赤阪城(大和)

赤阪城(大和)
赤阪城(大和)

近鉄・生駒線の竜田川駅を降りて、西にひたすら4kmほど登っていくと信貴山の麓に着きます。信貴山には松永久秀の信貴山城がありますが、そこから北方約400メートルのところにあるのが赤阪城です。 

■幻の高安城探しで見つかった謎の城 
赤阪城は最近、見つかった城です。山城の世界では割とよくある話です。 

白村江の戦で唐・新羅軍に大敗したため天智天皇が整備したのが朝鮮式山城である高安城です。日本書紀には記載されていますが、城は見つかっておらず幻の高安城と呼ばれていました。この高安城を探しているのが「高安城を探る会」で調査を続けて20年、1999年についに幻の高安城を見つけ新聞でも大きく報じられました。この会が付近の山を歩いて調査している時に偶然見つけた城です。 

■赤阪城 
赤阪城は高低差がある郭が5つあり連郭式縄張となっています。空堀を効果的に使っており、だいぶ埋まっていますが二重竪堀もありました。文献にも登場しない山城ですが、かなりの規模があり、城の位置を考えると松永久秀の信貴山城を守る支城の一つでしょう。近くを信貴山へ向かう街道があり、信貴山奥の院もあります。

池上・曽根遺跡

池上・曽根遺跡
池上・曽根遺跡

池上・曽根遺跡は和泉にある弥生時代中期の環濠集落で池上町と曽根町の地名から名付けられています。2つの町にまたがる広大な遺跡です。 

環濠(つまり堀)は二重となっていて、つまり城の原型です(笑)。環濠の中には大型建物を中心とした祭りの場で、隣では青銅器や鉄器を作っていた工房がありました。環濠の周りに居住地があり、つまり用途によって区切られていました。市街化調整区域みたいなものですねえ。 

池上・曽根遺跡は平地につくられましたが、やがて高地性集落となっていきます。水田耕作に有利な平地から高台に集落ごと移動するのは倭国の大乱(魏志倭人伝では大乱をおさめるために邪馬台国の卑弥呼を奉じたとなっています)で守りやすい高台にしたというのが通説だったのですが、どうも古代の関西では大地震などによる洪水の影響が大きかったのはと言われています。

曽根城(和泉)

曽根城
曽根城(曽根神社)

和泉の曽根神社にあったのが曽根城。

曽根神社の案内版には曽根城を築いたのは玉井源秀とありますが玉井源秀(壱岐守)は千原城主のはずなんで「泉州志」にある玉井駿河守の可能性が高いでしょう。いずれも和泉三十六郷士の一人です。

和泉の玉井氏の本貫は和泉国和泉郡にあった玉井邑のようです。和泉三十六郷士のうち玉井一族は玉井壱岐守、玉井遠江守、玉井駿河守の3名です。皆でまとまって行動することもあり共和国のような感じでした。信長の支配下になった時は、そのまま従い所領は安堵されます。ただ石山本願寺の戦いに駆り出され、第1次木津川口海戦で毛利水軍に大敗した時に郷士のほとんどが討死しました。

曽根城の周りに低い土塁が巡り、これが城跡の痕跡となります。

堀城(中嶋城)

堀城(中嶋城)
堀城(中嶋城)

阪急の十三駅を西に行ったところにあるのが十三公園で隣には北野高校があります。単なる公園なんですが、ここが堀城(中嶋城)跡ではないかと言われています。堀城は中津川を堀替わりにしていたようですが、淀川改修事業で中津川がなくなってしまい正確に城がどこにあったのか分かっていません。 

■深井の戦い 
今は消えてしまった城跡ですが、城の名前はいろいろな文献に登場します。まず”深井の戦い”というのがあります。”深井の戦い”とは現在の堺で行われた戦いで摂津中嶋郡の分郡守護である細川政賢と和泉守護である細川元常が堺に上陸し天王寺城を攻めようとしましたが対抗する畠山高国らが深井城(残っていません)に籠ります。深井城で戦いが行われ畠山高国らは敗走し、この時に中嶋城まで攻め上がったと出てきます。深井城は堺市中区にあり、ここから十三ですので、かなりの距離があります。 

■桂川原の戦い 
堀城の名前は京都の桂川一帯で行われた”桂川原の戦い”でも出てきます。細川晴元の命をうけた三好長家、三好政長が阿波より堺に上陸し、中嶋の堀城を占領し越年したと記録されています。 

堀城は他にも石山本願寺と細川晴元との戦いに登場したり足利義昭が滞在したという記録もある城なんですが、今は遺構もそんな看板もなく、ただGoogleマップに堀城(中嶋城)跡と出るだけです。

二田城

二田城
二田城

南海「松ノ浜駅」から南東に向かうと蓮華寺があります。ここが二田(ふつた)城跡。

二田という地名は物部氏の一族である二田氏に由来する名前で二田氏は物部氏の祖である神饒速日尊(にぎはやひのみこと)が降臨した時に、従った二田造の子孫といわれています。まあ河内、和泉といえばやっぱり物部ですねえ。

大化5年(649年)3月に蘇我倉山田石川麻呂が蘇我日向臣の讒言(裏にいたのは鎌足と中大兄皇子)によって山田寺で自殺した時に首を切ったのが物部二田造塩で、このあたりの出身ではと言われています。もっとも筑前国鞍手郡二田郷の説もあります。

南北朝時代には和泉三十六郷士の一人である磯上氏(南郡加守郷の国人)が二田城を築いたようで泉州志には和泉郡二田館主として磯上無仁入道の名前が出てきます。城には堀が巡っていましたが、今では暗渠になってしまい水路は「ホリノカワ」と呼ばれています。

