筒井古城(伊賀上野)

伊賀上野城があった台地にはもともと平楽寺がありました。織田信雄が伊賀を拠点にするために丸山城の築城を始めた時、伊賀衆が平楽寺に集まり、完成前の丸山城攻撃を決定します。伊賀衆に攻められた丸山城は陥落。そこで織田信雄は信長に相談せず独断で伊賀に侵攻しましたが、伊賀衆に負けてしまいます。信長は親子の縁を切ると大激怒。

筒井古城(伊賀上野)
筒井古城(伊賀上野)

ただ伊賀をほっておくわけにもいかず、信長は大軍勢で伊賀攻めを行います。城になっていた平楽寺も落城し、伊賀はせん滅状態になります。翌年、本能寺の変が発生。天下を握った秀吉は大和の国を弟である羽柴秀長にまかせることにして、大和の筒井定次を伊賀に移すことにします。大和を支配した筒井順慶が有名で、「麒麟がくる」では松永久秀とのバトルをしていましたが、子供がいなかったため養子となった筒井定次が筒井家を継ぎます。

■筒井定次の伊賀上野城
天正13年(1585)に筒井定次が平楽寺のあった台地に伊賀上野城を築きます。これが筒井古城です。天守の東には城代屋敷跡があり、ここが筒井古城があった場所。藤堂時代の石垣を修理している時に奥から筒井時代の石垣が見つかっています。ここの北東に三層の天守閣がありました。江戸時代までは残っていましたが台風で倒壊したようです。この天守閣があった天守台に登れますが、案内も何もなく、少し藪をかき分けないといけないので、今まで登っている人を見ることはありません。

貝塚御坊の堀

本願寺は、けっこう引越しをしています。

貝塚御坊の堀
貝塚御坊の堀

本願寺はもともと京都の大谷にありましたが、戦国時代は宗教戦争の時代でもあったので延暦寺の衆徒によって破却されます。越前の吉崎に移り、やがて山科に本願寺を作ります。寺といいながら中身は城で、高い土塁や堀、郭から構成されていました。山科中央公園に今も当時の土塁跡が残っています。堅牢な城でしたが京都の日蓮宗徒と近江の六角定頼の連合軍によって攻められ焼かれます。

こうして移ったのが大坂の石山本願寺。ところが信長と敵対したことで10年にわたる戦いになります。信長は天王寺砦などを構築して攻めますが、なかなか決着しません。最終的には和睦となり本願寺は紀伊の鷺森に移ります。秀吉の時代になって貝塚に移り、これが貝塚御坊(願泉寺)になります。貝塚御坊も寺内町になっていて周りを堀で囲んだ環濠になっています。感田神社に堀跡の一部が残っています。

このあと貝塚から天満に移り、やがて京都へ戻ります。家康の時代になると勢力をそぐために西本願寺と東本願寺に分けられます。

千石堀城

千石堀城の隣の尾根
千石堀城の隣の尾根

高井城と同様に根来衆の出城となっていたのが千石堀城です。高井城とは近木川をはさんだ反対側にあります。千石堀城は周りを囲む堀が二重になっていて、特に東堀と北堀が明瞭に残っています。主郭へ続く虎口は食い違いになっています。千石堀城には根来方が千数百人が立て籠もり、なかなか落城しませんでしたが、筒井順慶軍が放った火矢が城内の火薬に引火し爆発で落城したといわれています。

千石堀城ですが、以前は藪から直登するしかなかったのですが、空堀に入れる遊歩道ができており、難なく郭内に入ることができるようになっています。紛らわしいのは紀泉鉄道計画路線跡に出ている案内版で城とは反対の南の尾根に登るようになっています。千石堀城を攻める付城がないかなと登りましたが展望台があるだけで遺構はなかったです。展望台からは遠くに関空が見えます。

高井城

秀吉と家康が直接、戦った小牧・長久手の戦いですが、関ケ原の合戦と同様に戦場は全国で家康に呼応していた根来衆は岸和田城を攻めます。城主は中村一氏でなんとか根来衆を撃退します。この時に大蛸に乗った僧と数千の蛸に城を救われたという伝説から蛸地蔵駅があります。

高井城
高井城

翌年、天正13(1585)年に秀吉は紀州根来衆征伐に乗り出します。大坂城から10万の軍勢を率いて岸和田城に入場します。根来衆は貝塚の海から山まで近木川沿いに出城を13も築きます。その一つが高井城。現在は公園になっていて案内板だけがあります。3つの郭と3重の堀に囲まれていました。籠城していたのは根来寺の行左京・熊取大納言と近隣の農民約200名でしたが福島正則の軍勢によって攻められ落城しました。

