城氏城(伊賀)

城氏城
昨日、掛田城に登った時、すぐ近くに城氏城があるので、こちらにも回ろうとしましたが、なんせ正確な地図なんてないものですから、大雑把に尾根を歩いて行ったら違う尾根に出てしまい。山をさまようことになってしまいました。(笑)
城氏城は室町時代に城氏によって築かれました。天正伊賀の乱では城八太夫という名前が伝わっていますので、城主だったのでしょう。
ようやく城にたどり着いて帰る時に小道から送電鉄塔の保守道を登ると城に入れることが判明。なんとかスーツでも登れる山城です。城には長く続く堀跡が残っていて、主郭には見事な土塁が残っていました。城氏城も掛田城と同様、石垣が使われていたようで石が散乱していました。そして、主郭にはおなじみの青い札がありました。
伊賀上津駅の次の駅が青山町駅なんですが、この駅のすぐ近くにも城氏城があります。3kmほどしか離れていない同じ城氏の城ですから一族の城だったんでしょうね。

掛田城(伊賀)

掛田城
午後から津駅前にあるアスト津でマイナンバーセミナ。私の担当は法人番号の怖さと倒産した会社から個人番号が漏れる怖れがあるといった、各地のマイナンバーセミナーではあんまり聞かれない内容をしゃべってきました。
■スーツはちょっと無理な掛田城
午前は大阪から津へ向かう途中の伊賀上津駅で降りて、掛田城へ。初瀬街道を見下ろす丘陵の端にある山城です。
比高25メートルとあったのでスーツ姿でいけるだろうと登ったのですが、主郭の中は少し藪がありスーツじゃない方がいいですね。(笑)藪の中にある主郭にまでたどりつくと伊賀の城ではお約束の、青い札がかかっていました。
土塁が取り囲んでいますが下部には石垣があり、野面積よりももっと素朴な積み方なんですが戦国時代の伊賀の山城では珍しいです。
■天正伊賀の乱の舞台
掛田城は誰が造った城か分かっている珍しい城。室町時代に富増伊予守によって築かれました。富増伊予守城とも呼ばれています。
伊勢の北畠家を乗っ取った織田信雄が、伊賀を手に入れようと丸山城を築城しますが、城が完成した頃に攻められて敗退。敗れた織田信雄は再度、伊賀を攻めます。これが第一次天正伊賀の乱で青山峠を超えて峠を降りたところにあるのが掛田城。1300の織田軍が取り囲んだのを200の軍勢で守り抜きました。
織田信雄の失敗に信長は怒りますが、今度は信長自身が乗り出してきました。これが第二次天正伊賀の乱。滝川雄利・織田信澄を先鋒に1万の織田軍に囲まれたため籠城は無理と他の城へ落ちのびていきました。

今川義元 最後の夜となった沓掛城

沓掛城
名古屋で専門家派遣でしたので、ちょっと足を伸ばして沓掛へ。ここには今川義元が最後の夜を過ごした沓掛城跡があります。
城主は近藤景春で織田信秀(信長のお父さん)の勢力が強いうちは織田方でしたが、信秀が死ぬと鳴海城ともども今川方になりました。織田家では家督争いもあり、このまま先行きはないと思ったのでしょう。
沓掛城、大高城、鳴海城が今川方となり、境目の城になったのが大高城と鳴海城。織田信長はこの2つの城の周りにいくつもの砦を作り封鎖をはかります。今川方の最前線基地となったのが沓掛城で、今川義元は、ここで軍議を開き、松平元康(のちの徳川家康)に大高城への兵糧入れを、各武将に陣立てを命じます。
義元もまさか翌日、桶狭間山で討死するとは夢にも思っていなかったでしょうね。桶狭間の合戦の後、織田方の攻められ落城。今川義元の居場所を報告し、勲功一番となった簗田政綱が新しい城主となりました。
沓掛城の遺構はよく残っていて本郭をとりまく堀や2つの郭跡が見事に残っています。

