壬申の乱で関東(鈴鹿関の東側で現在の桑名)に逃れた大海人皇子は尾張氏を味方につけ、大友皇子の近江軍と激突したのが関ヶ原の土地。
この時、関ヶ原を見渡せる山に登り兵士に魔除けの桃を配りました。それ以来、桃配山という名前となります。近江軍を破った大海人皇子は軍勢を二手に分け、湖東と湖西から大津京を目指します。
若き家康が今川義元のもとで人質生活をおくっていた時に教えを受けたのが大原雪斎。雪斎は今川軍の指南役でもあり、今川義元の教育係も務めた禅僧です。薫陶を受けた家康が読んでいたのが論語、中庸や史記などの歴史書、六韜などの兵書です。当然、壬申の乱などの過去の歴史についても学んでいました。
関ヶ原に布陣することになった時、まっさきに思い出したのが桃配山の故事。関ヶ原の戦いをもとに天武天皇となった大海人皇子にあやかり、最初の陣地としました。
カテゴリー: 城・山城
福井城
水曜日、せっかく福井へ行ったので駅近くにある北庄城の後に福井城へ行ってきました。
こちらも福井駅のすぐそばです。福井というと剣神社はぜひ行きたいんですが、なかなか機会がないですね。別名を織田明神といい、もともと織田家はここの神官の出です。神社は越前町織田にあり、ここの地名を家名にしました。朝倉家は守護・斯波氏の重臣で名門でした。織田家といえば斯波氏の家来の家来という家柄で朝倉義景が信長と争ったのも「何であんな家柄のやつに」という意識があったんでしょう。
柴田勝家が築城した北庄城の近くに家康の次男である結城秀康が築城した平城。大きな城でしたが現在は本丸の内堀、石垣、天守台が残されています。天守台にあるのが”福の井”という名前の井戸。ここから福井という名前がついたという説があります。明治維新の後、各地の城は鎮台や役所に使われましたが、福井城には今も県庁、警察本部があります。
いろいろと復元をしていて、御廊下橋は復元されていましたが山里口御門(枡形虎口)を復元中ということで工事中で通れませんでした。和歌山城の廊下橋によく似ていますね。福井市立郷土歴史博物館のすぐ北には舎人門が復元されていました。
柴田勝家の北庄城
浅井・浅倉連合軍の一角だった朝倉義景が信長に滅ぼされます。この時、稲葉山城を奪われ美濃を失い逃亡した斉藤龍興も滅ぼされています。斉藤龍興は逃亡後、長島一向一揆や三好三人衆と組んで、ことごとく信長に刃向っており、最後は朝倉義景と組んでいました。今川氏直のように今川家がなくなってから父親(今川義元)の敵の前で蹴鞠をするような人物もいたなか、首尾一貫した生き方でしたので、すごいですね。
朝倉に代わって越前をおさめたのが柴田勝家。越後の上杉氏に備えるためが目的です。柴田勝家が一乗谷でなく、新たに作ったのが北庄城です。天守もあった大きな城だったようで、工事中に訪れた宣教師ルイス・フロイスの記録にも出てきます。ところが建設途中で賤ヶ岳の合戦が起きてしまいます。初戦は勝っていましたが前田利家の敵前逃亡もあり、負けて北庄城は落城、炎上してしまいます。
以前に来た時は柴田神社の横に柴田勝家の銅像があるだけでしたが、その後、発掘調査が行われ柴田神社ちかくで石垣跡が発見され展示されていました。家康の次男である結城秀康が新たに福井城を造る時に石垣などを再利用し、三の丸になって破壊されてしまい、こちらの遺構もきれいに展示されていました。
大和郡山城 天守台石垣工事説明会
大和郡山城の天守台石垣工事説明会があったので行ってきました。
大和郡山城、戦国時代は砦でしたが本格的な大和郡山城を造ったのが信長の命をうけた明智光秀で城は筒井純慶が守りました。豊臣秀吉の時代に筒井家は伊賀上野へ転封。代わりに入ったのが秀吉の弟で偉大なる補佐役と呼ばれた豊臣秀長です。
秀長は大和国・和泉国・紀伊国三ヵ国100万石の領主になったので、それにふさわしい城に大改造します。現在に残る天守台の石垣などは、この当時のものになります。この秀長に仕えていたのが後に津をおさめる藤堂高虎です。
