猿飛佐助の故郷 三雲城

近江・三雲城

三雲城

六角氏の重臣だった三雲氏の居城で1487年に築城されました。六角氏の逃げ城としても有名で織田信長が足利義昭を奉じて上洛する時にたちはだかったのが六角氏。観音寺城を拠点にしていましたが、すぐ隣の箕作城が攻められて落城したことから、六角氏が逃げこんだのが三雲城です。

三雲城は5つの郭から構成され入口には石垣で造られた枡形虎口が残っていました。山城には珍しく、よく整備されていますね。三雲城のノボリには「猿飛佐助のふるさと」と書かれています。ホンマかいなあ。

■猿飛佐助のモデル
調べてみると猿飛佐助は真田十勇士の一人で霧隠才蔵とともに有名ですが、司馬遼太郎が「風神の門」という真田十勇士の小説を書いた時に江戸時代から猿飛佐助の名前はあり、三雲佐助賢春が猿飛佐助のモデルになったと紹介しています。真田幸村が九度山にいた時に三雲佐助賢春がいたという書も残っているそうです。甲賀忍者の里ですからねえ。あながち嘘というわけでもなさそうです。

恩智城

東高野街道沿いにあるのが恩智城。

恩智城
恩智城

街道をそれて高台を登ると児童公園になっていて、ここが恩智城跡。遺構はないのですが郭跡などがよく分かります。東高野街道をよく監視できる場所にあります。城を造ったのは恩智左近で、さらに高台を登ったところにある恩智神社の社家の出と伝わっています。

後醍醐天皇の建武の新政時代に恩智城が造られたようです。恩智左近は楠木正成と一緒に戦った八臣の一人で千早城籠城などでともに戦い、楠木正成が討ち死にする湊川の戦の後は、楠木正行を助けて四条畷の戦いに出陣。討ち死にしたとも病死したとも伝わっています。四条畷は東高野街道を北に上がったところですので、楠木正行も恩智城に寄って北上したのでしょう。

上京の堀

応仁の乱で京都は焼け野原となり、戦国時代は現在のような整然とした街ではありませんでした。なんせ自力救済の世界なので上京と下京で、それぞれの街が防衛することになります。街の外周を土塁や堀で囲み、惣構えとしました。上京と下京をつないだ道が室町通です。

上京の堀
上京の堀

京都府警本部の新築工事の際に幅5m、深さ3.5mの堀が検出され上京を守る惣構えの一つでした。戦国時代が終わり、天下統一をはたした秀吉が京都の町を囲む御土居や寺を集中させた寺町通りなど都市改造を行って京都は発展していくことになります。

足利義昭が織田信長に対して挙兵した時に信長は和平交渉しながら幕府や幕臣を支持する商人などが多く住居する、上京を焼き払っています。義昭に圧力をかける狙いでしたが、せっかく復興して街づくりをしたのに、ふんだりけったりです。そうそう当時の本能寺は下京の北西にあり、総構えの外側でした。

二条城 その5

二条城シリーズの第5弾です

二条城
二条城

関ヶ原の戦いで勝利した家康は西国の諸大名に二条城造営費用と労務の割り当てを行います。いわゆる天下普請です。

京都は碁盤の目になっていますが、家康が造った二条城はこの碁盤の目から東に3度傾いています。当時、西洋から入ってきたコンパスを使って縄張りを決めています。方位磁石の指す北は地球の自転の影響で動き続けています。家康の時代の京都では真北から東に3度傾いていたようです。当時の技術者も二条城から堀川までの距離が北と南で違っていると認識していましたので、分かっていてやっていました。朝廷に対して徳川は最新技術をもっているというアピールでもありました。

二条城 その4

二条城シリーズの第4弾です。

二条城
二条城

関ケ原の戦いの後、家康が造った二条城ですが、信長の二条新御所、秀吉の妙顕寺城のすぐ西側で武家政権のトップとして二条にこだわりました。足利将軍の二条御所(武衛陣)からの流れを組んでいます。

二条城で家康と豊臣秀頼の会見が開かれ、立派に育った秀頼を見て豊臣家をつぶす決意をしたとも言われています。家光の時代まで二条城は使われていましたが幕末まで、あまり修理されることなく放置されていました。徳川家茂の上洛にあわせて改修が行われ、教科書で有名な徳川慶喜による大政奉還が行われた場所でもあります。

二条城 その3

二条城シリーズの第3弾、妙顕寺城です。

妙顕寺城
妙顕寺城

秀吉は本拠地を大坂にしましたが、朝廷との交渉で京都に来ざるをえません。宿泊地が問題となり、信長が造った二条城新御所の西側にあった妙顕寺を移転させ、1583年(天正11年)に城を造りました。今も古城町という地名が残っています。信長が本能寺の変で亡くなったことを教訓に堀や天守閣を備えた強固な城としました。通常は朝廷との交渉役だった京都所司代・前田玄以が在城していました。後の五奉行の一人です。

この妙顕寺城が3つ目の二条城です。足利義昭の二条城など二条という土地は、武家政権にとって聖地となっていました。秀吉が公家の最高位である関白となったことで気にしなくてもよくなり、平安時代の大内裏の跡地に聚楽第を作り、この妙顕寺城より移りました。

