伝織田信長陣跡(虎御前山城)

虎御前山はいくつもの峰で構成されており、一番高い峰にあるのが伝織田信長陣跡。

伝織田信長陣跡(虎御前山城)
伝織田信長陣跡(虎御前山城)

尾根道をひたすら歩くとたどりつけます。陣跡といいながら復元図を見ると完璧な城ですね。「信長公記」にも「巧みに仕上げられた砦の結構なことは、これまで見聞きした多くの砦に見られぬもので、みな眼を見張ったものである。」と記載されています。長桝型虎口や堀切などが残っていて、陣跡から小谷城や琵琶湖がよく見えます。

虎御前山城は小谷城から500mしかない目の前にある付城で、各武将の陣がずらっと並び、兵が動いている姿も小谷城からよく見えたはずで心理的効果は絶大だったでしょう。

伝堀秀政陣跡(虎御前山城)

伝滝川一益陣跡から尾根道を歩き次のピークにあるのが伝堀秀政陣跡。

伝堀秀政陣跡(虎御前山城)
伝堀秀政陣跡(虎御前山城)

館が造られていたようで建物を建てた礎石跡が見つかっています。横堀や竪堀などもあり、けっこう本格的な陣だったようです。堀秀政は織田信長の小姓から一軍の将になっていきます。本能寺の変の時は秀吉の軍監(お目付役で合戦後の論功行賞も担当)として備中高松城攻めに参加しており、中国大返しをして山崎の戦いに参陣しています。

秀吉のもとで北ノ庄攻めなどに従事。小牧・長久手の戦いでは秀吉側で池田恒興や森長可らが討死する大負けのなか堀秀政だけが家康軍を敗退させています。小田原征伐の最中に陣中で病のために亡くなりました。

滝川一益陣跡(虎御前山城)

小谷城のすぐ近くにあるのが虎御前山城。

滝川一益陣跡(虎御前山城)
滝川一益陣跡(虎御前山城)

小谷城を攻略するために織田軍が築きました。秀吉が城番を勤める横山城の前線基地になります。小谷城の目の前に附城が造られたため浅井軍に与えるプレッシャーは大きかったでしょうね。虎御前山は、四方の見通しがきく独立丘陵になっていて、各武将が陣地を構築しました。南の方は公園になっていますが、真ん中あたりにある伝滝川一益陣地跡あたりから堀切などが残っていて山城らしくなります。

伝滝川一益陣地跡は古墳を活用して造られています。滝川一益は甲賀出身と言われ織田家の宿老を勤めていましたが本能寺の変の後、北条勢との戦いなどで清須会議に出遅れてしまいました。

姉川の戦い

元亀元年(1570年)6月28日に起きたのが姉川の戦い。

姉川の戦い
姉川の戦い

金ヶ崎城で浅井長政の裏切りから挟撃されるところを逃げ出した信長ですが、体制を立て直し朝倉・浅井と対峙することになります。信長は小谷城とは姉川を隔てて南にある横山城を包囲し、横山城の北側にある竜ヶ鼻に布陣します。ここに徳川家康が応援にかけつけます。

浅井方には朝倉景健が援軍を率いてかけつけ小谷城の隣にある大依山に陣を構えます。朝倉・浅井軍が山の影に入った時に信長は陣を引き払ったと判断し横山城攻めのために包囲網をしいて本陣が手薄になったところを朝倉・浅井軍に攻め込まれます。激戦となり信長もあわやという事態があったようです。家康が伸びきった攻撃軍に横やりをいれて救ったとありますが、後に天下をとった徳川の言うことですから、よく分かりません。

最終的には織田・徳川軍方が優勢となり、この後、横山城は降伏して開城することになります。写真は信長が陣をひいた竜ヶ鼻方面から見た戦いの舞台です。

近江 横山城

新幹線が米原駅を過ぎトンネルを抜けると左手に一瞬、見えるのが伊吹山城の麓にある横山城です。前から登りたかったのですが、ようやく念願がかないました。

横山城
横山城

横山城は領地の境にある境の城でした。もともとは浅井氏と六角氏が戦っていた時に浅井氏が築いた城です。浅井長政が信長と対峙するようになった時、美濃から北陸へ抜ける北陸脇往還街道のすぐそばにある城でした戦略上の要衝でした。横山城攻めで頑張ったのが秀吉で、城を手に入れてから信長に城番に任じられます。秀吉はここを拠点にして浅井氏の家来に対して攻略を行います。

横山城は北城と南城の一城別郭になっています。北城には見事な二重堀切などがあり、楽しめます。北城の主郭からは伊吹山や現在の国道365号線(北陸脇往還街道)を眺めることができます。

大谷吉継の敦賀城

敦賀港のすぐ近くにあったのが敦賀城という水城。

敦賀城
敦賀城

城跡は残っておらず碑が建っているだけ、堀跡が川として残っていて海まで続いています。敦賀城の城主で有名だったのが大谷吉継。大河ドラマ「真田丸」では片岡愛之助が演じていました。