400年も前に造られた天守台の石垣ですが、崩れているところもあり、解体して修復が行われています。石垣に墓石や石仏(地蔵)までが使われていることは前からわかっていましたが、今回の解体でもけっこうな数の五輪塔や墓石が見つかり現場に置いてありました。
自然石を使った野面積ですが5%ほどの石は割れてしまっているそうです。そのままでは使えませんので型をとって、四日市・菰野の石を加工し交換するそうです。
説明会は今日と明日、10時~15時に1時間起きに行われています。石垣というと表面しか見られませんが中の盛土から裏込め石まで見られるチャンスです。
信長が蘭奢待を切り取った多聞山城
織田信長よりも先に天下をおさめた三好長慶の部下が松永久秀。久秀の奥さんは長慶の娘でした。その長慶の命で大和を支配することになりましたが、興福寺などを倒し、松永久秀が1561年に大和と山城の国境付近に築いた平山城が多聞山城です。
松永久秀は信貴山城を拠点としており、信貴山といえば虎で有名な朝護孫子寺で、多聞天(毘沙門天)が本尊。この多聞天を城に祀ったことから多聞山城と呼ばれました。
■戦う城から見せる城へ
城には四階櫓があり、これが天守の始まりと言われています。棟上げ式には奈良の住民を招待し、誰が支配者か分からせる目的もあったでしょうが、基本はパフォーマンス好きですね。
城の防備のために 長屋状の櫓が築かれ、これが近代の城に続く多聞櫓になりました。戦う城から見せる城へ変わる画期的な城で、織田信長も安土城を造る時に大いに参考にしました。奈良の実質的な守護だった興福寺を見下ろせるところにある城ですので、奈良支配にはもってこいの場所です。とはいいながら筒井をはじめとする国人との戦いは大変でした。
■多聞山城で蘭奢待を切り取る
織田信長が足利義昭を奉じて京都に登ってきた時に降伏。多聞山城は織田信長の城となりました。信長が多聞山城を訪れ、天皇の許可を受け正倉院から多聞山城へ香木「蘭奢待」を運んで切り取らせます。信長以前に切り取ったのは足利義満、足利義教、足利義政、土岐頼武。多聞山城から歩いて10分ぐらいのところに正倉院はあります。
織田信長の朝倉攻めが浅井長政の裏切りで金ヶ崎から撤退する時、近江の朽木谷領主・朽木元綱を説得して味方にし、信長の窮地を救ったのが松永久秀です。信長を裏切っても許されているので憎めない武将で信長も一目置いていたようです。茶人としても有名でした。
織田信長が筒井順慶を大和の守護に任じた時に多聞山城の破却を命じます。石材の多くは筒井城や郡山城などに移されました。城跡の遺構は残っておらず、現在は若草中学校になっています。中学校校舎とグランドの間には大堀切があり、上が渡り廊下になっていて下は道路になっています。渡り廊下まで、けっこう高く、当時はすごい堀切でした。
松永久秀の鹿背山城
京都と奈良の県境、鹿背山(木津)にある山城。源頼朝が全国に守護を置きましたが、大和の国では興福寺が支配していまたので守護は置かれませんでした。興福寺の衆徒である土豪(国人、国民と呼ぶ)と一緒に国をおさめていました。こうなると寺と言っても武装集団です。築城者は誰か分かりませんが、この興福寺が支配していたのが鹿背山城。
やがて三好長慶の部下だった松永久秀が信貴山城を拠点として大和に侵入してきます。大和の国を支配し、多聞山城を築城。興福寺は松永久秀に屈して鹿背山城は松永が支配することになります。この時に戦国の山城として防衛を強化したようです。松永久秀はやがて足利義昭を奉じて上京してきた織田信長に従い、紆余曲折の後、謀反を起こします。
木津という土地は奈良時代に行基が木津川に橋をかけ、難波や京都と結ぶ船の道がありました。後醍醐天皇が立て籠もった笠置を通って伊賀へ抜ける要衝でした。昔はお隣の加茂に都もあった一等地です。今はJRの関西本線、京都線、学研都市線の3つの路線が混じる木津駅があります。本数は少ないですが(笑)
鹿背山城は尾根の三つのピークに主郭を置き、それぞれにたくさんの曲輪や堀切が配置されています。かなりの規模で見応えがあります。「木津の文化財と緑を守る会」がいろいろと整備しているようで曲輪には番号がつき、藪も切り払われて、とても見やすくなっています。本格的な山城なのでスーツ姿では無理ですねえ。
