大和窪之庄城

大和窪之庄城
大和窪之庄城

帯解駅を南東に行くと八坂神社があり、ここが大和窪之庄城。

住宅地の一角ですが神社の周りを土塁や堀切がめぐり、城跡がそのまま残っています。このあたりは東大寺領窪庄があったところで、鎌倉時代以降は、窪城氏が窪荘の下司として管理していました。大和は国人どおしで争っていましたので窪城氏は筒井氏や十市氏、古市氏、福住氏などと縁戚関係を結んでいました。応仁の乱後は古市氏との関係を深め、永正3(1506)年に古市方として高樋氏の居城・高樋城を攻めたところ、後詰めの筒井氏に窪之庄城を焼かれてしまい没落してしまいます。

やがて窪城氏は筒井氏に従ったようで永禄11(1568)年には、筒井方の与力として登場します。ところが織田信長が松永久秀に細川藤孝、佐久間信盛、和田惟政ら2万兵の援軍をつけ大和に攻勢をかけます。筒井氏の城である筒井城、森屋城、豊田城とともに窪之庄城は、また落城してしまいます。

ただ、信長軍は浅井長政の裏切りや石山本願寺の戦いなどもあり、松永久秀の主力軍もそちらに出ていた間隙を狙って筒井氏は窪之庄城を奪回します。松永久秀は足利義昭に通じたようで元亀元年(1570年)に武田信玄と結んで信長に謀反を起こし、信長包囲網に参加します。元亀2(1571)年に筒井氏を攻めるため大和最大の合戦である辰市城の合戦が行われます。この時に活躍したのが窪城氏の軍で、多くの首級をとり、松永軍は信貴山城へ撤退していきます。

大和窪之庄城は2つの郭からなっており八坂神社側が東殿と呼ばれる郭で、隣が西殿と呼ばれる郭になっています。西殿は分家である窪城西氏の居城でした。2つの郭の間には大きな堀切が残っています。西殿の方はだいぶ崩れていますが、八坂神社本殿を取り巻く東殿は土塁や堀が明確に残っています。

大和今市城

大和今市城
大和今市城

JR奈良駅から2つ目の駅が帯解(おびとけ)です。安産祈願の寺として有名で美智子上皇后など皇族もよくお参りしています。この帯解駅近くにあるのが大和今市城です。

大和の国人に今井氏がおり、今市氏の居城が大和今市城でした。最初は筒井氏に仕えていましたが、筒井氏が越智氏などに敗れたためいったん没落します。大和今市城は越智氏のものとなり、家臣の堤氏によって城の改修が行われます。やがて復活した筒井方が攻め込み、大和今市城は落城。今市氏が復活して城主に返り咲きました。

現在、城跡は住宅地となり明確な遺構は残っていませんが堀の一部がガマ池となり、外堀は遊歩道になっていて、往時の郭跡などを楽しめます。

やがて松永久秀による大和進攻で、今市は焼き討ちにあっています。織田信長が「大和一国破城令」を出し、大和郡山城のみとなりますので、大和今市城はこの時には廃城になったのでしょう。

大和南郷城

大和南郷城
大和南郷城

藤森環濠を少し北に行くと南郷環濠があります。堀跡が水路となってよく残っており、村の四方を取り囲んでいます。南郷環濠の南東角が、「城の内」と呼ばれ南郷氏の居館があったところで住宅地に南郷城跡の碑がありました。

南郷氏は国民でした。国民というのは春日社・末社の神主をつとめていた地侍で大和の南が多く、北は衆徒と呼ばれる興福寺に属する地侍がいて、どちらも国人と呼ばれていました。神仏習合時代ですので興福寺も春日社も実質的に同じです。

■興福寺が守護
大和は興福寺が守護でしたが、今の興福寺のイメージとは違って宗教団体というより軍隊です。平安時代には興福寺の僧兵が春日大社の神木を担いで、よく平安京まで強訴をしていました。飛鳥にあった山田寺へ僧兵が押し入って、本尊の薬師三尊像を強奪し、興福寺東金堂の本尊にしたりしています。やりたい放題ですなあ。今、山田寺仏頭は興福寺・国宝館にあります。