大谷吉継は家康の上杉討伐に参加するため敦賀をたち、途中で逼塞していた佐和山城の石田三成を訪ねます。これが転機となり三成と一緒に挙兵して関ケ原の戦いになだれこみます。石田三成から挙兵を打ち明けられ、大谷吉継は「無謀であり、三成に勝機なし」と言いながら、最後は友情をとって挙兵したと言われていますが、実際はどうですかねえ。

十分に勝機はあり、豊臣側の了解をとりつけ家康を反逆軍にすることに成功。また関ケ原の周辺に3つの山城(1つが松尾山城)を整備し、万全の体制を整えていました。大津城攻めに参加していた立花宗茂を関ケ原に早めに呼び出し、総大将の毛利輝元が領地を増やそうと九州で画策などしなければ十分に西軍有利だったのですが...。関ケ原の後、敦賀城は廃城となりました。

手筒山城

金ヶ崎城から尾根筋を進むと手筒山城(天筒山城)があります。ハイキングコースになっていてアップダウンはきついですが標高174.3mの手筒山山頂に登れます。山頂にあった主郭などの郭群は公園になっていますが、途中に竪堀や土塁や郭跡などが残存しています。ハイカーにとっては単なる藪ですが(笑)。

手筒山城
手筒山城

写真は手筒山城から見た金ヶ崎城で、尾根の先端に金ヶ崎城は築かれていました。新田義貞の時は金ヶ崎城を攻撃する足利軍の陣城として使われていたようです。戦国時代は越前の西を守る第一防御線として運用され、金ヶ崎城を朝倉景恒が守り、手筒山城は寺田采女丞が守っていました。

織田軍は手筒山城の北側背後から攻撃し落城させます。金ケ崎城の朝倉景恒は開城して城を明け渡し退却します。この後に浅井長政の離反が判明し金ヶ崎の退き口へとなります。

太平記の舞台「金崎宮」

「金ヶ崎の退き口」以外で有名なのが金ケ崎城の麓にある金崎宮で「恋の宮」です。

金崎宮
金崎宮

恒良親王と尊良親王を祭神として明治になって作られたのが金崎宮。この時代、男女の出会いの場となる「花換まつり」が始まります。「花換えましょう」と声を掛け合い、金崎宮で受け取った桜の小枝を交換するお祭りで、まあ合コンですなあ。というわけで金崎宮は縁結びの「恋の宮」になっています。

さて祭神となっている親王ですが室町時代初期の話です。

■金ケ崎城で戦った親王と新田勢
楠木正成らと足利尊氏と戦った新田義貞は湊川の戦いで破れ、楠木正成は討死します。新田義貞はなんとか近江の坂本へ逃れ反転攻勢をかけようと思っていました。ところが京都に入った足利尊氏は後醍醐帝と手を組むことになり、この一件は新田義貞には知らされていませんでした。御醍醐帝もさすがにまずいと思ったのか新田義貞に恒良親王、尊良親王をつけて北陸へと向かわせます。この後、御醍醐帝は足利尊氏と決裂して吉野に南朝をたてますので南北朝以外に北陸が第三極となり、天下三分の計ができたかもしれません。

新田義貞や親王らが入ったのが金ケ崎城。足利軍に何回も攻められその度に撃退しますが、最後は兵糧攻めにあいます。尊良親王は義貞の息子と共に懸命に防戦しましたが、遂に力尽きて自害、恒良親王は捕らえられましたが翌年に急死します。尊良親王が自刃した地が城内に残っています。ということで金崎宮が造られました。

金崎宮は縁結びの「恋の宮」となっていますが、もともとは戦場なんですがねえ(笑)。

山崎丸

小谷城シリーズのラストは山崎丸です。

山崎丸
山崎丸

小谷城の目の前にある虎御前山に織田信長が付城を築いたため、朝倉軍は大嶽城、福寿丸、山崎丸と尾根沿いに城を築き対抗しています。守ったのが朝倉氏の家臣山崎吉家だったため山崎丸という名前がついています。標高236mにあり最前線を守った城です。

朝倉軍が最新の技術を使って築城しており、かなり凝った縄張になっています。写真は現在の入口ですが本来は空堀でした。信長の大嶽城攻めの際に福寿丸ともども落城したのでしょう。朝倉軍の撤退を信長を追撃し刀根坂の戦いで朝倉軍は壊滅的な打撃を受けます。この戦いで山崎丸の守将だった山崎吉家も討死しています。

福寿丸

小谷城シリーズです(笑)。山頂の大嶽城から2つの大きな尾根が伸びており、一方の尾根に造られたのが巨大山城・小谷城です。もう一方の尾根には砦が2つ造られました。大嶽城からずっと下ったところにあるのが福寿丸。それにしても、こんな尾根道を歩いている酔狂な人間は皆無ですねえ。

福寿丸
福寿丸

福寿丸は元亀争乱となった元亀3年(1572年)に朝倉氏が築いたと伝わっています。守将が木村福寿庵で、そこから福寿丸の名が付けられました。虎口は食い違いになっていて、なかなか高度な造りになっています。信長の大嶽城攻めの時に同時に攻められたでしょう。