慶安の御触書で有名な慶安元年(1648年)に百万遍の知恩寺から派遣された上人が開祖となって蓮華寺が建立されました。

三里城

三里城の入口
三里城の入口

生駒近辺の山城は、ほとんど登ったと思って戎光祥出版「近畿の城郭」を見ていたら平群駅近くに三里城があるのを発見。さっそく登ってきました。 

【三里城への道】 
平群駅をずっと東に行くと、安明寺叶堂があります。お堂はなく礎石しか残っていません。この叶堂から山道に入り、川沿いの道を登っていくと「右 まや道」という石標があり、ここを登っていくと写真のように道に大きな石があります。 

ここが城の入口です。少し戻ったところから左手に細い山道があるので、ここから藪の中に入って、結局は切岸、つまり崖を登ります(笑)。ずっとひたすら頂上を目指すと郭や見事な横堀を通って主郭にいたります。 

【三里城】 
三里城は誰が造った城か伝わっていませんが、松尾寺へと通じる街道を見張る目的があり、すぐ近くに椿井城がありますので、おそらく嶋氏ゆかりの城だったのでしょう。平群は島左近(石田三成家臣で関ケ原の合戦で討死します)で町おこしをしています。松永久秀が大和を支配した頃には松永方として改修されたかもしれません。 

先日、オープンストリートマップを教えてもらったので、さっそくやろうとしたら竹藪の中ではGPSが全然、違う方向を指していました。よほど眺めがよい山城でない限りは難しいですね。

綾井城

綾井城
綾井城

高石駅からずっと住宅街を歩くと専称寺という寺があり、ここが綾井城跡です。単郭の平城で郭の周りは堀が巡っていたようですが、現在は山門前の堀跡だけが残っています。「沼間日向守綾井城址」と書かれた高石ロータリークラブの白い木標があり、寺の山号も城蹟山になっています。

綾井城は和泉国の国人である田代氏によって鎌倉期に造られ、南北朝の頃は北朝方の守護・細川清氏の命を受けていたようです。戦国時代は沼間氏の影響力が強まり沼間伝内が綾井城に入ります。沼間氏は大阪湾の制海権の一翼をになっており沼間伝内は織田信長に従い、織田信長の水軍と石山本願寺に味方する毛利水軍が戦った木津川口の合戦で戦死しました。伝内の子である沼間任世も信長に仕えました。豊臣政権下では岸和田城に入った中村一氏の 配下となり、徳川時代は旗本になっています 。

「板原家文書」に綾井城主・沼間任世が天正9年に各領主から差出を提出させ、まとめて安土にもっていって領地に対して交渉しています。これが和泉検知の一環だったようです。差出を無視した松尾寺や施福寺は焼き討ちされました。

文禄2年(1593年)以降、助松(泉大津)から移転した専称寺の境内となりました。昔の絵図には一部の堀は二重になっていました。

根福寺城(和泉)

根福寺城(和泉)
根福寺城(和泉)

和泉にある根福寺城へ。

水間寺から秬谷(きびたに)川をさかのぼった秬谷・大川の集落近くの山にあります。主要街道などがない所なので非常用の山城かなと思うわりには、かなり大規模な山城になっています。一城別郭の城になっていて東と西の2つの尾根に郭群が拡がっています。山に入り込み、山道を15分ほど歩くと二重堀切がいきなりあらわれます。大規模な堀切が2つもあり、見事に侵入者を防ぐ形になっています。

東側の郭群を堪能した後、尾根を一度下って今度は西の尾根を登ります。頂上には千畳敷と呼ばれる広い郭があり、ここから泉佐野の街が見え、関空からは飛行機が飛び立つところが見えます。

根福寺城は天文年間(1532年~1555年)に細川晴元に従っていた松浦肥前守によって築かれたと云われています。最初は野田山城という名前でした。細川晴元が三好長慶と対立すると松浦肥前守は三好長慶方となり根来寺勢力と対立していましたが、根来衆が野田山城を接収して根福寺城としたようです。

豊臣秀吉の雑賀、根来攻めで根福寺城も秀吉側になったようです。西にある郭群には見事な畝状竪堀群があるとのことでしたが、切岸を降りる道がなくあきらめました。

天神山砦(岡山城)

天神山砦(岡山城)
天神山砦(岡山城)

岡山には石山、岡山のほかに天神山があり、石山城時代に天神山にも砦が造られたようです。 

天神山はすっかり市街地となって天神山文化プラザや県立美術館ができています。今も高低差が残っていました。宇喜多秀家の岡山城が造られた時に石山とともに、この天神山も城内に取り込まれ、北側にひょこんと楕円形が出ている形の郭になっていました。 

石山城(岡山城)

石山城(岡山城)
石山城(岡山城)

金曜日、岡山で仕事だったので、少し早い目に出かけて石山城へ寄ってきました。 

石山城は宇喜多直家時代の城があった場所で現在は山陽放送などが建っています。岡山市内には岡山、石山、天神山の3つの丘が連なり、宇喜多秀家時代には岡山に城が造られ、これが現在の岡山城の前身となります。地下に秀家時代の石垣などが埋まっています。 

秀家は秀吉にかわいがられましたが、関ケ原の合戦では西軍側で戦い、八丈島にながされてしまいます。これが流人第一号となりました。石山城は岡山城に取り込まれて石山郭となりました。この当時の石垣や西手櫓が残っています。 

石山には南朝側だった上神高直が城をかまえ、その後は国人領主だった金光備前が城を構えていたようです。金光氏が宇喜多直家に滅ぼされ、ここに城を構えました。城跡は高台になっており、主郭があったところは駐車場になっていますが岡山城の天守閣が目の前に見えます。