野崎城

野崎観音
昨日、飯盛山城へ登る前に野崎城へ登ってきました。
上方落語に「野崎まいり」という話があります。「野崎まいり」というのは野崎観音(大東市にあります)にお参りすること。昔は寝屋川を舟で行く人と、堤を行く人とがいて、互いに悪口をあびせ合う奇習があり、それを題材にしたものです。
この野崎観音は東高野街道沿いから少し高台になったところにあります。この高台の裏手の山にあるのが野崎城。といっても郭跡らしきものが残っているだけです。写真は野崎観音でこの裏山にあるのが野崎城。
太平記では北朝側が野崎城に陣取って、楠正行と対峙したとあります。高さは110メートルほどですが見晴らしがいいので、城には最適ですね。
交通の要所だった東高野街道をおさえることができます。今ではなんてことのない道路ですが、四条畷の合戦やら織田信長の本願寺攻め、大坂の陣など軍を動かす時にはなくてはならない街道でした。
飯盛山城が築かれると田原城などと同様に野崎城は出城として活用されることになりました。

飯盛山城

飯盛山城
だいぶ涼しくなり、まもなく山城シーズンの到来。リハビリをかねて家から一番近い、飯盛山城へ行ってきました。
東高野街道を自転車で30分ほど走ると野崎観音で、ここから1時間ほどかけて飯盛山に登ります。頂上へ登ると京、摂津、河内が一望できます。この頂上一体が飯盛山城。藪蚊もだいぶ少なくなっていました。ハイカーも多かったですね。
飯盛山城は南北朝時代から使われていましたが、有名な城主が三好長慶。徳島県の三好出身です。室町幕府の将軍・足利義晴、義輝を京都より放逐し、三好政権を樹立。織田信長よりも先に天下人となりました。
それまでは高槻の奥にある芥川山城を居城にしていましたが、息子に譲って1560年に飯盛山城へ居城を移しました。飯盛山城には石垣が使われ、芥川山城も石垣が使われていましたので、けっこう早い時期から石垣を使っていたようです。さすがに当時は上まで積む技術がなかったので階段式石段になっています。でも当時はすごい威圧感があったでしょう。
近年、小牧山城の天守近くで同様の階段式石垣が見つかりましたので、信長はこの飯盛山城を参考にしたのかもしれません。

大坂城 乾櫓

乾櫓
乾というのは西北の方角を差し、大坂城の一番西北にある櫓が乾櫓。
大坂の陣で天守閣などが燃えたため、徳川秀忠の命令で豊臣時代の大坂城に盛り土をし建てたのが現在の大坂城。ですので大坂城は太閤さんのお城ではなく、徳川のお城です。その後、天守閣や櫓は江戸時代の火事や太平洋戦争などで燃えてしまいましたが、秀忠によって再建された最古の建物が2つ残っていて、一つが千貫櫓でもう一つが乾櫓。乾櫓はL字型をした櫓です。
■固定資産税免除を家光が決定
徳川幕府による第一期工事が終わった時、大坂や堺の町人代表に通達して乾櫓近くの堀に集めます。大坂の陣で大坂が荒廃してしまったので、大坂、堺の地子銀(固定資産税)を永久免除することにしました。徳川家光が新しく造られた乾櫓に入り、町人に向かって金の采配を振ります。これが地代免除決定の知らせでした。
固定資産税免除に喜んだ町民は恩を忘れないために記念に釣鐘が作られることなりました。釣鐘屋敷が作られ、釣鐘は2時間おきに1日12回撞かれ、大坂中に時を告げることになります。近松門左衛門の曽根崎心中ではお初、徳兵衛の最後の道行に、この鐘を聞くシーンが出てきます。釣鐘屋敷はなくなってしまい釣鐘は二転三転しましたが、今も残っていて、この釣鐘屋敷跡に復活しています。この一帯は釣鐘町と呼ばれています。

大坂城 千貫櫓

千貫櫓
大坂城の大手門(追手門)へ入るには堀を土橋で渡らないといけませんが、この大手門へたどりつくのが大変です。
大手門の横から堀に張り出し、土橋に横矢をかける(横から攻撃)のが千貫櫓。1620年、大坂の陣が終わり、徳川秀忠が大坂城を造り直した時にできた、大阪城内に残るもっとも古い建造物の1つです。
千貫櫓の名前は古く、織田信長が石山本願寺を攻めた時、横矢の攻撃で難渋した櫓があり、信長が「あの櫓を落とした者には、千貫文を与えてもよい」と言ったことに起因しています。
■千貫文っていくら?
永楽通宝1貫文で米4石が買えましたので千貫文となると4000石です。1石は1000合で、成人1人が1年間に消費する量に該当します。1石は約150kgですから現在の米価10kg3,000円で計算すると4万5千円。4000石だと180,000,000円=1億8千万円になります。
戦国時代の軍役は100石につき6人ほどでしたので、4000石ですと4000石/100石×6人=240人となり、240人の兵をまとめる将ぐらいの褒美だったんですね。
■千貫櫓
本願寺が信長と和睦して退去する時に教如が火をつけたようで石山本願寺時代の建物はなくなりました。堀や土塁などはそのままですので、丹羽長秀が城を預り、織田信孝を総大将に四国攻めに向かおうとした、まさにその時に本能寺の変の知らせが届きます。
去年、石谷家文章が発表され、明智光秀の謀反の動機は、この四国攻めを阻止するためという説が注目されるようになりました。いろいろ調べると西美濃三人衆だった稲葉一鉄と斎藤利三との確執もからんでいるようです。
やがて豊臣秀吉が大坂城を造りますが、同じような隅櫓を作り、千貫櫓と名付けたようです。これが秀忠が造った大坂城にも名前が受け継がれたようです。

