畠山御殿(養源寺)

湯浅へ来たなら養源寺へ

養源寺堀
養源寺堀

ここは広城を作った紀伊国守護・畠山氏の「畠山御殿」でした。畠山政長が紀伊国守護所を大野から広に移したとされています。この守護所を守る詰城が広城でした。御殿の海側には養源寺堀が造られ、今も残っています。江戸時代には紀州藩主の御殿地として利用されました。

畠山政長といえば応仁の乱の主人公の一人です。室町幕府管領で河内・紀伊・越中・山城の守護でしたが従兄の畠山義就と争い、これが応仁の乱へとつながっていきます。戦いは京都を中心に行われましたが、やがて地方に飛び火します。守護が畠山氏なので紀伊も戦乱にまきこまれましたが,根来寺や湯河氏(幕府の奉行衆で御坊の亀山城が居城)を味方につけた畠山政長方が有利に戦いを進めました。

広城

せっかく湯浅まで来たので観光地には全然、寄らずに高城山を目指します。

広城
広城

前回は湯浅城と白樫城には行けたのですが広城には行けなかったのでリベンジです。広城は高城山頂上にあり西郭と東尾根にある東郭群からなっていますが、西郭はミカン畑になっていて遺構は皆無です。ただ湯浅の町や海が眺望できます。すごいのが東郭で、なんせ堀切がすごい、そのまま竪堀になって地上まで続いています。腰郭や櫓台もありましたが、すごいのが高土塁で、すさまじい高さになっています。

これだけの土木量なので、築城したのは紀伊の守護の畠山氏です。応永8年(1401年)に畠山基国によって築かれたと云われていますが、本当のところは分かりません。

淡輪城

南海淡輪駅近くにあるのが淡輪城。

淡輪城
淡輪城

もともとは橘氏だったようで鎌倉中期から和泉国淡輪荘に入り、淡輪氏を名乗るようになります。荘園を預かる荘官でしたが武士化し、国人として勢力をのばしていきます。淡輪城は周囲に土塁を巡らした方形館で、土塁の一部が残っていますが私有地になっており、外から眺めるだけです。

淡輪氏の娘が豊臣秀次の側室「小督局」となっていたことから豊臣秀次事件で秀吉から所領没収となり勢力を失うことになります。大坂の陣では淡輪重政が淡輪の少し北にある樫井の戦いで大坂方として討死します。供養塔が古戦場近くにあります。

医王寺城(桝形山城)

淡輪にある医王寺城(枡形山城)へ。

医王寺城(桝形山城)
医王寺城(桝形山城)

淡輪駅からひたすら坂を登ると望海坂の宅地があり、ここからさらに登ると水道タンクのフェンスに「旗立山」への木札が出ています。堂島の米相場を各地の山上で旗をリレーすることで旗振り通信が行われていましたが、そのうちの一つだったんですね。

■医王寺城(桝形山城)

フェンス横から山道があり、ひたすら登っていくと枡形山城の木札がありました。見過ごしてしまいそうな所で、この案内はありがたいですね。山道から入ると土塁と堀切があり、そこから郭に入れます。単郭方形の郭で土塁の一部が残っていました。郭からは関西国際空港も見えます。

城を誰が作ったかは分からず、淡輪氏の山城説や織田信長の雑賀攻めで信長側もしくは雑賀側が作った陣城ではないかと言われています。今は木々に覆われていますが、当時は眺めがよいので海上監視や烽火台による緊急連絡が行われていたのでしょう。

和泉 真鍋城

先週、泉大津商工会議所でインボイスのセミナーをした後、近くの真鍋城に寄ってきました。浜街道のすぐ近くにあります。

真鍋城
真鍋城

城郭は残っておらず現在の南溟寺一帯にありました。寺の敷地に真鍋城跡の石碑が建っています。真鍋氏はもともと和歌山に近い淡輪の在地土豪で、南北朝時代に眞鍋主馬大夫が泉大津に城館を構えます。

和泉国には強力な勢力がなく、各地の地侍が一つになって行動していました。これを和泉三十六郷士と呼んでいます。ところが戦国時代になると強力な織田信長が現れ、雑賀攻めなどで信長に従うことになります。真鍋氏は1576年の第一次木津川口の戦いに水軍を率いて信長方として参戦し、戦死しています。城は天正年間には廃城となり現在の南溟寺が建てられることになります。

