織田信長が石山本願寺攻めなどに活用した若江城や古市にあった高屋城など市街地にある城は住宅地されるがほとんどですが、奇跡的に市街地に残っているのが交野城(私部城)。京阪交野駅からちょっと歩いた私部に残っています。
もっとも多くは住宅地や畑などになっていますが、郭の形がわかる形で残っていて、交野郵便局の隣には土塁跡も残っています。少し高台に堀で囲まれた形で奈良の筒井城に似ています。
交野城(私部城)は城主が分かっていて河内の武将だった安見右近が築城。松永久秀の配下で、松永久秀の命令で交野城(私部城)を築城したようです。やがて松永久秀とともに織田信長の配下に入り、三好三人衆を交野城(私部城)で牽制していました。ところが松永久秀が信玄の動きにあわせて信長を裏切ります。そうとは知らない安見右近は松永久秀に多聞城に呼ばれて殺されてしまいます。
その後、すぐ松永久秀は交野城を攻めますが、なんとか持ちこたえました。この時に松永久秀が造った陣城が国見山の津田城という説があります。柴田勝家、佐久間信盛らがかけつけて松永久秀軍を撃退します。
いつ城が廃城になったかは分かりませんが、本能寺の変のあとではといわれています。以来、400年以上も城跡が奇跡的に残りましたので、今後も残していってほしいですね。
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とても眺めがよい津田城
連休最後の水曜日、近場の山城へ行こうとJR学研都市線で津田駅(枚方市)へ。津田駅から少し歩いて国見山を目指します。国見山は生駒山地の北方にあり、名前の通り山城、摂津、河内の国を一望できます。遠くは比叡山も見え、目の前は高槻から山崎あたりです。山頂には鯉のぼりが泳いでいました・
この国見山にあったのが津田城。津田氏が造った城と言われ、すぐ近くの飯盛山城から畿内に号令した三好長慶と結んでいました。三好長慶亡きあと、津田氏はもともと本願寺勢力とも通じていたため、織田信長に攻められ落城。発掘調査で焼土層が見つかっており、織田信長の焼き打ち跡ではといわれています。
津田城は、ちょっと変わった城で、長い土塁があり、普通の城とは違い、土塁から標高が下っていく方に郭が造られています。一説には交野城を攻めるために古代寺院の跡地を利用して松永久秀が造った陣城ではないかともいわれています。ただ城跡をみてみると交野方面への防御力が弱く、堀切もないし、どうですかねえ。
本来は国見山の麓に本城があったのですが、こっちは住宅地の開発で壊滅してしまいました。国見山は見晴らしもよくハイキングコースになっていますので、ハイカーがたくさん登っていました。城目当てで土塁の端や郭に登っているような酔狂な人物は誰もいませんでした。(笑)
汗をかいたので帰りに大阪王将でビール&餃子の定番コースを頼み、今年の連休は終わってしまいました。
鎌倉幕府が滅ぶ原因となった千早城
金剛山の登口から急な石段が続いており、この石段をひたすら登ると千早神社境内。ここが、日本史で必ず習う千早城跡。
千早城跡を通って、そのまま金剛山へハイキングできますので、訪れる皆さんは山城マニアではなく、ほとんどがハイカー。神社にお参りしてから神社裏の登山道を通って金剛山を目指します。神社の境内を見て回っているのは私ぐらい。(笑)
神社の裏手に本郭跡があるんですが、神域となっているため立入禁止。本郭以外の郭跡をめぐっておりました。それにしても広い郭ですねえ、大きな郭が4つほどあり、かなりの兵が常駐できました。太平記には1,000名の手勢で立てこもったと出てきますが、十分に常駐できそうです。
郭を歩き回っていると入口の郭から20メートルほど下のところにも郭があるのを発見。崖を降りてみると、かなり広い帯郭でした。後で調べると「馬かけ場」という名前がついていました。千早城は四方が絶壁になっていて、裏手から金剛山へ抜ける道があるだけ、守りやすい城になっています。
後醍醐天皇が笠置山に挙兵。倒幕運動に呼応し、楠正成も挙兵します。鎌倉幕府軍が攻め寄せ、下赤坂城、上赤坂城が落城するなか、楠軍は千早城にたてこもり1,000人の兵で幕府軍100万を相手にしたと太平記に出てきますが、そんなことはなく、1000対数万でしょう。攻めあぐねた幕府軍は向かいの山から100尺(300m)もの橋を掛けて、攻め入ろうとしましたが楠軍に火をかけられてしまいます。楠正成が千早城でがんばっていることで倒幕気運が高まり、新田義貞が鎌倉を攻め、足利尊氏が六波羅探題を攻め、鎌倉幕府が滅亡してしまいます。
太平記の舞台 楠木本城(上赤坂城)
大阪府にある唯一の村・千早赤坂村の赤坂の方にある上赤坂城へ行ってきました。