姫路城

姫路城
姫路城へ、ウチの奥さんと行ってきました。
山城は、誘っても絶対についてこないので(笑)
平山城である姫路城はシルバーウイークということもあり、すごい人。入場券を買うまでに1時間でした。並んでいる間に熱中症で誰か倒れたのか、救急車もきていました。すごい列なので天守閣はあきらめて西の丸などを巡ってきましたが、白いですねえ。
もともとは黒田官兵衛で有名な黒田時代に姫路城が作られ、西の丸にはNHKが作った黒田時代の姫路城ジオラマが展示されていました。秀吉が中国攻めに来た時に秀吉の居城となりましたが、当時の石垣が残っていて、本丸のすぐ下に野面積みがありました。
現在の縄張になったのは池田輝政の時。小牧・長久手の戦いで、父の池田恒興と兄の元助が討死したため家督を継ぐことになり、家康の婿となり西国大名のおさえとして造ったのが姫路城です。

大坂城 多聞櫓 特別公開

枡型虎口
重要文化財である大坂城の櫓が公開されていますので、行ってきました。公開日は22日、23日、26日、27日の残り4日です。
徳川家光が再建した大坂城の大手口は枡形虎口になっています。門を突破した敵をまっすぐに進ませず方向を変えさせ、周りを櫓が囲んでいますのであたふたしている敵を集中砲火で殲滅する入口のことです。戦国時代から虎口(城の入口)を湾曲させていましたが、これを発展させたものが枡形虎口。
武田信玄ら東日本の武将は三日月堀と馬出しをよく使っており、武田の家臣だった真田信繁(幸村)の真田丸も大きな馬出しだったという説があります。西日本でよく使われたのが枡型虎口です。
城は横矢がかかるように屈曲させるのが主流でしたが、これですと中の空間がどうしても歪になります。そこで水堀と四角形の郭パターンを作りだしたのが藤堂高虎。防御力が落ちるのを枡型虎口と多聞櫓でカバーしました。江戸時代は規格化されたこのパターンが使われ、全国どこの城へ行っても同じような縄張になりました。
多聞櫓というのは長屋のような櫓で、もともとは松永久秀の多聞城(奈良市内)で使われ、その名がつきました。大坂城大手口の多聞櫓は江戸時代のもので、ここから枡型虎口をのぞくと簡単に敵をしとめることができそうですね。

秀吉 一夜で墨俣城を築く

墨俣城
穂積(岐阜)で午後から打合せでしたので、その前に墨俣城へ寄ってきました。
All About「企業のIT活用」で「戦国武将に学ぶシステム作り」シリーズをやっており、2002年(13年も前だ!)に書いたのが「秀吉 一夜で墨俣城を築く」。
佐久間など歴戦の武将が失敗した城造りを秀吉がプロジェクトマネージメントを発揮し、短納期で成功したことを描いたガイド記事です。そのために秀吉が行ったのが部品を揃え、組み立て経験(ノウハウ)を磨き、現地で短時間で作業できるようにしたこと。
→ 秀吉 一夜で墨俣城を築く
ともっともらしく書いていますが、これは太閤記に書かれた伝説を元にしています。本当に秀吉が墨俣城を築いたのか、単に守将をまかされただけか、本当の所はよく分かりません。ただ小牧長久手の合戦が終わった後、秀吉は墨俣で茶会を開いていますから、思い出の土地だったようです。
ずっと墨俣城に行ってみたかったので、ようやく念願がかないました。実際に城跡を見てみると2つの川に挟まれた土地で、イカダで城の部材を運ぶのはかなり合理的です。
もっとも城跡には模擬天守が建っていて博物館になっていました。