冬野城(多武峰城塞)

冬野城(多武峰城塞)
冬野城(多武峰城塞)

談山神社・西口から冬野へ向かう山道があり、これをどんどん登っていくと冬野城へ行けます。もっとも冬に、こんな山道は登る酔狂な人はおりません。冬野城は多武峰城砦群の中でも最大の規模で、南の吉野方面への備えの城になっています。平安時代末期には早々と築かれていたようです。多武峰は各峰に城が造られ、記録に残るだけで三度の多武峰合戦が行われました。

南北朝時代、多武峰は南朝の遺臣に占領されてしまい反幕府の拠点にされてしまいます。永享9年(1437年)から始まる「大和永享の乱」(越智、箸尾両氏の幕府軍への抵抗戦)では幕府軍に焼かれて全山全焼してしまいます。他にも永正3年(1506年)の幕府に派遣された赤沢朝経に対する大和国人一揆の抵抗戦(十市氏、越智氏、箸尾氏)、永禄2年(1559年)からはじまる松永久秀に対する十市氏の抵抗戦でも攻城戦となりました。

山道を登り冬野にたどり着きましたが、郭がある電波塔に入る道は塞がれていて入れません。集落の人に聞いたら登るしかないということなので、結局、郭まで直登でした。波多神社の境内があるところが郭の一つですが、境内の先に堀切を隔てて主郭がありました。たくさんの郭が造られており、各尾根筋には堀切がいれられています。見事なのが談山神社へつながる尾根筋で、3つの大きな堀切で尾根筋を断ち切り、そのまま山の下まで続く竪堀がありました。すごい工事だったでしょうね。

念誦崛城

念誦崛城
念誦崛城

念誦崛は「ねづき」と呼びます。今は地名ですが仏教用語からつけられたんでしょう。今昔物語集に「多武峰(とうのみね)の増賀聖人のこと」という説話があり、狂気の僧として有名でした。この増賀上人の墓が念誦崛にあります。伝承ではここに斉明天皇の両槻宮(ふたつきのみや)がありました。

増賀上人の墓の北側尾根上に西の守りとして念誦崛城がありました。多武峰城塞群の一つです。まず城内に入るのが大変です。墓の裏から高い土塁を登ると藪だらけの空堀があり、堀を抜けるとまた高い土塁に阻まれます。こんなところを攻めたら一発でやられます。

ようやく城内にはいると郭がいくつもあり、見事な堀切で区切られています。一番、奥の郭まで行こうと思いましたが、さすがに藪が多く、断念し、あきらめで帰ってきました。

多武峰城塞群

堀切
堀切

多武峰城塞群シリーズです。談山神社裏手から談山城、御破裂山城を巡り、西にある念誦崛城を目指します。御破裂山から飛鳥へ抜けるハイキングコースがあるのですが、飛鳥に向かって歩き出し、土橋跡を少し抜けると別の山道があります。これが半分、藪になっていますが城塞群への入口です。

山道に入るとすぐに堀切があり、念誦崛城へ向かう尾根筋も要所、要所を堀切で切って防衛力を上げています。一応道はついていますが誰も歩かないので藪をかきわけて進まないといけないところがあります。見どころ近くには木に白いテープが張ってあるので山城マニアが来ているのでしょうね。

■越智氏、十市氏、箸尾氏が立てこもる
昔、大和三山の1つ、耳成山の頂上にある天神山城へ登った時に調べると赤澤朝経(ともつね)が造ったことが分かりました。室町幕府方の人間で大和の国人と戦っており、越智氏、十市氏、箸尾氏が多武峰の城塞群に立てこもり、赤澤朝経は天神山城を本陣にして連日、合戦にむかったと記録に残っています。

これが永正3年(1506)の赤沢朝経の大和乱入で、それ以前に永享9年(1437)から10年にかけて起こった大和永享の乱で越智方が多武峰を中心に抵抗したとありますので以前から多武峰は城塞化され、どんどん拡がっていったようです。飛鳥にも雷丘城などの城塞群があり、このあたりは激戦地だったんですねえ。

御破裂山城

御破裂山城
御破裂山城

談山からさらに山道を行くと御破裂山(608m)に到達します。頂上に中臣鎌足の墓があり、国家に大きな災いのある時は、御破裂山が鳴動するということで御破裂山という名前がついています。

中臣鎌足は摂津の阿武山古墳(諸説あり)に葬られましたが後に大和国の多武峯に改葬されたという記録があり、その場所が御破裂山と言われています。藤氏家伝では墓は山科とも伝わっており京都橘大学へ行く途中にある大塚ではないかと言われています。山科は中臣氏の拠点でした。

御破裂山にも山城が造られました。頂上には中臣鎌足の墓があり、ここが主郭跡です。周りには帯郭がめぐり、頂上から北に向かって郭が三段続き、端まで行くと大きな堀切で尾根が切断されています。談山城からの尾根道の途中と西に続く尾根道の2ケ所に堀切を伴った細い土橋がありました。

密談の場所が山城 談山城

談山城
談山城

中大兄皇子と藤原鎌足が乙巳の変の密談を行った場所を談山神社と思っている人が多いのですが、実際は談山神社からさらに登った裏山の頂上です。標高566mの談山(かたらいやま)になりますが、こんな高い所で密談しなくても飛鳥でも十分密談ができると思うんですが

談山神社から10分ほど山道を登ると談山です。談山神社への観光客は多いですが、談山まで向かうのはハイカーだけです。結局、誰にも会いませんでした。

談山神社がある多武峰は室町~戦国時代にたくさんの山城が造られ各峰に造られ城塞群になっています。密談が行われた談山頂上も山城となり、密談場所が主郭で周りを帯郭がめぐっています。入口は堀切で切られた細い土橋になっています。