鎌倉幕府が倒れる原因をつくった楠正成の戦いに登場するお城。出城が下赤坂城、拠点となる本城が上赤坂城、詰城が千早城でした。晴天のゴールデンウィーク、まさか、こんな山城へ来ている観光客はいないと思ったら、いてました。(笑)山城入口に小さな駐車場があるんですが1台留まっています。こちとら暑い中、バス亭から歩いてきたのに。
さて城に入ると堀底道がずっと続きます。神戸の滝川城や高取城と同じ感じですね。一の木戸跡から四の木戸跡まであるんですが、どう考えても上から狙われる構造になっています。鎌倉幕府軍が攻めるのはさぞ、大変だったでしょう。
四の木戸を過ぎると土橋になっています。堀切も見えていて、これが鎌倉時代の城?えらく技巧的だなと思ったら、戦国時代も使われていて改変されているようです。ようやく一番上の本郭にたどりつくとアベックがおりました。駐車場の車の主のようです。デートで山城に登るとは、さすがですなあ。(笑)本郭からの眺めはよく、北摂から神戸の方まで見渡せます。こりゃ、幕府軍の動きもよく分かります。
本郭の周りには広い帯郭がありました。二の丸と書いてある方にも登ってみましたが、こっちには小さな帯郭がいくつも築かれ、堅牢な城に仕上がっていました。上赤坂城は楠正成の死後、正成の三男である楠正儀らが籠城し、落城しました。この時に焼けた建物跡などが発掘調査で出てきたそうです。金剛山の尾根上にあるので、落城しそうになったら、金剛山方面に逃げることができる造りになっています。
楠正成の阪本城(小倉山公園)
昨日、八宮神社へ行ったついでに坂を登ったところにある大倉山公園へ行ってきました。
明治時代に大倉財閥を作った大倉喜八郎の別荘があり、後に神戸市に寄贈されたので大倉山公園という名前になっています。今は神戸市中央図書館や野球場があります。
大倉喜八郎は渋沢栄一らと共に、鹿鳴館や帝国ホテルを作り、他にもいろいろな会社を設立していますが、大倉火災海上保険が今の「あいおいニッセイ同和損害保険」になっています。
この大倉山公園ですが、高台にあり、楠正成が造った阪本城跡と言われています。九州から攻め上ってくる足利尊氏に備えるために造ったそうなんですが、詳しいことは分かりません。実際に坂を上がってみると、山城の郭のような部分がけっこうあり、十分に攻城戦ができそうです。
徳川光圀が正成の墓に碑を建て、後に湊川神社となったところは坂を降りたすぐの所にありますが、すぐ近くに攻城戦ができる丘があるので湊川の戦いは大倉山公園で行われたのでしょう。太平記の映画やドラマで、海岸沿いで足利軍と楠軍が戦うシーンが出てきますが、湊川神社近くが戦いの舞台なら、城攻めだったんでしょうね。
戦国時代、荒木村重が織田信長を裏切った時、荒木村重の花隈城を攻めるため、信長側の池田信輝が砦を構えた場所でもあります。今は何も残っていません。
楠正行の神感寺城
天気もよいから、前から行きたかった神感寺城跡に行こうと、まずはネットで神感寺を検索。奈良と大阪を結ぶ暗峠から行けることを確かめて家を出発。
枚岡公園から暗峠を目指しますが、せっかくだからハイキングコースを行こうと思ったのがウンのツキ。歩いていると、いかにも土塁が続いていて虎口(城の入口)のような所を発見。こりゃ、見つかっていない城跡ではないかなと藪の中へ(笑)。日本には、まだまだ見つかっていない山城跡がかなりありますので、見つけるチャンスはあなたにもあります!
藪の中を進むと空堀跡と土塁を発見。ところが空堀と思う所がグニャグニャ曲がっています。どうも違うな~あ。昔の山道跡のようでした。気を取り直して暗峠を目指しますが、途中で道を間違えてしまい、結局は標高642mの生駒山頂へ。山頂から尾根伝いに150mほど降りて、暗峠へ。150mも、余計に登ってしまいました。
暗峠から山道に入って神感寺へ。今も小さな寺はありますが、もともとは山岳寺院の神感寺があり、発掘では東西200m,南北250mに大伽藍があったことが確かめられています。神感寺は奈良時代末に創建され、鎌倉時代に大いに栄えます。
南北朝時代には楠木正行が城塞化し、神感寺城になっていました。眺めがよいので見張り用だったのでしょう。四条畷の戦いでは北朝方の佐々木道誉軍に攻められ焼失してしまいます。佐々木道誉と言えば婆沙羅大名で有名ですね。山門近くの藪の中に入り込んでみると、平坦地などが残っていましたが、明確な城跡はありませんでした。
足利義昭も訪れたかもしれない越水城
西宮・廣田神社の南側にあったのが越水城。今も城山や、麓には城ケ堀町という地名が残っています。
近くを西国街道が通っており、交通の要衝でした。瓦林城や芦屋の鷹尾城を造った瓦林正頼が本城として越水城を造り、瓦林城を支城にしたようです。城跡は残っておらず現在は住宅街になっていますが、けっこうきつい急坂。ここに郭を配置したのでしょう。こんなところを自転車で登るのはめちゃくちゃ大変。瀬戸内海を見下ろせる高台で、いかにも空堀だったという跡が道路に残っています。 こんな住宅街をアチコチ見ながら歩いていますので、相当に怪しいオジサンです。(笑)