二条城 その2 二条新御所

二条新御所跡です。場所は烏丸御池駅近くで京都国際マンガミュージアムがあり、二条殿町という町名が残っています。信長が足利義昭のために造った二条城ですが、武田信玄が挙兵すると、信長が負けると、まずいと思った足利義昭が挙兵し槇島城の戦いで敗れます。足利義昭は京都を追放され若江城へ退きますが、二条城を守備した三淵藤英(「麒麟がくる」では谷原章介が演じていました)は切腹、二條城は廃城となります。

二条新御所跡
二条新御所跡

信長は上洛した時に妙覚寺を使っていましたが、二条晴良から二条邸を譲り受けたため新しく二条城を造ります。主殿は松永久秀の多聞山城から移築しました。信長は新しい二条城を宿泊地に使っていましたが、正親町天皇の皇太子・誠仁親王に献上し、二条城は親王家の御所となります。これで二条新御所となります。

■本能寺の変の舞台
本能寺の変が起きた時、妙覚寺に宿泊していた織田信忠は本能寺が既に落ちたことを知り、防御能力に優れた二条新御所へ移ります。誠仁親王には内裏に移ってもらい、ここで明智軍と戦い、亡くなります。織田信忠と一緒に戦っていたのが弥助です。モザンビーク出身で南蛮人が連れてきたのを信長が譲り受けて侍にした黒人です。弥助は捕縛されましたが明智光秀は日本人ではないからと許し、南蛮寺へ行くことになります。本能寺の変の詳細がイエズス会からヨーロッパに報告されます。

この二条新御所には大きな庭園があり龍躍池(りゅうやくち)と呼ばれる池がありました。これが御池通りの由来となります。

二条城 その1

大政奉還の舞台となった現在の二条城ができる前に、いろいろと二条城がありました。まずは足利義昭の二条城です。織田信長が足利義昭を奉じて上洛。義昭は将軍に就任し仮の御所である本圀寺に入ります。信長が岐阜に帰ったすきをついて三好三人衆らが将軍を襲撃します(本圀寺の変)。

二条城
二条城

「麒麟がくる」では十兵衛(明智光秀)が米蔵の地下にある部屋に義昭を匿っていました。義昭の側近らが必死に奮戦し撃退します。信長もかけつけ足利義昭の無事を確認。城が必要だと認識した信長が造ったのが二条城です。武衛陣の跡地を中心に堀などをもうけた本格的な城を造ります。信長自身が普請総奉行として現地で陣頭指揮をとります。

ポルトガルの宣教師、ルイス・フロイスが初めて織田信長とあったのが、この二条城の工事現場。信長は堀の橋の上で待っていたと著書「日本史」に書いています。よくドラマや映画などで描かれるシーンです。二条城には二重の堀があったとも記載されており、2012年に内堀跡が発見されフロイスの記載通りでした。

武衛陣

「鎌倉殿の13人」で上総広常(佐藤浩市)が源頼朝を「武衛ぶえい)」と呼ぶシーンがあり、頼朝が喜んでいますが、武衛とは天子を守る武官を唐名で呼んだ時の言葉で「佐殿(すけどの)」より尊称になります。ちなみに中納言の唐名は黄門で、中納言の官職をえていた水戸光圀は水戸黄門と呼ばれていました。鎌倉時代の後、室町時代に御所警衛や京内巡視などを担当していた斯波氏が武衛と呼ばれていました。

武衛陣
武衛陣

この斯波氏の邸宅が現在の京都御所のすぐ近くにあり武衛陣と呼ばれていました。今も武衛陣町という地名が残っています。応仁の乱の頃になると武衛陣は数多くの櫓を備え、堀を巡らした城となります。戦国期になると斯波氏は守護だった尾張へと移り、跡地は将軍御所として使われました。「麒麟がくる」では剣豪でもあった将軍・足利義輝を向井理が演じ、三好軍の襲撃を受けて最後を遂げますが、その場所になります。

大坂城 乾櫓

日本フルハップさんで大阪府よろず支援拠点のセミナー&相談会を開催。テーマは「IT化のいろは」でした。セミナー会場は大阪城の目の前のビルの上で乾櫓がすごくよく見えます。

乾櫓
乾櫓

乾櫓は大坂城の西北方向を守る櫓でお堀側に突き出しています。乾櫓といえば三代将軍・徳川家光ですね。

大坂の陣で大坂は焼け野原となり復興するために徳川家光は大坂や堺の地代を永久免除にします。町人代表らに乾櫓近くの堀端に集まるよう指示を出し、集まった町人たちに分かるよう乾櫓に入った家光が金の采配を振ります。これが地代免除決定の合図でした。徳川の世が続いていたら今も税金無しだったのに(笑)

感謝した三郷の惣年寄が協議し、釣鐘を造らせて町中に時報を知らせることにしました。釣鐘屋敷を建て2時間おきに1日12回撞かれました。今は釣鐘町のマンションの一角に釣鐘があります。