石川河原城

石川河原城
石川河原城

Googleマップを見ると城跡の地図がよく出るようになりました。もっとも場所が間違っていることもあります。白木陣屋から富田林駅までの帰り道を調べていた時に見つけたのが石川河原城です。行ってみたら城の遺構は残っていませんが川沿いの台地の上で道路からは5mほどの高さがあり城を造るには適地でした。

太平記には石川城として登場しています。「越後守師泰(高師泰のこと)は、楠退治の為に河内国に下て、石川々原に向城を構て居たりけるを...」ということで楠木勢を攻めるための付城(向城)を造っていたんですね。

白木陣屋

白木陣屋
白木陣屋

持尾城から富田林駅に行く途中にある白木陣屋跡へ寄ってきました。

■伊勢神戸
鈴鹿に桓武平氏の流れをくむ神戸氏がいました。鈴鹿商工会議所近くにある澤城を本拠地にしていましたが新たに伊勢神戸城を造って本拠地を移します。やがて織田信長の伊勢攻めが始まり、滝川一益が侵攻したため、織田方と和睦。養子にうけいれたのが織田信長の3男神戸信孝です。本能寺の変の後、神戸信孝は秀吉と対立し柴田勝家が滅んだ後、秀吉によって自刃させられます。

関ケ原の合戦の後、伊勢神戸には一柳氏が入り、その後、天領になった後に入ったのが石川総長です。

■河内へ
伊勢神戸藩の石川総長は万治3年(1658)大坂城番となって役知料1万石を河内石川・古市郡内で加増され、それまでの伊勢神戸の1万石とあわせて2万石となりました。飛地となった河内の所領を管理する為に築いたのが河南町にある白木陣屋です。3代目の石川総茂の時、常陸国下館に転封となりましたが、河内領と白木陣屋はその後も維持され、明治まで続くことになります。

白木陣屋は高台の上に造られ北、東、南に石垣がめぐらされた要害です。ただ草が生繁っていて石垣がよく見えない点が残念。白木陣屋跡は集落になっています。

平石城

平石城
平石城

平石城は河南町の平石という所にあります。河南町には鉄道もなければバス路線もほとんどないので最寄り駅は、かなり離れた富田林駅になります。駅前でレンターサイクルを借りてひたすら金剛山脈を目指しますが、かなりの登り坂で大変。

平石集落まで、なんとかたどり着くと平石城への案内が出ていました。案内通りに山道を登っていくと堀切と土橋があり、登ると主郭があり二上山などもよく見えます。

平石城は豪族・平岩茂直が、楠木正成の赤坂挙兵に応じて築いた城です。元弘元年(1331)に平石峠を越えて河内に侵入してきた北条軍に寄って攻められ、平岩茂直は戦死しました。太平記にも登場するお城です。

河南町教育委員会説によると正14四年(1359)に足利勢が河内に攻め入った時、楠木正儀が17の城を整備して防ぎましたが、そのうちの一つが平石城です。

1359年に足利義詮が起こした南朝征伐に対して、楠木正儀は赤坂、龍泉寺城、平石城での籠城戦にします。正儀腹心の河辺、福塚、岩郡ら河内の武士と楠木一族の橋本判官らの兵500騎が守り、押し寄せた今川範氏、佐々木氏頼らと戦います。龍泉寺城と同日に幕府軍の猛攻で落ちることになります。

楢原平城

楢原平城
楢原平城

大和の有力国人だったのが楢原氏で鎌倉末期には吐田氏とともに春日若宮の祭礼に流鏑馬を奉納したと記録されています。南北朝時代は南朝方として、越智氏とともに活動していました。

応仁の乱時に越智党から筒井党に転じて、お隣の吐田氏(越智党)と争うようになります。筒井氏とともに転戦していてたところ争っていた吐田氏が越智氏・古市氏の後援を得て攻めてきたため、城を追われて福住まで退却します。筒井氏が越智氏を破ったのにともなって在所へ復帰しました。

楢原氏の詰城が壮大な山城である楢原城ですが、ふだんは麓の平城を使っていました。堀などは埋められたようで、現在は畑になっています。

吐田館跡

吐田館跡
吐田館跡

吐田氏の詰城が吐田城(山城)で平時は麓に館があり、こちらを使っていました。吐田館は単郭式で跡地は水田になっていますが東西南に水堀が残っています。

守護というと武家が勤めるものですが大和だけは興福寺が守護を勤めていました。応仁の乱では筒井氏は西軍に、越智氏は東軍に与して大和の国衆も両陣営に分かれて戦っています。

筒井一門(十市・楢原・布施・布施高田・秋篠・宝来・木津・立野・箸尾・片岡・超昇寺・佐川)
越智一門(吐田・曽我高田・小泉・高山・万歳・岡・古市・山田・山陵)
に分かれていました。

■吐田氏の滅亡
吐田氏の拠点北側には敵対する楢原氏がいて、お隣と戦っていました。戦国時代も後半になると松永久秀が大和へ侵攻してきて、ややこしいことになったうえに、織田信長によって筒井順慶が守護に任じられ、またまたややこしいことになります。最終的に吐田氏は筒井順慶に騙されて本能寺の変の前年に滅亡させられます。

吐田氏の所領は島左近が支配することになります。島左近はこの頃、筒井順慶を支えていましたが筒井順慶が亡くなってから石田三成の家臣として招かれ、最後は関ケ原の戦いで討死します。