津堂城山古墳を活用した小山城

津堂城山古墳
後藤又兵衛が亡くなった小松山から石川を渡ると、道明寺です。
ここには古市古墳群があり、藤井寺と八尾の境に津堂城山古墳があります。前方後円墳なんですが、南北朝時代に古墳の地形を利用して小山城が築かれました。河内国・守護職畠山氏の時代は古市にある高屋城が主城でしたが、安見氏を小山城に入れて高屋城の支城にしたようです。高屋城、小山城だけでなく近くにある丹下城も大塚山古墳を利用していて、この辺りの城は古墳ばかり活用しています。リサイクルですねえ。
小山城は古墳の丘陵を使って本丸、南西下に二ノ丸、堀を挟んで南西に三ノ丸と続いていました。城にしてしまったので古墳の形が崩れ、明治の頃は古墳ではなく城跡だとみんな思っていたようで、本丸などの小字名がつけられていました。ところが明治の終わりぐらいに石棺などが発見され、宮内庁はあわてて発見された後円部頂部を陵墓参考地に治定しました。この頂部以外は立入ができますが、城跡というより古墳の雰囲気ですねえ。
スーツ姿で十分に登れる城です。

14もの曲輪などが見つかった高取城

高取城
昨日の朝刊を見て、驚いたのが高取城の記事。
高取城とは、奈良にある日本三大山城の一つです。他の2つは岩室城(岐阜)と備中松山城(岡山)。高取城の最寄駅は近鉄・吉野線「壺阪山駅」で、駅から1時間ほど歩くと城の入口に到達できます。入口から350メートルほど登りますので、けっこう足にこたえます。高取城は曲輪の連なった連郭式の山城で、南北朝時代に造られ、幕末まで続いた城です。幕末には天誅組の変の舞台となりました。
高取城では今までもいろいろな調査が行われていましたが新たに空堀や曲輪跡が14ケ所も見つかりました。2013年にヘリコプターで、高取城の上空500メートルからレーザ計測。3次元航空レーザー計測システムを活用し、高取城の精密な立体地図を作成したところ、今までの縄張図になかった曲輪跡や堀切跡が見つかったそうです。
山城の多くは藪で覆われていますので曲輪跡を確認するだけでも大変。有名どころの山城でいいので、続々とレーザー計測をやってくれいなかなあ。三好長慶の芥川山城(高槻)などは、ぜひやってほしいですねえ。
お城ジオラマ復元堂から長篠城、高天神城という、なかなか渋い城のジオラマが発売されていますが、やっぱりオリジナルがよいので、ぜひとも山城の3次元計測データを公開してほしいですね。3次元プリンターを買って、3次元計測データをセットすれば、城の縄張を3次元で表現できます。
今までは縄張図をもって山城へ出かけ、堀切があることは図で分かりますが、深さまでは表現できないので、現地で確認します。3次元縄張を持っていけば自分が曲輪のどこにいるかも一目瞭然。藪で見えない堀切も確認できますので山城巡りが面白くなりそうです。ちょうど募集中の「ものづくり補助金」に応募して3次元プリンターを買おうかなあ。ウーン、絶対に落とされるなあ。(笑)

後藤又兵衛が散った小松山の戦い

小松山
大河ドラマ「黒田官兵衛」では後藤又兵衛を塚本高史が演じていました。来年の「真田丸」では誰が演じるんでしょうね。専門家派遣が昼過ぎに終わったので河内国分へ出かけてきました。
ここは奈良から天王寺へ向かうJR大和路線が通っています。京都から大阪へ大軍が移動するには大阪の東側に生駒山脈があるので、枚方から星田、河内森に入るか、奈良をずっと迂回して河内国分へ出るしかありません。
大坂冬の陣で大坂城の堀は埋められ大坂方は野戦で勝負するしかありません。そこで河内平野に出てくる河内国分の隘路でたたこうと大坂城を出陣。
■小松山の戦い
第一陣の後藤又兵衛が道明寺に着くと徳川軍が既に河内国分に展開していました。後続部隊が到着していませんが、このまま河内平野に入られるとまずいので、徳川軍が河内平野に向かう時、たちふさがる位置にある小松山に陣をはります。大和川がすぐ近くを流れていて進軍できるところが狭いため、小松山から鉄砲を討たれると実にイヤな所です。
小松山は玉手山の尾根にある山のひとつで頂上には老人福祉センター「やすらぎの園」があります。このあたりが激戦地となりましたが、今や住宅地。かなりの坂道で頂上まで上がると息もたえだえですが、眺めはとってもいいです。ハルカスが見えますが、当時は大坂城も見えたでしょう。
後藤隊は善戦し、徳川軍の損害も大きかったのですが、徳川軍は後続部隊が次々、到着するため多勢に無勢、8時間もの激闘の末、後藤又兵衛は戦死、後藤隊は壊滅します。この後、真田幸村が道明寺で徳川軍で一矢むくいますので来年の大河ドラマでも小松山の戦いは出てくるでしょう。