高屋城

高屋城
高屋城

大阪府よろず支援拠点のお仕事で羽曳野商工会へ。セミナーと相談会を行ってきました。最寄駅は古市駅です。

古市駅近くにあるのが高屋城。郭の土塁が一部残っている以外はすっかり市街地化になっています。それでも城の形が地形として残っていて東高野街道と樫原神宮へ向かう近鉄のあたりは高台になっていて土塁跡でしょう。

生駒山沿いの東高野街道と大和からは街道が交差するところにある交通の要衝です。大坂夏の陣では道明寺の戦いが行われたところです。室町時代、畠山基国が管領の時に築城され河内守護の城となりましたが、何度も戦いの舞台になります。最後は織田信長が池田勝正、十河一行、雑賀衆の鈴木孫一などと戦い、この後に廃城となったようです。

応昌寺城

近江塩津駅周辺をGoogleマップで検索すると応昌寺城という文字が!山城だ~あ!

応昌寺城
応昌寺城

ということで情報を調べて出かけてみました。標高146mの小山で塩津小学校の右手に散策道があり、それを登ると公園施設になっていて、そこが城跡という情報です。近江塩津駅から延々と歩いて、塩津小学校へ。情報通り山に登る道がありました。さっそく登るとジャングルジムがあり、どうみても郭跡です。

これは期待できると、先に進むと獣害防止のフェンスに突き当たります。どっかに入口はないかと探し回りましたが、どこにもなく断念。獣害対策で公園どころじゃなくなったんでしょうね。結局、本郭などは見つけられずトボトボと帰りました。

疋壇城

疋壇城(ひきだじょう)

疋田にある丘城で越前・朝倉氏の城で近江・越前国境を守備する城でした。交通の要衝でこの近くに三関のひとつである愛発関があったのではと言われています。

疋壇城
疋壇城

朝倉義景は浅井長政の救援に向かい小谷城近くに陣をはりますが、信長が朝倉方の大嶽城・丁野城を攻め落としたため形勢不利と判断して退却を開始。この動きをよんでいた信長は追撃をし、疋壇城手前の刀根越えで追い付き、朝倉方の多くの将兵が討たれます。この時、疋壇城も攻め落とされ、そのまま敦賀から一乗谷に攻めこまれ朝倉氏は滅ぶことになります。

疋壇城はきれいに整備され石垣跡や堀跡も明瞭に残っています。

秀吉時代の大坂城 唯一の遺構

船場総研(中小企業診断士受験を目指す船場勉強会のOB組織)のイベントで滋賀へ

船場総研ではコロナ禍のためオンライン・イベントが続いていましたが、久しぶりのリアル・イベントです。近江今津駅に集合して竹生島へ渡り、竹生島から長浜へ出て町を散策し、最後は大津で宴会して散会するコースです。

極楽橋
極楽橋

念願だった竹生島へ行ってきました。パワースポットで有名ということですが、そんなことはどうでもよく(笑)目指すは唐門!京都・東山にある豊国廟の極楽門を豊臣秀頼の命で移築したものですが、元々は秀吉時代の大坂城にあったことが判明しました。

■秀吉・大坂城 唯一の遺構
2006年にエッゲンベルグ城(オーストリア)で豊臣期の「大坂城図屏風」が見つかり、山里丸から二の丸に抜ける極楽橋とこの唐門の姿がそっくりでした。極楽橋は豪華絢爛な屋根がついた橋で、この屋根部分が秀吉が亡くなってから移築されて豊国廟の極楽門になったようです。つまり家康が豊臣を攻めたの大坂の陣で、すっかり燃えてしまったと思われていた秀吉・大坂城の遺構が残っていたことになります。

上賀茂の御土居

秀吉が京都の町に造ったのが御土居という名前の羅城。平城京にしても平安京にしても羅城門は造りましたが長安のように町を羅城で囲むようなことはしませんでした。秀吉が作った御土居は基底部が約20m、頂部が約5m、高さ約5mの台形状で堀が設けられ全長22kmもありました。

御土居
御土居

もっとも防衛用に作ったのかどうかははっきりしていません。東側は鴨川の氾濫に備えた洪水対策のようです。御土居には7つの出入り口が設けられ鞍馬口や粟田口などの地名として残っています。上賀茂の一角にこの御土居が残っていて、まっすぐ東にのびた御土居が賀茂川に沿って右に曲がる角の所が残っています。遠くからみたら単なる土の塊ですが(笑)戦国時代の羅城が都会に残っているのがすごいですね。