石山本願寺は10年にわたって信長と戦争していましたし、延暦寺が日蓮宗を攻める天文法華の乱なども起きています。信長、秀吉、家康の宗教政策で戦いと切り離された宗教団体にようやく変貌しました。

■大和四家
大和には有力な大和四家として筒井氏・越智氏・十市氏・箸尾氏がいましたが、興福寺の力が落ちてくると大和四家の間で争乱を起こしていました。南郷氏は近隣の箸尾氏には従わずに越智氏に従っていました。明応の政変(1493年)が起きた頃が越智氏の最盛期ですが、越智家栄の上洛に南郷氏も付き従っています。

関ケ原の合戦後、南郷は徳川幕府直轄領となります。家康に仕えていた北見五郎左衛門が代官として南郷城の跡を整備して代官陣屋を築き2万石を支配しました。

藤森環濠集落

藤森環濠集落
藤森環濠集落

藤森環濠集落

松塚環濠集落から北西に行ったところにあるのが藤森環濠集落。西の端にある十二社神社には土塁跡も残っています。藤森集落は多武峰社領だった時期があり、米を談山神社に収納していた関係から本殿も談山神社から移されたと伝えられています。

中世の大和高田は葛下郡と呼ばれ、村の防衛のために環濠集落があちこちに造られましたが、藤森環濠集落には四方を巡る堀跡が今も見事に残っています。戦国時代には陣城として使われたこともありました。

松塚環濠集落

松塚環濠集落
松塚環濠集落

松塚環濠集落です。

戦国時代、大和では興福寺が守護職を務めていて、核となる戦国武将はいませんでした。しかし北では筒井・古市・箸尾氏が、南では越智・十市・楢原氏が、宇陀では秋山・沢・芳野氏が勢力を伸ばし、それぞれが引っ付いたり敵対したりと大和も戦乱の時代でした。

この時代、村や町の周りを堀で囲んで防衛する環濠集落が作られます。寺が中心となると寺内町となります。また戦国時代の堺は堀で囲まれた環濠集落というより城でした。近鉄・大阪線の普通しか止まらない松塚駅を降りると、駅のすぐ近くに嚴島神社(市杵嶋神社)があり、水堀が残っています。町を歩くと道が狭く、まっすぐの道はほとんどありません。また西側は葛城川が堀代わりになり水堀は北、東、南に造られました。北西にある琴平神社のところが高台になっていて櫓代わりになっていたようです。

大和鈴山城

大和鈴山城
大和鈴山城

近鉄五位堂駅から北へ10分ほど歩くと、かつらぎの道という散歩道があって、ここを入ってすぐ左手の丘陵上にあるのが大和鈴山城。郭跡がしっかり残っています。

堀切から城の中に入ることができます。大和鈴山城は単郭で四周に堀を巡らし、櫓台と土塁で囲まれています。誰が造った城か分かりませんが、このあたりは岡氏・高田氏・万歳氏などの大和武士が活躍した地域です。

大和鈴山城は馬見丘陵の西南端に位置しており、馬見丘陵は葛城氏の古墳群(馬見古墳群)で有名です。香芝市の発掘調査を見ていると3つの古墳があって、2号墳がそのまま露台として使われていました。入口の土橋のところにも1号墳があり、古代の古墳を活用して城造りしていたようです。

五位堂という大阪のベッドタウンの中に山城がしっかり残っているのがいいですねえ。

八尾城

八尾城
八尾城

物部の神様である八尾神社境内に矢尾城址碑がありますが、城がどこにあったのかは分かっていません。

室町時代、八尾の豪族だった別当兼幸(顕幸)が築城したと伝わっています。古文書には1337年(建武4年、南朝は延元2年)に南朝方の高木遠盛らが八尾城を攻めたとあり、この頃には城がありました。南北朝から戦国時代にかけて八尾城は合戦の舞台や陣地となっています。

八尾城は戦国時代になると池田丹後守教正の居城となります。池田丹後守教正は三好長慶の後継者である三好義継が若江城主の頃、補佐した家老の一人ですが、やがて松永久秀に属し、久秀が信長に降った時は同じく信長配下になりました。イエズス会が本国に送った報告では、キリシタン武将だった池田丹後守教正の影響で城下には、数多くのキリシタンが住んでいたようです。飯盛山城の城下にあった三箇のような当時の八尾はキリシタンの町だったのでしょう。

