平石城

平石城
平石城

平石城は河南町の平石という所にあります。河南町には鉄道もなければバス路線もほとんどないので最寄り駅は、かなり離れた富田林駅になります。駅前でレンターサイクルを借りてひたすら金剛山脈を目指しますが、かなりの登り坂で大変。

平石集落まで、なんとかたどり着くと平石城への案内が出ていました。案内通りに山道を登っていくと堀切と土橋があり、登ると主郭があり二上山などもよく見えます。

平石城は豪族・平岩茂直が、楠木正成の赤坂挙兵に応じて築いた城です。元弘元年(1331)に平石峠を越えて河内に侵入してきた北条軍に寄って攻められ、平岩茂直は戦死しました。太平記にも登場するお城です。

河南町教育委員会説によると正14四年(1359)に足利勢が河内に攻め入った時、楠木正儀が17の城を整備して防ぎましたが、そのうちの一つが平石城です。

1359年に足利義詮が起こした南朝征伐に対して、楠木正儀は赤坂、龍泉寺城、平石城での籠城戦にします。正儀腹心の河辺、福塚、岩郡ら河内の武士と楠木一族の橋本判官らの兵500騎が守り、押し寄せた今川範氏、佐々木氏頼らと戦います。龍泉寺城と同日に幕府軍の猛攻で落ちることになります。

楢原平城

楢原平城
楢原平城

大和の有力国人だったのが楢原氏で鎌倉末期には吐田氏とともに春日若宮の祭礼に流鏑馬を奉納したと記録されています。南北朝時代は南朝方として、越智氏とともに活動していました。

応仁の乱時に越智党から筒井党に転じて、お隣の吐田氏(越智党)と争うようになります。筒井氏とともに転戦していてたところ争っていた吐田氏が越智氏・古市氏の後援を得て攻めてきたため、城を追われて福住まで退却します。筒井氏が越智氏を破ったのにともなって在所へ復帰しました。

楢原氏の詰城が壮大な山城である楢原城ですが、ふだんは麓の平城を使っていました。堀などは埋められたようで、現在は畑になっています。

吐田館跡

吐田館跡
吐田館跡

吐田氏の詰城が吐田城(山城)で平時は麓に館があり、こちらを使っていました。吐田館は単郭式で跡地は水田になっていますが東西南に水堀が残っています。

守護というと武家が勤めるものですが大和だけは興福寺が守護を勤めていました。応仁の乱では筒井氏は西軍に、越智氏は東軍に与して大和の国衆も両陣営に分かれて戦っています。

筒井一門(十市・楢原・布施・布施高田・秋篠・宝来・木津・立野・箸尾・片岡・超昇寺・佐川)
越智一門(吐田・曽我高田・小泉・高山・万歳・岡・古市・山田・山陵)
に分かれていました。

■吐田氏の滅亡
吐田氏の拠点北側には敵対する楢原氏がいて、お隣と戦っていました。戦国時代も後半になると松永久秀が大和へ侵攻してきて、ややこしいことになったうえに、織田信長によって筒井順慶が守護に任じられ、またまたややこしいことになります。最終的に吐田氏は筒井順慶に騙されて本能寺の変の前年に滅亡させられます。

吐田氏の所領は島左近が支配することになります。島左近はこの頃、筒井順慶を支えていましたが筒井順慶が亡くなってから石田三成の家臣として招かれ、最後は関ケ原の戦いで討死します。

大堀切が見事な吐田城

吐田城
吐田城

大和の有力国人だった楢原氏の楢原城の南にあるのが吐田(はんだ)城で吐田氏の城でした。お隣さんなんですが楢原氏は筒井方、吐田氏は越智方に味方し、争っていました。

■吐田城へ
吐田城のある場所は一言主神社の裏山です。吐田城への道をネットでいろいろと調べましたが、近くまで行き尾根まで直登するしかないという情報ばかり(笑)山道という楽な方法はないようです。ということで近くまで沢沿いを歩き最後は崖を直登して、なんとか尾根にたどりつきます。尾根は削平地が続いており、郭や竪堀などがありました。

さて、尾根を歩いて主郭の下までたどりつくと、また崖です。しょうがないので、また直登し、ようやく主郭に入ることができました。広い郭の中は石が点在していましたが石垣にしては少ないので建物の礎石用ですかねえ。主郭から奥へ進んでいくと大堀切がありました。高さが10メートル以上はある堀切で、よくこんなの作りましたね。郭から降りるにはロープがいるので、ずっと迂回して大堀切に至り、さらに超えて西にある出丸のような郭まで行ってきました。

■尾根を間違う
帰りは大堀切の横から主郭に登らず(直登するのはしんどい)に最初に登った尾根を目指します。ようやく尾根に入って、どん詰まりまで行くと降りるルートがどこにもない。最初に登った尾根ではありませんでした。いろいろと試しましたが降りても藪だらけで結局は断念して、元まで戻り一つ隣の尾根へ。ここも削平地ですが、やっぱり最初の尾根ではありませんでした。Googleマップという文明の利器があって木立が抜けていればGPSが一応、効きますが山城の中はほぼ真っ白の地図しか出ないため東西南北のおおよその方向を見るだけです。

さて尾根のどん詰まりまで行くと、こっちは何とか降りられそうです。降りると沢に出て、少し歩いたら最初の場所へ戻ってこれました。結局、3本の尾根を歩きましたが3本とも削平地になっていて、往時は砦が作られていたようです。途中で迷いましたが、満喫できる山城ですね。

初山城は国見山城

国見山城
国見山城

2020(令和2)年の初山城は国見山城。大和の国人・越智氏の支城の一つといわれており玉出山城の南側に国見山城があります。2つの城で西南方面を守っていたのでしょう。

