野崎観音の裏手の山にあるのが野崎城。4つの郭で構成されていますが見晴台として郭が残っています。
■兵を動かすには東高野街道しかなかった
野崎城の目の前を通るのが東高野街道。今は大阪平野ですが江戸時代に大和川の付け替えが行われるまで深野池(ふこのいけ)が大坂の東側に拡がっており、京都から大坂へ大軍を異動するには山沿いにある東高野街道を南下して柏原あたりから平野へ抜けるしかありませんでした。大坂の陣でも家康、秀忠はこの東高野街道を通っています。
四条畷の合戦の舞台でもあり、野崎城のあった場所には幕府側が陣取って楠木正行軍を攻めたようです。
■飯盛山城の出城に
飯盛山城が整備されてからは出城になったようです。飯森山の東側(奈良)には田原城があり、西側(大坂)の深野池の中には三箇城がありました。3つの城が支城になっていました。三好長慶は信長以前に畿内のキリシタン信仰を認めたため三箇城や田原城周辺はキリシタンの里となりました。