河内の城といえば高屋城、若江城でしたので八尾城の戦略的位置づけは相対的に下がっていき、やがて廃城となったようです。

真田丸へ

真田丸
真田丸

午後から鶴橋で仕事でしたので、ちょっと歩いて真田丸跡へ。

大坂冬の陣で真田信繁が活躍した出城です。一緒に戦った兵は大坂城に入った浪人でしたので、それほど時間もないなか、どうやって教育したんでしょね。赤備えで統一し、帰属意識を明確にするなどいろいろな手をうちました。武田以来の赤備えですので徳川軍に与える心理的影響は大きかったでしょう。

写真は大坂城と真田丸との間にあった堀跡で、以前は大坂城と真田丸はつながっていたと考えられていましたが、今は明確に切り離された出城だったことが判明しています。遺構は残っていませんが高低差が往時のまま残っています。

この後、スコールのような雨に遭遇してしましました(泣)

大坂の陣に向かう家康が宿泊した近江・永原城

永原城
永原城

写真の水田が堀跡で本丸は右側の竹藪の中にあります。

■将軍専用宿泊施設
野洲にある朝鮮人街道(中山道の脇街道で織田信長が安土城を通らすために整備、江戸時代は朝鮮通信使が通る道)から琵琶湖側に少し入ったところに永原御殿跡(永原城)があります。関ヶ原の戦いの勝利後、家康が佐和山から安土、永原と朝鮮人街道を凱旋して上洛したことから、この道が吉礼の道となりました。家康の上洛用に本丸御殿を関ヶ原の翌年(1601年)に設けます。

もともと秀吉が家康に野洲を在京賄料(出張経費)として与えていました。やがて江戸幕藩体制となり、将軍専用の宿泊・休憩所として秀忠、家光時代に御茶屋御殿が整備されます。近江にあった将軍専用宿泊施設が永原御殿(野洲市)、伊庭御殿(東近江市)、水口御殿(水口城跡・甲賀市)、 柏原御殿(米原市)の4つです。

■御殿といいながら戦国の土の城
永原御殿という名前ですが、戦国時代に作られたのですから土塁と堀に囲まれた土の城で櫓が建ち並んだ平城でした。本丸内に御殿が建てられ、徳川家光の上洛では、本丸のほか、二の丸や三の丸が設けられます。現在の永原御殿跡は、竹藪や民家・水田などとなっています。

本丸跡に入って土塁を眺めてきましたが、この時期はまだまだ藪蚊だらけで、這う這うの体で退散してきました。城巡りにはもっと冷えないといけませんなあ。

■信長公記に出てくる永原城はここではなかった
佐々木六角氏の重臣だった永原氏によって築かれた永原城があり、信長公記に出てきます。信長の近江侵攻で敗れ、信長の重臣である佐久間信盛が城に入りました。この永原御殿が永原城跡ではないかと言われていました。

発掘調査の結果、どうも永原御殿から700mほど行った祇王小学校にあったようです。信長公記に「永原の佐久間与六郎所」という言葉があり、与六郎が祇王小学校あたりの小字でした。

近江三宅城

近江三宅城
近江三宅城

守山にある金森城(金森御坊)近くにあるのが近江三宅城。蓮生寺が城郭化されたもので寺の周りを今も1.5mほどの土塁が巡っています。金森城の出城でしたが元亀2年に佐久間信盛によって攻められ金森城とともに落ちました。

守山がそもそも一向宗の拠点になったのは比叡山僧兵による「寛正の破却」によって大谷の地を追われた本願寺派の指導者・蓮如が、高弟であった道西のもとに身を寄せたことにはじまります。道西は善立寺を開き、蓮生寺とともに守山近辺の門徒衆を結集します。そこへ比叡山の山徒衆が攻め込んできたため争いとなり、これが金森合戦となります。蓮如は琵琶湖対岸の堅田へ移動しましたが、金森は本願寺派の中心地として栄え、織田信長と敵対することになります。