麓に国見神社があり、この神社横の山道を登ると郭の一つに入れます。さらに進むと主郭に入り、展望台になっていますが気が邪魔dえ、見えるのは葛城山方面だけです。主郭の近くの郭の先に畝状竪堀があるはずなので藪の中を進みましたが、よく分かりませんでした。

主郭の先に尾根道が続いていて、その先にも別の郭があり、こちらの竪堀は確認できました。ハイキングコースになっていて道もよく整備され、登りやすい山城になっています。

越智氏の支城 玉手山城

金毘羅神社
金毘羅神社

玉手といってもスーパー玉出じゃないですよ。

戦国時代、奈良の有力国人だった越智氏は、南北朝時代には南朝側で戦いました。高取城を造り、貝吹山、玉手、佐田の山々にも支城を造り奈良盆地の東南部をがっちり抑えていました。玉手城は西側を守る拠点で孝安天皇玉手丘上陵の隣にある玉手山頂上にあります。

JR玉手駅を降りると玉手山はすぐそば、まずは金毘羅神社を目指します。金毘羅神社の拝殿の裏に削平地が続き、ここから尾根道が2つに分かれています。最初は別の尾根に入ってしまい、出城のような郭を一つ見つけたのですが城跡はなし。戻って別の尾根道を進むと玉手山城に到達しました。郭は2つあり、主郭の周りには二重の帯郭がついています。また東側に畝状竪堀があり、東側の守りが厳重なので大手道が東側にあったのかもしれません。

倒木も多いのですが、なかなか楽しめる山城です。これで山城も登りおさめかなあ。

楢原城(奥城)

楢原城
楢原城

楢原城・中城をどんどん進んでいくと別の尾根に奥城があります。もともと別の城だったのを中城を造って前城とつなげ一体運用する山城に変えたようです。結果的に高天神城のような一城別郭方式になりました。奥城は楢原城の中で一番高い標高380mを主郭とした城で、葛城山へと続く西尾根に数条の堀切を設けて遮断しています。

縄張図を見ても入口がよく分からないので尾根沿いを登っていくと、やがて崖のような状況に。ゆるい崖なんで、なんとか直登して、ようやく郭にたどりつきます。いくつも続く郭の高低差が10メートルほどある造りになっています。道が分からないので、今度も切岸を登ることに、疲れる山城です。郭が連なっていますが中城のような技巧的なものは少なく、やはり設計思想が違う別の城だったようです。

楢原城は前城、中城、奥城とそれぞれ違った縄張りを楽しめる山城になっています。

楢原城(中城)

楢原城
楢原城

楢原城・前城の郭を次々と進んでいくと堀切が出てきます。ここから先が中城になります。中城に入っても郭が続きますが、けっこう技巧的になって堀切に土橋を通したり、極めつけは主郭の西側尾根を三重の堀切が断ち切っていました。また畝状竪堀群が南北両側面にビッシリあります。

前城は左音寺という寺を取り込んで城郭したようです。たぶん家臣団の居館などが並んでいたのでしょう。中城も倒木や藪が多く、郭の入り口がよく分かりませんので土塁を登ることになります。なかなか疲れる城ですねえ。

楢原氏は南北朝時代越智氏と組んで南朝方に属しており北側の布施氏と緊張関係にありました。戦国時代には南側の吐田氏との間で合戦を繰り広げたこともあり、西方尾根と北方への防御を意識した縄張りになっています。

楢原城(前城)

楢原城
楢原城

御所(ごせ)の西にあるのが楢原城。駒形大重神社の裏手にある葛城山の支尾根中腹に築かれています。楢原城を造ったのは楢原氏で興福寺別当の大乗院方に属する国民でした。

駒形大重神社から山道を登ると楢原城(前城)に至り、郭が次々と重なる大きな城になっています。駒形大重神社には滋野貞主が祀られていて、楢原氏は滋野(しげの)氏の後裔とされています。駒形大重神社は駒形神社と大重神社が一緒になったもので、大重神社は式内社の葛城大重神社に当たり、地元では「しげのさん」と呼ばれていました。

■楢原氏は真田と同じ滋野氏
そう真田丸でも取り上げられていた真田信繁などと同じ滋野氏です。滋野貞主の曽祖父が楢原造東人(滋野東人)で天平17年(745)、平城京の大安殿で聖武天皇から従五位下を授けられています。奈良の大仏を鋳造している頃で、金を献上した功績でした。住んでいた地域を名字とし楢原造と言っておりました。

戦場のメリークリスマス 家原城

家原城
家原城

堺にある家原大池公園のすぐ横に家原城という碑が建っていますが、城の遺構は残っていません。

家原城を築いたのが松永久秀です。松永久秀は三好長慶をよく補佐していましたが長慶が亡くなった後、三好家では跡目争いが起きます。三好義継を擁する三好三人衆と対立ていた松永久秀は家原城に泉州衆をいれていました。泉州衆は家原城を出て、堺を出撃した畠山高政と合流し、上芝(今の上野芝)で三好義継の軍勢1万3千と戦いますが、敗れて岸和田城に逃れます。

■戦場のメリークリスマス
双方が対峙をしていた時、クリスマス近くだったため、堺に滞在していたイエズス会の宣教師ルイス・フロイスが、両軍のキリシタン武士に対し、ミサをを呼び掛けました。両陣営のキリシタン武士たち約70名が堺に集まり、ミサを行い食事を共にしました。事実上のクリスマス休戦が行われることになります。

永禄11年(1568)織田信長が足利義昭を擁して上洛をはたし、畿内を平定した時、松永久秀は信長につくことになります。その前に三好義継は三好三人衆と対立し松永久秀側となっていました。家原城は三好義継の城となっていましたが京都を取り戻そうとした三好三人衆によって攻められ落城します。