明智光秀が造った坂本城

坂本城
宇佐山城へ行ったついでに坂本城へ寄ってきました。といっても城跡は何も残っていなくって碑があるだけ。中堀跡などは街道に姿を変えています。
坂本城は琵琶湖に面して作られた平城で、造ったのは明智光秀。坂本は比叡山の物資輸送のために港町として繁栄していました。織田信長は宇佐山城の城主となった明智光秀に比叡山焼き討ちの後、滋賀郡の支配をまかせ、坂本城を築城させます。この時に宇佐山城は廃城になったようです。信長は安土城をこの後に作るために坂本城で実験的なことをやっていたようで天守も造られました。一説には姫路城のような大天守と小天守が並び建つ壮麗な城だったそうです。
坂本城内から船に乗り、直接、安土城へ行けました。信長が琵琶湖に長浜城(秀吉)、安土城、坂本城(光秀)、大溝城(織田信澄)の菱型になる湖上ネットワークを作り上げますが、その第一弾となったのが坂本城です。
■坂本城の落城
新暦の6月21日に山崎の戦で敗れた明智光秀は勝竜寺城を抜け出し、坂本城を目指している途中、山城国の小栗栖周辺で百姓らに襲われ亡くなります。明智光秀の重臣だった明智秀満は山崎の戦いでの敗北を聞き、安土城を出て、坂本城へ向かいます既に坂本城は秀吉軍に囲まれていたた琵琶湖を馬を操りながら渡ります。これが名高い「明智左馬助の湖水渡り」。もののけ姫でアシタカがヤックルと一緒に海を渡るシーンが出てきますが、まるで「明智左馬助の湖水渡りだ!」と思った人も多いでしょう。
明智秀満は秀吉方の堀秀政に城にあった先祖代々の家宝を明け渡した後、天守に火を放ち、光秀の妻子もろとも落城。そんな潔い人物だったので安土城を退去する際、安土城を燃やしたのは明智秀満ではないのではという説もあります。「本能寺の変 431年目の真実」(文芸社文庫)では徳川家康の別働隊が安土城に火をつけたという説が出ていましたが、これもどうですかねえ。
焼けた坂本城は再建されましたが、後に大津城ができたので廃城となります。大津城、膳所城ともに琵琶湖に面して本丸が造られていて、坂本城がモデルとなりました。
■いよいよ清州会議
織田家の今後を決定する清州会議が来週、7月16日(木)に尾張の清洲で開催されます。出席メンバーは柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興の4名。1582年の今日あたり、秀吉はどう会議を乗り切るか思案に思案を重ねていたことでしょう。

織田信長が危なった宇佐山城

宇佐山城
京都から大津に出るには逢坂関を超える道(国道1号線)と山中超えの2つがありましたが、織田信長はこの2つの道を封鎖し、新たな道を通しました。この新道が現在の県道30号線で、俗にいう山中越えになっています。
この道のすぐ横にある宇佐山山頂に築いたのが宇佐山城。城から新道を見下ろすことができ京都への物流を抑える重要拠点でした。山づたいに行けば敵対していた比叡山ですので、兵站を守る拠点でもあります。城を守っていたのは森蘭丸のお父さん・森可成です。
■志賀の陣
三好三人衆が摂津で起こした野田城・福島城の戦いに織田信長が出かけます。この戦いで突如、起きたのが石山本願寺の参戦。10年におよぶ石山本願寺との戦いが始まります。
滋賀では浅井・朝倉連合軍が信長の背後をつこうと湖西を南下。京都から信長の弟である織田信治が兵を率いて、森可成と合流。坂本で浅井・朝倉連合軍を迎え撃ちましたが、織田軍の数は少なく、比叡山の僧兵まで加わったため森可成、織田信治は討死。
連合軍は宇佐山城も攻めましたが、城兵が守りきり落城を免れます。織田信長は摂津から急遽、宇佐山城の救援に向かいます。浅井・朝倉連合軍は比叡山に入り、こう着状況が続きます。結局、信長は浅井・朝倉連合軍と和議を結ぶことで窮地を脱します。この時が一番、危なかったですね。
■宇佐山城
主郭にはNHKなどのアンテナ施設が建っていますが、信長時代の石垣や堀切などが見事に残っています。大きな郭は3つあり、3の郭からは琵琶湖が一望できます。琵琶湖から見える側の郭はすべて石垣が積まれていたようで、当時はけっこうなデモンストレーションになったでしょう。