交通の要衝だったので、よく戦いに巻き込まれ、城は取ったり、取られたり。三好長慶が頭角をあらわすと越水城は三好長慶の拠点になります。三好長慶の地盤である阿波と京都を結ぶ途中にありました。三好長慶は高槻にある芥川山城を新しい拠点にし、信長より先に天下布武を果たします。13代将軍・足利義輝が三好三人衆・松永久秀に殺害され、擁立された足利義栄は越水城に入城し、やがて摂津富田に移って14代将軍に就任します。
ところが足利義昭を擁した織田信長が岐阜を出立。近江の六角氏をけちらして摂津に進軍してきます。松永久秀は信長につき、三好三人衆勢は四国へと追っ払われます。越水城は義昭家臣の和田惟政が守ることになりました。義昭自身も入城したとの説があります。その後も越水城は戦乱に巻き込まれ、さすがに嫌気がさした住人が信長に頼んで廃城にしてもらい、これが西宮発展につながったようです。
瓦林城
午後から尼崎で仕事でしたので、少し早い目に出て西宮へ。
阪急・西宮北口から線路沿いに15分ほど歩くと武庫川の手前に日野神社があります。ここが瓦林城跡。阪急の線路のすぐ脇です。
城跡は何も残っていませんが昭和初期まで周辺に陣場、城ノ前、城ノ東などの字名が残っていたので、このあたりが城跡だったことは間違いないようです。境内の林が戦国時代から続く原生林になっています。
赤松氏の家臣である貴志義氏がこの城で戦った記録があり鎌倉時代末期には城があったようです。貴志氏は現在の三田市にあった貴志荘出身の武将になります。
やがて菅原道真を祖とする河原林氏(瓦林氏)が三河から移住してきました。河原林氏は足利尊氏の家臣でいた。河原林氏は、この瓦林城と近くにある越水城、芦屋にある高尾城、尼崎の富松城のあたりを支配していました。
日野神社は瓦林城の鎮守として城内に作られたようです。そこへ織田信長が摂津に進攻してきます。河原林氏は織田方を選びましたが、信長と敵対する阿波の三好勢に攻められ瓦林城は落城してしまいます。
家康のお祖父さんが殺された守山城
名鉄瀬戸線・矢田駅近くにあるのが守山城。矢田川沿いの高台に造られた城です。川の向こうにはナゴヤドームが見えます。城跡のほとんどは現在、宝勝寺境内になっていますが、郭の一部や空堀跡が見事に残っています。郭の上に立つと周りが一望できます。
三河を統一した松平清康(家康のお祖父さん)が尾張に進軍。織田信秀(信長のお父さん)の弟・信光が守る守山城を攻めます。もっとも信光とは話ができていて戦わず開城したという説もあります。松平清康は、この守山の陣の最中に家臣に殺害されてしまいます。この時に使われた刀が村正だったという説があります。25歳の若さでした。もっともなぜ殺されたのか詳しいことはよく分かっていません。これが守山崩れと後世、呼ばれるようになります。
松平軍は三河へ引き返しましたが、長男の松平広忠(家康のお父さん)はまだ13歳。弱体化したため、松平氏は今川氏の傘下に入ることになります。よくテレビや映画で今川の人質になった家康を三河武士が田を耕しながら待ちわびるシーンにつながります。(あのイメージは江戸時代に作られたものです)
家康のお父さんである松平広忠も24歳でなくなっています。死因はよく分かっていません。家康がなぜ、あんなに健康に気を使ったのは2代続けて若死にだったからでしょう。守山城ですが、桶狭間の戦いで織田信長が勝利し、今川の脅威もなくなり廃城となりました。
伊勢・金井城
金曜日、桑名で午後から仕事でしたので、その前に西桑名駅から軽便列車の北勢線に30分ほど乗ると大泉駅へ。
場所はいなべ市員弁町になります。駅からちょっと歩くと北金井という地になり、ここに金井城跡があります。いろいろな山城に行きましたが、城用の駐車場があるのを見たのは始めて。手製の看板ですので、地元の人が作ったのでしょう。いつも城の入口を探すのが大変なんですが、とっても分かりやすくなっています。
看板近くに城の入口があり土橋を渡って城の中に入れます。主郭の中はヤブだらけですが、主郭を巡っている土塁を巡ることができ、ところどころに横矢がかかる張り出しがあり、なかなか見応えがあります。だた、スーツで行くのは、あまりおすすめしません。(笑)
金井城を造ったのは種付氏で、種付氏は近江国神崎郡種付郷が発祥です。近江守護だった佐々木が六角氏と京極に別れますが、近江南部を支配した六角氏の系統です。八風街道経由で八日市へ行けますし、鞍掛峠越えで多賀大社(彦根)へ抜けられました。
金井城は境目の城だったので美濃国守護の土岐氏とも2度ほど戦い、しりぞけました。最終的には織田信長に攻められ、滅びます。
→ 金井城の動画