二上山城(雌岳)

二上山の雄岳から馬ノ瀬に降りて、今度は雌岳に登ります。雌岳も山城跡で頂上の郭をとりまくように郭が配置されています。雌岳は周りの木が切りはらわれているので河内国、大和国ともよく見えます。二上山城は大和と河内の国境にある絶妙な位置にあり、昔から要の城になっていました。

二上山(雌岳)
二上山(雌岳)

二上山城を築いたのは楠木正成で河内国七城の一つであると考えられていますが裏付けはありません。確実なのは河内守護だった畠山氏が古市の高屋城の支城として二上山城を整備していました。室町時代にいろいろと改修され、合戦の舞台となりました。現在の城郭になったのは木沢長政の時代のようで木沢長政は河内、山城南部の守護代で主家を上回る下剋上を成し遂げた人物です。三好長慶に敗れて討死しますが、死ななければ信長や松永久秀のように著名な戦国武将となったでしょう。

倉治城

Googleマップはどんどん優秀になっていて山城の本などに出てこないマイナーな城まででてきます。甲賀へ行った時にGoogleマップで見つけたのが倉治城というお城。

倉治城
倉治城

実際に行ってみたら高台になっていて確かに城を造るには敵地です。跡地は農地や住宅が建っていましたが、低い土塁が残っていました。東側は高台ですが西側がなだらかに丘が続いているので、こちらには堀切かなにかを設けてのでしょう。倉治と呼ばれる集落で、ここは甲賀53家の一つである倉治氏が支配していました。

第9代将軍・足利義尚が近江守護・六角高頼を攻めた鈎の陣では倉治氏は六角氏側で武功をあげたようです。鈎の陣は甲賀忍者がはじめて登場したと言われる戦いでした。

望月支城

望月城を降りて次は望月支城を目指します。支城となっていますが、同じ望月氏の独立した城で、何かあった時は望月城と連携していたのでしょう。望月支城へは谷を越えて高台に登っていきます。

望月支城・入口
望月支城・入口

事前にネットで調べると土塁を直登したなどの記載があり、こりゃ城までの道はないなと覚悟しましたが、道路から藪に入ると土塁の外側にスロープ上の道がありラッキー。なんなく城に入れました。望月支城は虎口が一つの典型的な方形プランです。織田信長が足利義昭を奉じて上洛した時に敗れた六角氏は甲賀に逃げましたが、六角氏は望月氏と連絡をとっていたため、一時期、望月城か望月支城に留まっていたようです。

望月城

甲賀の杉谷にある望月城へ

望月城
望月城

新宮城、寺前城,村雨城などは甲賀郡中惣遺跡群として国指定史跡となっているため看板が設置され分かりやすいのですが、望月城はふつうの山城と同じで何の目印もありません。大体、城があるあたりにあたりをつけ、集落を抜けると細い山道がありました。この山道を登ると神社の祠があり、山道は神社への道でした。この神社がちょうど郭の一つになります。

さらに奥に向かうと土橋があり、虎口を入って望月城の主郭にはいれます。甲賀の典型的な方形の郭で、ぐるりと土塁が巡っています。高さは7mぐらいですね。北東隅の土塁は少し広いので櫓台があったようです。

寺前城

大谷池
大谷池

村雨城から谷に降りて進み、土塁を登ると寺前城があります。村雨城と寺前城は2つの城が連結したタイプで新宮城・新宮支城と同じです。別の説では一つの城で村雨城が主、寺前城が従で運用していたのではないかとも言われています。

寺前城の前面には大谷池が拡がっていますが、近世に用水池として整備されたもので城が造られた頃は谷だったのでしょう。大谷池側の方は遺構が改変されているので、よく分かりませんが反対側などは虎口に行くまでに喰い違いになっていたり、かなり複雑で技巧的で、楽しめます。

村雨城

村雨城
村雨城

国の史跡になっている甲賀郡中惣遺跡群の村雨城です。丘陵の北端に築かれ、城の入口には忍者がひっついた大きな看板もあり、中も整備されています。ただ文献等には登場せず、城主や歴史など不明です。5つほどの郭で構成され大きな郭が2つあり、主郭のまわりは土塁で囲まれていました。土塁に登ると深い堀切を見ることもできます。虎口は平虎口になっています。織田信長の上洛時に敗れた六角氏が甲賀杉谷へ逃げましたので、その時にも改修されたのでしょう。

昔のファミコンゲームに「謎の村雨城」があり、ゲームは村雨城を乗っ取った敵を倒すため、幕府が送り込んだ青年剣士を操作するゲームでした。一部マニアには、ここが舞台ではないかと言われています(笑)。知らんけど。