近畿の名城を歩く

近畿の名城を歩く
大阪は昨日が曇で、今日は雨という天気予報でしたが逆になりました。
今日はずっと雨だと思っていたので、これだったら城巡りでもしたらよかったな~あ。まあ、昨日は尼ヶ辻への用事のついでに宝来城へ行けたのでラッキー。
というわけでお酒を飲みながら「近畿の名城を歩く 滋賀・京都・奈良編」を読んでいます。ご存じ、「大阪・兵庫・和歌山編」の続編です。
滋賀県
玄蕃尾城/小谷城/下坂氏館・三田村氏館/上平寺城/男鬼入谷城/鎌刃城/佐和山城/彦根城/山崎山城/敏満寺城/安土城/観音寺城/八幡山城/後藤氏館/井元城/小脇館/小堤城山城/佐久良城/中野城/新宮城/土山城/水口岡山城/上鈎寺内/大津城/宇佐山城/壺笠山城/坂本城/清水山城
京都府
大俣城/今熊野城・阿弥陀峰城/金屋城・三縁廃寺/大内城/平山城/日置谷城/栗城/位田城/宍人城/八木城/法貴山城/笑路城/神尾山城/周山城/一乗寺城/北白川城/中尾城/如意岳城/霊山城/峰ケ堂城/聚楽第/御土居/伏見城/山科本願寺/物集女城/勝龍寺城/山崎城/槙島城/田辺城/鹿背山城/笠置山城/田山西の城
奈良県
多聞城/西方院山城/古市城/郡山城/筒井城/番条環濠/立野城/竜王城/布留遺跡居館/菅田遺跡/信貴城/今井寺内町/十市平城/布施城/楢原城/佐味城/佐比山城・多田北城/赤埴城/沢城/秋山城(宇陀松山城)
が掲載されています。縄張図もあり、いいですね~え!

天皇陵じゃなく城跡だった宝来城

宝来城
奈良の尼ヶ辻(西大寺の次の駅)に用事があったので宝来城に寄ってきました。
宝来城といいながら、実は安康天皇陵になっています。古墳を山城にしているケースは多く、大阪なら古市にある高屋城、大塚山古墳を活用した丹下城、大坂冬の陣において徳川秀忠が陣城にした御勝山古墳などがあります。
古墳だと思われていたが実は城だったというところもあり、天王寺公園にある茶臼山古墳。大坂冬の陣では徳川家康の陣城になり、夏の陣では真田幸村の本陣がおかれました、古墳じゃないという説が出ています。
宝来城も同様で、戦国時代の城でしたが、何がどうなったのか宮内庁が城跡を天皇陵にしてしまいました。宝来城は大和の国の国人の一人だった宝来氏の城で松永久秀と戦った記録が多聞院日記などに出ています。
安康天皇陵の北側にまわると堀越しに城跡を見ることができますが、どう見ても櫓台跡だし、土橋があって虎口につながっているところが、よく見えます。こんなに城跡だと分かるところなのに、なんで天皇陵にしてしまったんですかねえ。でも、街中に城跡がそのまま残ったという効果がありました。