スーツで登れる上野山城(木津)
JR木津駅から見えている小山の上にあるのが上野山城。
木津駅の東側は木津高校があるぐらいで、あとは山々でしたが城山台という住宅地が開発され、あれよあれよという間に高台にできた街になってしまいました。
住宅街を通って、半分、ハゲ山になった城山の麓に行くと、城郭公園という小さな矢印があり、ここを登っていくと城跡に到達します。木津の町が見下ろせ、なかなか眺めがよいです。ですのでスーツでも登れます。
城跡は頂上にありますが、東西南北50メートルほどの土塁に囲まれた曲輪が見事に残っています。史跡公園として整備されているので藪も木もなく、曲輪がそのまま見られるのがいいですね。曲輪に入る土橋や堀もしっかり残っていて土橋は2ケ所ありました。3つの尾根に曲輪が続いていたようですが、これは城山台開発でなくなってしまいました。
地元の国人であった木津氏の木津城とも考えられていましたが、木津城は平城で、木津駅の西側にあったようです。ですので上野山城は街道を抑えるための見張りのために造られたもでしょう。城跡の解説板には地元の農民や土豪が逃げ込んで、たてこもるための城と書かれていました。
多くの城山が住宅地で跡形なく消えていくなか、曲輪の一つだけでも残ったのは幸いですね。
伊勢長島城
名古屋へ専門家派遣に向かう途中、長島駅で下車。
長島というとホワイトサイクロンのあるナガシマ・スパーランドがある所ですが、昔は木曽三川(木曽川、揖斐川、長良川)の河口に点在する島々で構成されていました。
輪中と呼ばれる地帯で、治水に常に悩まされ、徳川幕府が薩摩藩に三川を分流する工事を命令します。薩摩藩では多額の費用と犠牲をはらって工事を行い、これが千本松原になっています。工事を指揮した薩摩藩士平田靱負は完成後に切腹しています。
長島は伊勢湾台風でも甚大な被害をうけ、町の数カ所に棒が建てられ伊勢湾台風の水位が刻まれていました。3メートルぐらいの頭上ですので、町は完全に水底になったんですね。
■信長との戦いの舞台 長島一向一揆
戦国時代は長島を舞台に本願寺門徒と信長が戦いました。石山本願寺に呼応して決起し、結局、4年もの長期の戦いになりました。一揆といっても島の要塞を攻める攻城戦です。織田方は甚大な被害を受け、織田信長の弟や親族の多くも戦死、西美濃三人衆の一人である氏家卜全は逃げる時の殿(しんがり)となり討ち取られています。
鎮圧した後は滝川一益が居城とし、賤ヶ岳の戦い後、織田信雄の居城となります。江戸時代は長島藩がおかれました。本丸跡などは小学校や中学校になっており、堀跡が水路として残っています。大手門が近くの寺に移築されて残っています。
原田城
善照寺砦
先日、沓掛城へ行ったついでに善照寺砦へ寄ってきました。
織田信長は今川方だった鳴海城の周りに丹下砦、善照寺砦、中島砦を築き、封鎖をします。
鳴海城は名鉄・鳴海駅のすぐ近くにあり、見晴らしのよい公園になっています。城は台地の西側端に造られていますので織田方を意識した防御になります。もともとは信長のお父さんだった織田信秀に従っており今川に対する城として造られました。室町時代に造られて廃城になっていた城を再利用しましたが、なんで西の端にしたのでしょう。
信長が造った砦ですが、丹下砦、中島砦は住宅地になってしまって遺構はなし、善照寺砦跡だけは公園の形で残っています。善照寺砦を守っていたのは佐久間信盛ですが、砦は台地の東の端、つまり今川に対して造られています。砦はけっこうな高台に造られていて台地の西へ行けば、鳴海城を見下ろすことができそうです。そもそもなんで鳴海城をこっちに造らなかったんですかねえ。
織田信長は清州城を出発し、熱田神宮で兵が集まるのを待った後、丹下砦、善照寺砦、中島砦をへて桶狭間へ向かいます。この桶狭間ですが、昔は桶廻間と呼んでいました。清水が湧き出る地域で、水の勢いで桶がくるくるまわったことから桶廻間という地名がついたようです。