろな戦がこの地で行われた模様です。

地黄陣屋

地黄陣屋
織田信長と対立し、本能寺の変では明智光秀に味方したことから能勢頼次は備前岡山に落ち延びました。月日が流れ徳川家康が京都の実相寺(日蓮宗)で休憩した時、住職が能勢頼次の弟だった縁から、能勢頼次は家康に召し抱えられることになります。関ヶ原の戦いで戦功を立て、家康から能勢の領地を与えられます。
別の説もあり秀吉の九州征伐に能勢頼次が従っていた時に犬猿の仲だった塩川氏が能勢氏を攻め、急遽大坂へ戻った能勢頼次が秀吉に訴えて塩川氏を滅ぼしたという説です。いずれにしても能勢氏は江戸時代、徳川家に仕えることなりました。丸山城の代わりに新たに地黄城(地黄陣屋)を構築します。今は能勢町東中学校となっていますが、石垣などが残されています。地黄は薬草の地黄草からきており、能勢には平安時代、朝廷の典薬寮領の地黄御薗がありました。
故郷の地を回復できた能勢頼次は為楽山城の跡地に仏堂を建て、これが能勢妙見山となります。参詣者が増え、全国的に「能勢の妙見さん」が有名となります。能勢家は江戸の本所に下屋敷があったことから屋敷内に妙見菩薩を勧請し、これが妙見山別院となります。勝海舟が子供時代に大けがをした時、父の小吉が水垢離のために日参したのが妙見山別院となります。

丸山城(能勢)

丸山城
丸山というこんもりとした山があり、ここに能勢氏の山城がありました。
能勢氏は多田源氏の流れをくみ摂津を代表する御家人で、鎌倉時代は田尻や野間などの地頭職をしていました。室町時代は代々足利将軍家に仕え、将軍家直属の奉行衆でした。戦国期は摂津守護細川京兆家の被官であり、応仁の乱では東軍の細川勝元に味方し能勢頼弘らが討死します。
源満仲から数えて22代目にあたる能勢頼通は、京へ上洛した織田信長に対抗したため、信長の命を受けた塩川氏(能勢・山下城)によって殺されてしまいます。能勢氏では、頼通の弟の能勢頼次を後継として戦いますが、丸山城は落城し、居城を為楽山(いらくさん:現在の妙見山)に移します。
能勢は亀岡に近く、能勢頼次は明智光秀と親しい関係であり、また兄が信長に殺されたことから、本能寺の変が起こった時には、明智光秀に味方しますが、光秀が秀吉に敗れたことから備前岡山へ落ち延びます。
丸山城はきちんと整備されており主郭からは地黄の街並みを一望できます。

野間中城(能勢)

野間中城
野間城の山裾を川が流れていますが、川の反対側にある山にあるのが野間中城。
山城へ行くには通常、案内板も何もないので、どこから山へ入れるか事前調査が必要です。野間中城を調べましたが、いずれのサイトや書籍にも”道はなく、がんばって直登しましょう”と記載されています。というわけで直登してきました(笑)。山頂へ出ると郭が2つほどあり、土塁も残っていました。
野間氏の記録に新城を築いたが途中で中止になったという記述があり、これが野間中城のようです。城というと代々、お殿様が住んでいるイメージがありますが、戦国時代には臨時的な城もたくさんありました。特に附城は1回きりの攻撃でしか使われません。ある程度出来上がっていたのに、なんで中止になったんですかねえ。
奈良ホテルのすぐ横に西方院山城跡がありますが、ここも最初の計画と違って、途中で中止となり、すぐ隣、現在の奈良ホテルの場所に鬼薗山城が作られました。

野間館(能勢)

野間館
野間城の麓に野間館跡があります。敷地は削平されており広く、周りに土塁も残っています。ただ案内板もなにもありません。大阪では珍しく平時に使う麓の館と山頂にある詰城の両方が見学できます。ここに多田院御家人だった野間氏の館がありました。
阪急宝塚線の川西能勢口駅から能勢電鉄が出ており、途中に多田駅があります。駅近くに多田源氏発祥の地である多田神社(多田院)があります。清和源氏武士団発祥の地であるため源氏の流れをくむ足利、徳川ともに多田神社を源氏霊廟としていました。もっとも徳川は源氏詐称のようです。
清和源氏の源満仲が多田荘を所領としたことから多田満仲を名乗り、ここから多田源氏となります。やがて源頼朝が登場し、清和源氏の嫡流を名乗りましたので多田荘を奪われることとなり、多田源氏は没落したようです。多田荘は多田源氏の庶流や累代の家人たちによって構成される多田院御家人によって在地支配され、野間城を築いた野間氏も多田院御家人でした。

山城ガールがいた野間城

野間城
摂津・野間城へ。
主郭や堀切を見て山道を降りてくる途中で出会ったのが若い女性。
「上までだいぶありますか?」
「もう少し、上がったところから城になっています」と返答。会話はそれだけでした。
野間城はハイキングコースではないし、飯盛山城や芥川山城のようにメジャーな山城ではありません。山道への案内はなく、城の入口を自力で調べないと入れないようなマイナーな山城です。たまに同じような山城マニアのオジサンには山道で会ったりしますが、それもマレですね。ましてや女性の山城ガールは初めてです。いよいよ山城の時代です(笑)。
野間城は摂津の国人だった野間氏の詰城です。能勢郡には朝廷に銅をおさめる採銅所があり、野間氏は鎌倉時代ぐらいから銅に関わっていました。野間城の主郭には白髭稲荷社が昔あったようで、山道もきれいに整備されていました。主郭は広く、裏側の尾根をすごく深い堀切で切断していました。