本能寺の変は今週、日曜日

備中高松城
備中高松城の戦いシリーズの最終回。(笑)
高松城の周りは湿地帯で城を攻めるには狭い道を行くしかなく、城から狙い撃ち。「のぼうの城」で有名な忍城と同じ沼城でした。ですので高松城の経験があった秀吉は三成に水攻めを命じたのでしょう。
■水攻めの開始
秀吉は高松城を3万の軍勢で囲み、攻めてみましたが敗退。そこで誰もやったことがない水攻めを開始します。工事に着手したのが1582年5月8日。旧暦ですので新暦にすると5月29日となります。完成に12日かかりましたので、新暦の6月9日に完成。足守川の水をせき止めて流し入れ水攻めを開始。
ちょうど梅雨シーズンで、今日のような雨が降り、みるみる水位があがっていきます。後詰(援軍)に来た毛利軍も手が出せず講和の申込をしますが、秀吉は信長に出陣を待って毛利攻めをするために、ノラリクラリと講和を引き延ばします。
■本能寺の変はこの日曜日
信長に京都から来てもらうため山陽道と高松城までの街道を整備し、途中に休憩所なども造っていたのでしょう。秀吉の中国大返しができた理由に、この街道整備が大いに貢献しました。
1582年(天正10年)の今日、秀吉は水攻めの真っ最中。高松城の士気を下げるために石井山の付城で宴会でもやっていたのでしょう。明智光秀は今日、丹波亀山城に入り、出陣の準備をはじめます。信長は安土城にいて、森蘭丸など小姓を連れ京都へ出発するのが金曜日。
本能寺の変は21日(日)になります。来週の月曜日に本能寺の変が秀吉の本陣にもたらさせ、来週から怒涛の人生が秀吉を待つことになります。

宇喜多家の陣跡

宇喜多陣跡
先日行った、備中高松城シリーズ第4段!(笑)
秀吉側で戦った宇喜多忠家の陣跡。八幡山の山頂で、現在は八幡神社が建っています。宇喜多といえば宇喜多直家が有名で、当初は毛利方でしたが後に織田信長に降参しています。これで備前(岡山)は織田方となったため毛利との境目は備中となりました。毛利方の防波堤となったのが備中七城、その一つが備中高松城です。いわゆる境目の城となりました。
宇喜多直家は備中高松城の前年に病没しており、後は嫡男の宇喜多秀家が継ぎましたが、まだ10歳と若かったため叔父の宇喜多忠家(直家の弟)が宇喜多勢を率い高松城攻めに参戦しています。宇喜多忠家が陣をかまえた八幡山の眼下が高松城で、向こう側には堀尾吉晴や秀吉の陣が見えます。なかなか眺めがよい陣跡です。
家督を継いだ宇喜多秀家は秀吉の養女(前田利家の娘)の豪姫を正室として秀吉の一門衆となりました。関ヶ原の戦いでは石田三成と共に戦い敗北。薩摩まで逃げ島津が家康と交渉してくれ、結局、八丈島に流されることになります。83歳まで長生きし、関ヶ原を戦った大名の中では最後に残った一人となりました。

国宝・松江城を造った堀尾吉晴が38歳の時に戦っていた場所

堀尾吉晴陣
先日行った、備中高松城シリーズです。(笑)
秀吉の本陣がある石井山のすぐ前に小高い岡があり、ここに陣を構えていたのが堀尾吉晴。今は神社になっていますが、神社の裏側にまわると堀切が残っていました。
秀吉の家臣団の中でも尾張時代から仕えていた最古参の重臣が堀尾吉晴。今度、天守が国宝となる松江城を造ったことでも有名です。備中高松城の水攻めをしたていた頃は38歳の壮年でした。秀吉の信任も厚く、備中高松城城主の清水宗治が自決した時は検死役を務めています。
備中高松城の戦いが終わり、中国大返しの時の山崎の戦いでは明智光秀軍に対して先手の鉄砲頭として参加し手柄をたてます。九州征伐や小田原征伐にも従軍。小田原征伐の後、関東に移封された徳川家康の旧領・浜松城主12万石に封じれます。秀吉が亡くなった後は徳川家康と結び、関ヶ原の戦いでは東軍側に参加。
やがて松江24万石に封じられ、尼子氏の本拠地だった月山富田城に入りますが、山城だったので平地である松江に松江城を造ります。この時に築城年を記した「祈祷札」が天守につけられました。築城の年代を証明する大事な札でしたが、1937年以降に所在不明となったため松江市が懸賞金500万円をかけて探したところ松江神社にあるのを発見。これが決め手となって国宝の申請をします。札が見つかった松江神社は懸賞金の受け取りを辞退しています。
松江城を造った堀尾吉晴が38歳の時に戦っていたのが、この場所です。